【第3話】視察に来た元副官が、目の前で悶え苦しみ始めました。私はただ、最高のお茶をお出ししただけなのですが
リーネがカステル辺境伯邸にやってきてから、一週間が経過した。
屋敷は見違えるほどに清められ、死の淵にいたジークヴァルトは、今や自らの足でしっかりと立ち、執務机に向かえるまでに回復していた。
まだ体つきは細いものの、包帯が取れたその素顔は、切れ長の瞳が鋭く光る、息を呑むような美貌の青年騎士だった。
「リーネ。……あまり根を詰めすぎるなと言っただろう。そんなに屋敷中を磨き上げて、疲れてはいないか?」
ジークヴァルトは、お茶を運んできたリーネをそっと手招きし、あろうことか自分の膝の上に座らせようとする。
「閣下、お仕事の邪魔ですわ。それに、私は地味な掃除女ですから、動いている方が落ち着くんです」
「……君を『掃除女』などと呼ぶ奴がいれば、私がこの手で八つ裂きにする。君は私の恩人であり、誰よりも尊い妻だ」
ジークヴァルトの声音には、一週間前にはなかった熱い響きが混じっている。彼はリーネの細い指先を取り、愛おしそうに何度も口づけを落とした。
リーネが赤くなって縮こまっていると、不意に階下から騒がしい足音が響いてきた。
「失礼いたします、閣下! 王都より、近衛騎士団副団長のバルトロメウス様が、閣下の『視察』に参られたと……!」
執事ハンスの困惑した声。
ジークヴァルトの瞳が、一瞬で氷のように冷たく冴え渡った。
「……来たか。私が死んだという報せを、今か今かと待ちわびていた連中の差し金だろうな」
◆
応接間に現れたのは、金色の髪をなびかせた、傲慢な笑みを浮かべる男だった。
かつてジークヴァルトの部下でありながら、彼が呪いに倒れた途端、その座を奪い取ろうと画策していたバルトロメウスだ。
「やあ、ジークヴァルト! 見舞いに来たぞ。……おや、まだ生きていたのか。てっきり、もう土の下だと思って……」
バルトロメウスの言葉が、凍りついた。
目の前に立つ男は、車椅子に揺られる廃人などではなかった。
漆黒の礼装に身を包み、以前よりも増して神聖な魔力を纏った、かつての「最強の騎士団長」そのものだったからだ。
「……バルトロメウス。わざわざ辺境まで、私の健在を確認しに来るとは感心だな」
「な……っ、バカな! その呪いは、絶対に解けないはずだ! あの方が仰っていた、大陸最高の呪術師が……っ」
口を滑らせたバルトロメウスが、慌てて口を噤む。
ジークヴァルトの瞳が、獲物を狙う猛禽のように細まった。
「ほう。……『あの方』とは誰のことだ? そしてなぜ、君が私の呪いの詳細を知っている?」
「そ、それは……! とにかく、そんな怪しい治癒は禁忌のはずだ! そこの地味な女、お前が何か良からぬ術を使ったのではないか!?」
バルトロメウスの矛先が、横で控えていたリーネに向く。
リーネは丸眼鏡を押し上げると、おっとりと首を傾げた。
「良からぬ術なんて、とんでもない。私はただ、閣下のお部屋とお体を『お掃除』させていただいただけですわ。あ、お客様、長旅でお疲れでしょう? お茶をどうぞ」
リーネは、淹れたてのハーブティーをバルトロメウスの前に置いた。
それは、リーネが【洗浄】で極限まで不純物を取り除き、彼女自身の魔力が溶け込んだ、ある種の「究極の浄化触媒」だった。
「ふん、お前のような不気味な女が淹れた茶など……っ!」
バルトロメウスは苛立ち紛れに、その茶を一気に飲み干した。
――その瞬間。
「……がはっ……!? な、なんだ、これは……身体が、焼ける……っ!!」
バルトロメウスが突然、喉を掻きむしりながら床に転がった。
彼の綺麗な顔が、みるみるうちに赤黒く変色し、ジークヴァルトが患っていたのと全く同じ「ただれ」が浮かび上がってくる。
「……ひ、酷い……っ! 呪いが……俺に、逆流して……ぎゃあああああ!!」
床にのたうち回るバルトロメウスを見て、ジークヴァルトは冷徹に理解した。
リーネの浄化魔法【神域の純浄】。それは、汚れを消し去るだけではない。
邪悪な力を「本来あるべき場所(術者や共犯者)」へと、何倍にも強化して強制返送する――恐るべき『呪詛返し』の性能を持っていたのだ。
バルトロメウスが呪いの媒介となっていた魔道具を身につけていたか、あるいは術者と「視覚」や「魔力」を共有していたために、リーネの清浄な力が逆流の道標となったのだろう。
「リーネ……。君は本当に、とんでもないものを『掃除』してくれたな」
「えっ? 何か変なものでも入っていましたか? おかしいわ、茶葉もしっかり洗浄したのに……」
おろおろと心配するリーネを、ジークヴァルトは力強く抱き寄せた。
バルトロメウスは、顔中を包帯で巻かなければならないほどの重傷を負い、護衛の騎士たちに引きずられるようにして屋敷を逃げ出した。
静寂が戻った応接間で、ジークヴァルトはリーネの耳元に唇を寄せた。
「リーネ……。君が私に施してくれたのは、ただの治療ではなかったのだな」
「……閣下?」
「君は、私の敵をすべて焼き払い、私の魂まで清めてしまった。……もう、絶対に離さない。君を狙う者も、君を馬鹿にする者も、すべて私がこの手で排除しよう。君はただ、私の腕の中で笑っていればいい」
ジークヴァルトの腕の力が、逃げ場を塞ぐように強まる。
その瞳には、救世主への感謝を超えた、暗く、深い、独占欲の色が渦巻いていた。
「……あの、閣下。苦しいですわ」
「言っただろう。二度と離さない、と」
リーネは首を傾げながらも、彼の胸板に伝わる力強い鼓動に、少しだけ胸が高鳴るのを感じていた。
地味な自分に、こんなに熱い視線を向けてくれる人がいる。
けれど、リーネはまだ知らない。
今、王都の地下で、ジークヴァルトに呪いをかけた黒幕たちが、突然の「呪詛返し」によって壊滅的な打撃を受け、パニックに陥っていることを。
そして、彼女が淹れた「ただのお茶」が、王国の勢力図を塗り替えようとしていることを。




