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【第28話】高原の温泉郷へ。……閣下、お湯が凍っているのは、お掃除のやりがいがありますわ!

 水の都ヴィネーゼの運河を、まるで新品の鏡のように磨き上げ、帝国の不吉な「杭」を引っこ抜いたリーネ一行。都の元首たちによる熱烈な見送りを背に、魔導馬車は次なる目的地、大陸随一の保養地として名高い『高原の温泉郷アルプス』へと向かっていた。

 標高の高いこの地は、真夏でも涼やかな風が吹き抜け、古くから「万病を癒やす白濁の湯」が湧き出る聖地として、多くの貴族や旅人に愛されてきた場所だ。


「……閣下。見てください、山々の頂に、まだ白い雪が残っていますわ。空気がとても澄んでいて、お洗濯物がよく乾きそうです」


 馬車の窓から身を乗り出し、リーネはアメジスト色の瞳を輝かせた。

 ジークヴァルトは、高地の冷気に身を震わせたリーネの肩に、そっと厚手の毛布をかけ、そのまま彼女を自分の胸の中へと引き寄せた。


「……リーネ。ヴィネーゼでは到着早々、運河に潜るなどという無茶をさせた。今度こそ、君をゆっくりと休ませたい。……アルプスの湯は、肌を真珠のように滑らかにすると聞く。君の疲れを、その湯で根こそぎ洗い流すといい」


「はい、閣下。……でも私、温泉の成分を詳しく調べてみたいのです。もし、この地の鉱石にお掃除の効能があれば、新しい石鹸の材料になるかもしれませんもの」


「……君という女性は、休んでいる時も掃除のことばかりだな」


 ジークヴァルトは、呆れたように、けれどこの上なく愛おしそうにリーネの額に口づけを落とした。彼にとって、ハネムーンの真の目的は、リーネを誰にも邪魔されずに甘やかし、彼女の笑顔を独占することにある。だが、その願いは、温泉郷の入り口にたどり着いた瞬間に、不穏な影によって遮られることとなった。


 ◆


 馬車が温泉郷のメインストリートに入った瞬間、一行を襲ったのは、高原の爽やかさとは無縁の、肌を刺すような「異常な冷気」だった。

 街道の街灯には氷柱が下がり、道行く人々は厚いコートを着込み、肩を震わせて足早に去っていく。


「……おかしいですわ。今は真夏のはずなのに、どうしてこんなに凍りついているのかしら」


 リーネが窓を開けると、そこには衝撃の光景が広がっていた。

 この温泉郷の象徴である、湯煙が立ち上るはずの大露天風呂。それが、今は不気味な「黒い氷」に覆われ、カチカチに凍りついているのだ。本来ならもうもうと立ち上るはずの湯気は一切なく、ただ冷たい死の沈黙がそこを支配していた。


 到着した宿『アルプス・グランド・スパ』の主人は、ジークヴァルトの姿を見るなり、涙ながらに膝をついた。


「辺境伯閣下……! よくぞお越しくださいました! ですが、見ての通りです……。数日前から突然、山から吹き下ろす風が凍てつき、すべての源泉が『黒い氷』に変わってしまったのです。……お湯が出なければ、この郷は終わりです。これは、山の神の怒りに違いありません!」


「……山の神の怒り、か」


 ジークヴァルトは、凍りついた湯船の縁に立ち、冷徹な視線を向けた。

 彼は、氷の深層に脈打つ不気味な魔力の波長を即座に感知した。これは自然現象でも、神の怒りでもない。魔導帝国の高度な術師による「熱量奪取の呪い(ヒート・ドレイン)」――周囲の熱を無理やり奪い、氷結させる大規模な妨害工作だ。


「リーネ、下がっていなさい。……これは帝国の魔導だ。私が剣でこの氷の核を……」


「いいえ、閣下。これは剣で斬るようなものではありませんわ」


 リーネは、ジークヴァルトの制止を振り切り、凍りついた黒い氷の表面にそっと指先を触れた。

 普通の人間なら指が張り付くほどの極寒。だが、リーネの【神域の純浄】が、彼女の肌を冷気から守っていた。


「……閣下。これは呪いというより、とっても冷たい『すす』が詰まっているだけですわ。……お湯が通りたいのに、この黒い氷が毛穴を塞ぐように邪魔をしているのです。……お掃除して、詰まりを通さなければなりませんわね」


 リーネの瞳には、恐怖も戸惑いもなかった。

 ただ、「お風呂が凍っているのは不衛生で、何より不便である」という、確固たる主婦の正義感だけが燃えていた。


「ノア様、ホコリちゃん! 準備をお願いしますわ!」


「はい、師匠! 熱伝導率の計算、完了しております。この氷の『汚れ』の急所、ここです!」


「キュイイイ!」


 弟子ノアが地図を広げ、魔獣ホコリが氷の上を滑るように駆け回る。ホコリは氷の表面にこびりついた「冷気の澱み」を、バリバリと食べ始めた。


 リーネは収納袋から、【伝説の洗浄石】を組み込んだ特注の【白銀熊のブラシ】を取り出した。

 そして、ジークヴァルトを振り返り、少しだけ恥ずかしそうに微笑む。


「閣下……。少しだけ寒いので、背中を温めていただけますか? そうすれば、私、全力でお掃除ができますの」


「……っ。……ああ、任せろ」


 ジークヴァルトは、背後からリーネを包み込むように強く抱きしめた。

 彼の内側から溢れ出す圧倒的な熱量が、リーネを保護し、彼女の魔力をさらに増幅させる。


「【洗浄・解凍アイス・パージ】――詰まった冷たさを、根こそぎ磨き落としますわ!」


 リーネがブラシを氷の表面に叩きつけ、一気にゴシゴシと磨き始めた。

 ――キィィィィィィン!!

 静まり返った温泉郷に、クリスタルを砕くような清廉な音が響き渡る。

 リーネがブラシを動かすたび、不気味な黒い氷が白く輝き、内側から「熱」を取り戻していく。


 それは、単に氷を溶かすのではない。

 氷の中に閉じ込められていた「悪意という名の汚れ」を、リーネの魔力が強制的に洗浄し、本来の「熱い源泉」という姿へ還していくのだ。


 パキパキ、パキィィィィン!!


 大きな音と共に、大露天風呂を覆っていた黒い氷に亀裂が走った。

 次の瞬間、ひび割れの奥から、真っ白な湯気が爆発するように噴き出したのである。


「……あら、とってもいいお湯が出てきましたわ!」


 リーネがブラシを振り抜くと、カチカチだった氷は瞬時に透明な湯へと変わり、温泉郷全体を包んでいた冷気が、温かな春のそよ風へと書き換えられた。

 立ち上る湯気は、リーネの浄化魔力をたっぷりと含み、周囲の凍えていた人々の体を一瞬で温め、肌荒れさえも癒やしていく。


「お、お湯だ! お湯が戻ってきたぞ!」

「見てくれ、氷が溶けて、前よりもずっと温かい!」


 ◆


 その頃、温泉郷を望む雪山の頂では、帝国の魔導師たちが血を吐いて倒れていた。

 彼らが数日がかりで構築した「熱量奪取の呪い」。それを、リーネが「汚れ」として根こそぎ磨き落とし、さらに逆流パージさせたのだ。

 自分たちが奪ったはずの熱が、リーネの浄化を経て「聖なる熱」となって戻ってきたことで、魔導師たちは自分たちの術式に焼かれ、カチカチに凍りついて自滅してしまったのである。


 ◆


「……ふぅ。これでようやく、ゆっくりとお風呂に入れますわね」


 リーネは、ジークヴァルトの腕の中で、満足げに微笑んだ。

 温泉郷には活気が戻り、宿の主人は「女神様だ! 温泉の女神様が降臨された!」と、号泣しながら感謝の宴の準備を始めている。


「……リーネ。君の『お掃除』は、もはや理を書き換える域に達しているな」


 ジークヴァルトは、温かくなった湯船を見つめ、苦笑した。

 彼はリーネを再び毛布で包み込み、耳元で熱く囁いた。


「……さあ、約束通り、今夜は二人でこの湯を楽しもう。……冷えた体を温めるのは、温泉だけでは足りないだろうからな」


「閣下……。お外でそんなこと、仰らないでください」


 赤面するリーネを抱きかかえ、ジークヴァルトは最高のスイートルームへと向かった。

 ハネムーン第二地点、高原の温泉郷。

 帝国の「冷却工作」を鼻歌まじりに洗浄したリーネは、今夜、ようやくジークヴァルトと「温かい夜」を過ごすことになる。


 だが、温泉郷の空には、まだ薄っすらと黒い雲が残っていた。

 帝国の本隊が放とうとしている、大陸全土を凍てつかせる「大いなる冬」の足音が、刻一刻と近づいていることを、リーネたちはまだ知らない。


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