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【第26話】水の都へハネムーン。……閣下、運河の底に沈んだゴミは私が潜って磨きますわ!

 カステル領の全土洗浄という国家規模の大掃除を終えた数日後。

 辺境伯本邸の玄関先では、これまでにないほど豪華な、それでいてどこか「武装」を感じさせる魔導馬車が、出発の時を待っていた。

 ジークヴァルトがリーネの心身を労うために計画した、遅まきながらのハネムーン。行き先は隣国に位置する、美しい運河と芸術の街として知られる「水の都ヴィネーゼ」である。


「……閣下。あの、荷馬車が三台も続いているのは、私の見間違いでしょうか?」


 リーネは、馬車に乗り込む直前、背後に連なる輸送部隊を見て首を傾げた。二人きりの新婚旅行にしては、あまりにも大掛かりな列である。


「……気にするな、リーネ。中身は君が旅先で不自由しないための最低限の備えだ。……最高級の魔導雑巾予備五百枚、特注の洗浄石触媒、そして君が好む辺境産の茶葉。……それから、万が一都の清掃が行き届いていなかった時のための、私の直属騎士団五十名だ。彼らには観光客に擬態させてある」


「最低限……。閣下、それはもはや遠征の準備ですわ」


 リーネは苦笑したが、ジークヴァルトの瞳は大真面目だった。彼にとって、リーネを領地の外へ連れ出すということは、世界で最も貴重な宝を、野盗や他国の工作員、そして「不衛生な環境」という敵から守り抜くための軍事作戦に等しかったのである。


「キュイ!」


 リーネの足元から、真っ白な毛玉――魔獣ホコリが馬車に飛び乗った。

 ホコリもまた、リーネの「お掃除助手」として旅に同行する気満々だ。向かいの席には、弟子となったノアが、旅装に身を包んで「師匠、旅先での水質調査、完璧にこなしてみせます!」と意気込んでいる。


「……やれやれ。二人きりと言ったはずなのだがな」


 ジークヴァルトは溜息をつきつつも、リーネの隣に座ると、すぐさま彼女の腰を引き寄せて自分の胸の中に収めた。馬車がゆっくりと動き出し、一行は清浄な風が吹くカステル領を後にした。


 ◆


 国境を越え、隣国の平原を抜けること二日。

 一行の前に、巨大な湖の上に浮かぶようにして築かれた美しい水の都、ヴィネーゼが姿を現した。

 無数の運河が街中を網目状に走り、大理石の橋や歴史ある建築物が水面に映えるその景色は、かつて「地上の真珠」と称えられた。


 だが、都の入り口である大運河に差し掛かった瞬間、リーネの表情が曇った。


「……閣下。なんだか、嫌な匂いがいたしますわ」


 リーネは窓を開け、眼鏡の奥の瞳を凝らした。

 遠目には美しく見えるヴィネーゼだが、近づくにつれて、運河の端に溜まったどろりとした「黒いヘドロ」が露わになってくる。水面には油膜が浮き、かつては透明だったはずの水は、深い緑色に濁り、不気味な泡を吹いている。

 何より、リーネの【神域の純浄】の感覚が、街全体を覆う「水の窒息」を感じ取っていた。


「……ああ。最近のヴィネーゼは、原因不明の水質汚濁に悩まされていると聞く。……観光客も激減し、かつての活気は失われつつあるようだ」


 ジークヴァルトが忌々しげに水面を見つめる。

 彼にとっても、リーネを休ませるために選んだ場所が、これほど「汚れて」いるのは想定外だった。


「……ひどいですわ。お水が泣いています。……閣下、あの運河の底を見てください。数十年分のゴミと魔力の澱みが、血管を塞ぐように詰まってしまっています。これでは、都そのものが病気になってしまいますわ!」


 リーネは、拳を握りしめて憤慨した。

 ハネムーンの甘い雰囲気など、不潔な運河を前にしては一瞬で吹き飛んでしまった。彼女の「お掃除魂」は、今や限界突破の兆しを見せている。


「……リーネ。君の言いたいことは分かるが、ここは他国の領土だ。勝手に掃除を始めれば、国際問題になりかねん」


「そんなこと言っていられませんわ! あんなに不衛生なところでゴンドラに乗るなんて、私、怖くてできません! ……まずは、お泊まりするホテルの周りだけでも、磨かせてください!」


 ◆


 到着した先は、運河を臨む最高級ホテル『パラッツォ・ディ・アクア』。

 ジークヴァルトが用意したスイートルームは、本来なら窓から見える夕焼けと運河のコントラストが絶景のはずだった。

 だが、リーネはテラスに出るなり、真下の運河の底を指差して絶叫した。


「……閣下! 見てください、あの大きな沈没船の残骸! あそこにヘドロが絡みついて、巨大な『汚れの塊』になっていますわ! あそこを磨かないと、私、今夜は一睡もできそうにありません!」


「……リーネ。落ち着け。せめてお茶を飲んでから……」


「いいえ! あのゴミと目が合うんです! 『助けて、リーネ』って、運河の声が聞こえるんですの!」


 リーネの瞳は本気だった。

 彼女にとって、汚れた場所を放置して寝ることは、地獄の責め苦に等しい。

 ジークヴァルトは、彼女の熱意に負けた。……というより、不機嫌そうにゴミを見つめるリーネよりも、掃除を終えてスッキリと微笑む彼女の顔が見たかった。


「……分かった。ハンス、ノア、ホコリ。……今夜、深夜に作戦を開始する。……名目は『深夜の極秘水質調査』だ。……リーネ、君は潜るつもりか?」


「はい! 潜って、川底の石を一つずつ、丁寧に磨き上げますわ!」


「却下だ。……君の肌を、そんな汚泥に触れさせるわけにはいかない」


 ジークヴァルトは、リーネの肩を抱き寄せ、有無を言わさぬ口調で告げた。


「……私が魔法で、君の周囲に『絶対清浄空間』の膜を張る。君は私の腕の中で、汚れを気にせずブラシを振るうがいい。……ゴミの回収はノアとホコリに行わせる。……いいな?」


「……閣下。それは、ハネムーンの過ごし方として、正しいのでしょうか?」


「君が笑えるなら、それが正解だ」


 ジークヴァルトは、リーネの頬にそっと口づけを落とした。

 彼の深い愛は、もはや「掃除」という彼女の生き甲斐を、騎士道精神をもってサポートする形へと進化していた。


 ◆


 深夜。月の光が運河を照らす頃。

 水の都の住人たちが寝静まった静寂の中で、二人の影が水面に降り立った。

 ジークヴァルトが指先から放った魔力が、リーネの周囲を球状の透明な膜で包み込む。

 リーネは、その光り輝く膜の中から、自慢の【白銀熊のブラシ】と【伝説の洗浄石】を構えて、気合を入れた。


「……ヴィネーゼの運河さん。今から、とってもスッキリさせてあげますからね」


 リーネが水底に手をかざし、【神域の純浄】を解き放った。

 ――キィィィィィィン!!

 深夜の都に、清廉な音が響き渡る。

 リーネがブラシを一拭きするたびに、水底のヘドロが光の粒子となって消滅し、数百年ぶりに都の「真珠」のような輝きが取り戻されていく。


「キュイ!」


 ホコリが水面を走り、浮き上がってきた汚れを次々と吸い込んでいく。

 ノアは岸辺で、回収されたゴミ(中には貴重な古代の金貨なども混ざっていたが、リーネには興味がない)を整理し、証拠を隠滅していく。


「……リーネ。君の動きは、水中でも見事だな」


 ジークヴァルトは、彼女を背後から支えながら、そのお掃除の芸術に見惚れていた。

 ハネムーン初日の夜。

 二人は甘い語らいの代わりに、水の都の「詰まり」を解消するという、前代未聞の共同作業に没頭した。


 夜が明ける頃、ヴィネーゼの人々は驚愕することになる。

 昨夜まで悪臭を放っていた運河が、一晩で底まで透き通るようなクリスタルの輝きを取り戻していたからだ。

 そしてその中心で、一人の地味な少女が、「ふぅ、スッキリいたしましたわ」と、世界で一番幸せそうに微笑んでいることを、まだ誰も知らない。


 ハネムーンという名の「大陸大掃除」が、今、華やかに幕を開けたのである。


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