【第27話】水の都が真珠の輝きを取り戻しました。……え、運河の底に沈んでいたのは帝国の呪具ですか?
水の都ヴィネーゼの朝は、かつてないほどの静寂と、それに続く爆発的な狂騒と共に幕を開けた。
昨日まで鼻を突く悪臭を放ち、どろりと濁った泥水を湛えていた大運河。それが、朝日が昇ると同時に、底に沈む色鮮やかなタイルの一枚一枚までが透けて見える、クリスタルのような輝きを取り戻していたからだ。
窓を開けた市民たちは、自分たちの目が信じられないといった様子で何度も目を擦り、やがて「奇跡だ!」「真珠の都が帰ってきたぞ!」という地鳴りのような歓声を上げ始めた。
その狂騒の中心地となった最高級ホテル『パラッツォ・ディ・アクア』のスイートルームでは、当の本人が、テラスで爽やかな朝風を浴びながら、満足げに伸びをしていた。
「……ふぅ。やっぱり、お水が綺麗になると、お日様が当たった時の輝きが違いますわね。閣下、見てください。あんなに遠くの橋の下まで、ピカピカに見えますわ」
リーネは、アメジスト色の瞳をキラキラと輝かせ、眼下に広がるエメラルドグリーンの運河を指差した。
その隣で、淹れたてのコーヒーを優雅に口にしていたジークヴァルトは、リーネの腰をそっと抱き寄せ、彼女の寝癖のついた髪を愛おしそうに撫でた。
「ああ。……一晩で都の全運河を丸洗いするなど、正気の沙汰ではないがな。……リーネ、君がスッキリして眠れたのなら、それでいい」
ジークヴァルトは、国家規模の浄化という偉業を「安眠のための掃除」として平然と肯定した。だが、階下ではそうはいかなかった。ホテルのロビーには、この異常事態を聞きつけたヴィネーゼの元首――ドージェ(都知事)をはじめとする要人たちが、青い顔をして詰めかけていたのである。
「……カステル辺境伯閣下! そして夫人! 一体、昨夜何があったのですか!?」
応接間に通されたドージェは、あまりの衝撃に額の汗を拭うのも忘れ、震える声で問いかけた。
リーネは、収納袋から昨夜使い込んだ【白銀熊のブラシ】を取り出し、丁寧に手入れをしながら、申し訳なさそうに小首を傾げた。
「あの、ハネムーンで伺ったのですが、運河の底にあまりにゴミが溜まっていて、お水が泣いているのが聞こえましたので……。少しだけ、お掃除のついでに磨かせていただきました。……やりすぎてしまいましたでしょうか?」
「少し……? 磨いた……? 夫人、この都の運河は数百年、魔導師団が束になっても浄化できなかったのですよ! それを一晩で……っ!」
ドージェが絶句する中、背後で控えていた弟子ノアが、重々しい面持ちで一歩前に出た。彼女の腕の中には、真っ白な毛玉の魔獣ホコリが「キュイ」と鼻を鳴らして収まっている。
「ドージェ殿。……師匠がただ『お掃除』をしただけだと思わないでいただきたい。……ホコリ、あれを見せてあげなさい」
ホコリが口を大きく開けると、中から「ドサリ」と、不気味な黒い輝きを放つ鉄の杭が数本、床に吐き出された。
その杭には、禍々しい紫色の魔力が纏わりつき、表面には隣国『魔導帝国』の不吉な紋章が深く刻まれている。
「……なっ、それは……!」
「【水質汚濁のカース・アンカー】。……運河の底、最も流れが滞る場所に巧妙に隠されていました。これが地脈から魔力を吸い上げ、水を腐らせる毒を放出し続けていたのです。……ヴィネーゼの汚染は自然現象ではなく、帝国による意図的な侵略の準備でした」
ノアの冷静な鑑定報告に、ドージェたちは顔を蒼白にした。
帝国は、この都の生命線である水を汚すことで、国力を削ぎ、無血開城を狙っていたのだ。その恐るべき計略を、リーネは「底に沈んでいた大きなゴミ」として、鼻歌まじりに引っこ抜いてしまったのである。
「……あ、でも、その杭も結構汚れていましたから、少しだけ磨いておきましたわ。……おかげで、毒の成分はもうほとんど残っていませんけれど」
リーネが何気なく言った言葉に、ジークヴァルトが苦笑した。
実際、回収された杭は、リーネの【神域の純浄】によって半分以上が「ただの鉄」へと浄化されており、帝国の最高機密であったはずの呪いさえも、彼女のブラシ捌きの前には無力化されていたのだ。
「……信じられぬ。……我々は、知らず知らずのうちに滅亡の淵に立たされていたというのか。……リーネ夫人、貴女こそが真の『水の女神』だ! 我が都は、貴女に何と礼をすれば良いか……!」
ドージェをはじめとする要人たちが、一斉にリーネに向かって深く頭を下げ、中には感極まって泣き出す者まで現れた。
かつての「地味な掃除女」が、今や一国の命運を救う伝説の存在として、隣国でさえも称えられようとしていた。
「礼などいらん。……私は、妻とのハネムーンを邪魔されたくないだけだ」
ジークヴァルトは、跪こうとする者たちを圧倒的な魔圧で制止し、リーネを自分の後ろに隠した。
「……だが、この杭の存在が明らかになった以上、帝国が黙っているとは思えん。……ドージェ、この件は公式に帝国へ抗議しろ。……リーネは私が守る。君たちは自分たちの都を二度と汚させないよう、しっかりと『後片付け』をすることだ」
「……は、はっ! 仰せの通りに、辺境伯閣下!」
◆
数時間後。ドージェたちが去った後の静かなテラス。
リーネは、新しく新調された「水の都限定・最高級魔導クロス」で、自分のブラシを愛おしそうに磨いていた。
「……閣下。なんだか、お掃除をすると次から次へと悪いものが見つかってしまいますわね。……帝国の方たちは、どうしてお掃除が嫌いなのかしら」
「……彼らにとって、世界は自分たちの色で塗りつぶすべきキャンバスなのだろう。……だが、君がそれを洗い流してしまう。……帝国にとって、君は世界で最も恐ろしい『敵』だろうな、リーネ」
ジークヴァルトは、リーネの柔らかな手に自分の指を絡めた。
今回の浄化で、帝国の「侵略計画」は大きく狂ったはずだ。だがそれは同時に、彼らがリーネを排除するために、より苛烈な手段を選んでくることを意味していた。
「……怖いですか、閣下?」
「まさか。……君の隣にいることが、今の私にとって唯一の真実だ。……どんな呪いが世界を覆おうとも、私が全てを斬り伏せ、君にお掃除の道を作ってやる」
「……ふふ。閣下は、とっても頼りになる『お掃除の護衛騎士様』ですわね」
リーネは幸せそうに微笑み、ジークヴァルトの胸に頭を預けた。
ハネムーンはまだ始まったばかり。
水の都の「詰まり」を解消した二人は、次なる観光地――そして、帝国が仕掛けたさらなる「汚れ」が待つ場所へと、再び歩みを進める決意を固めるのだった。
運河を流れる水は、どこまでも澄み渡り、二人の未来を明るく照らし出していた。
だが、その裏で。
計画を台無しにされた魔導帝国の「大魔導師」たちが、血走った眼で水晶球を覗き込み、一人の地味な少女の名を、呪いと共に刻み始めていた。




