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【第29話】温泉上がりの「作戦会議」です。……ノア様、帝国の本拠地が『ゴミ屋敷』だなんて放っておけませんわ!

 高原の温泉郷アルプスを覆っていた「黒い氷」がリーネの手によって洗い流された翌日のこと。

 温泉郷の宿『アルプス・グランド・スパ』の最上階にあるテラスでは、王都での喧騒が嘘のような、穏やかな夕涼みの時間が流れていた。

 湯上がりのリーネは、淡いすみれ色の薄手のドレスに身を包み、温泉の効果でさらに透き通るような白さを増した肌を、夕暮れの風に晒している。


「……ふぅ。やっぱり、お掃除の後の温泉は、格別ですわ。閣下、見てください。あちらの山脈まで、空気が澄んでいてクッキリと見えますわ」


「ああ。……だが、私の目には君のその横顔しか映っていないがな」


 ジークヴァルトは、テラスの長椅子に深く腰掛け、当然のようにリーネを自分の膝の上に乗せていた。彼は彼女の細い腰を片腕でしっかりと抱き寄せ、もう片方の手で、湯上がりの熱を持った彼女の頬を愛おしそうに撫でている。

 呪毒から解放され、リーネの浄化を浴び続けた今のジークヴァルトは、かつての「死神」の面影はどこへやら、その美貌には生命の輝きが満ち溢れている。だが、その瞳に宿るリーネへの執着心だけは、浄化されるどころか、磨かれるたびに鋭く、深く、結晶化していくようであった。


「……君は、磨けば磨くほどに美しくなるな。……正直なところ、このままこの高原に君を隠し、誰の目にも触れさせたくないという誘惑と戦っているところだ」


「閣下、またそんな極端なことを。……私は、ただの地味な掃除女ですのに」


「地味、か。……世界中の富をかき集めても、君の指先一本分、この清らかさには届かないというのに」


 ジークヴァルトがリーネの項に唇を寄せ、甘い言葉を囁こうとした、その時だった。


「――師匠! 閣下! 大変なことが分かりました!」


 テラスの扉が勢いよく開き、弟子ノアが血相を変えて飛び込んできた。

 彼女の腕の中には、魔獣ホコリが「キュイイ!」と切迫した声を上げながらしがみついている。ノアの法衣の裾は泥に汚れ、手には山頂の帝国の残骸から回収してきたと思わしき、禍々しい黒い羊皮紙が握られていた。


「ノア。……人の、いや、夫婦の時間を邪魔するとは良い度胸だな。その報告に命を懸ける価値があるのだろうな?」


 ジークヴァルトの周囲の空気が一瞬で氷点下まで下がり、凄まじい魔圧が放たれる。だが、今のノアは師匠への忠誠心と使命感で、その恐怖を跳ね除けた。


「閣下、殺気は後でいくらでも浴びます! これを見てください! 山頂で自滅した帝国の魔導師たちが持っていた『極北の指令書』です!」


 ノアがテーブルに広げたのは、不気味に脈打つ黒い魔力の文字が記された地図だった。

 そこには、大陸の最北端、永久凍土の彼方に位置する魔導帝国の本拠地――『極北の氷城』の座標が記されていた。


「師匠、あそこは今、とんでもないことになっています。……帝国は長年、禁忌の魔力を酷使しすぎたせいで、排出された『魔力のすす』を処理しきれず、城全体に積み上げているのです。そのゴミが限界に達し、溢れ出したものが……世界を黒く塗りつぶす呪いの雪『大いなる冬』の正体でした!」


「……魔力の煤が、積み上がっている?」


 リーネのアメジスト色の瞳が、スッと細くなった。

 彼女にとって「魔力の煤」という言葉は、政治的な脅威でも軍事的な兵器でもない。それは、最も忌むべき「放置された汚れ」を意味していた。


「はい。彼らは自分たちの排出物を掃除せず、ただ溜め込み、それを他国へ放流することで、自分たちだけが『純粋な魔力』を独占しようとしているのです。……あそこは今、大陸最大の『不法投棄場』と化しています!」


「不法……投棄。……自分たちのゴミを、世界に撒き散らしているというのですか?」


 リーネの声が、これまでにないほど低く、そして静かに震え始めた。

 彼女はジークヴァルトの膝の上からスッと立ち上がり、真っ直ぐに北の空を見据えた。

 彼女の脳裏には、自分たちが捨てた汚れのせいで、カステル領の麦畑が枯れ、ヴィネーゼの運河が泣き、この温泉郷が凍りついた光景が、パズルのピースが繋がるように浮かび上がっていた。


「……信じられませんわ。……世界を自分の家のように大切にせず、そんなにまで汚しておきながら、平気な顔をして笑っていらっしゃるなんて。……ノア様、その氷城は、つまり『世界一のゴミ屋敷』ということですのね?」


「……ええ、左様です。それも、何千年も掃除されていない、最悪のゴミ屋敷です」


「……分かりました。……お掃除、しましょう」


 リーネは、拳を握りしめ、かつてないほどの義憤を燃え上がらせた。

 ジークヴァルトは、その隣に立ち、彼女の燃えるような意志を感じ取った。彼は彼女を止めようとはしなかった。いや、彼女が「磨く」と決めたなら、その道を切り拓くことこそが自分の使命だと、確信していた。


「……リーネ。相手は一国、いや、世界を呪いで塗り潰そうとする巨大な魔導帝国だ。……これは、ただの掃除では済まない。戦争になるぞ」


「閣下。……お掃除を邪魔するものがいるなら、それを退けるのもお掃除の一部ですわ。……そんなに汚れたままでいたら、世界中の人々が病気になってしまいます。……私、そんなの、絶対に嫌ですもの!」


 リーネの無自覚な、けれど圧倒的な聖女の覚悟。

 ジークヴァルトは、その眩しさに降参したように溜息をつくと、彼女の肩を力強く抱き寄せた。


「……ふん。ならば決まりだ。……ハンス! ノア! 今すぐカステル領へ伝令を送れ。辺境伯騎士団全軍を、これより『世界大掃除遠征』の護衛として動員する! ……リーネが望む最高級のブラシと、洗浄石の予備を、荷馬車百台分用意しろ!」


「キュイイイ!」


「はい、閣下! ……師匠、私、地図とブラシを握りしめて地獄の果てまでお供します!」


 ノアが瞳を輝かせて叫び、ホコリがリーネの足元で勇ましく跳ねる。

 二人の甘いハネムーンは、ここで終わりを告げた。

 だが、それは同時に、一人の地味な掃除女が、大陸全土を覆う巨悪という名の「汚れ」を根こそぎ丸洗いするための、伝説の進軍の始まりでもあった。


「……さあ、行きましょう、閣下。……世界中の詰まりを通せば、きっと、もっと素敵な明日が見えるはずですわ」


「ああ。……君の指先が、この汚れた世界をどれほどピカピカに変えてしまうのか。……その特等席は、誰にも譲るつもりはないからな」


 夕焼けに染まる高原に、二人の誓いと、新たな戦いへの高揚感が満ちていく。

 最強の死神と、無自覚な掃除聖女。

 彼らの矛先は、ついに世界を凍てつかせる魔導帝国の心臓部へと向けられた。


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