【第25話】領地全土の「総仕上げ」です。……あら、そんなところに隠れている汚れ(工作員)さんはどなたかしら?
黄金の温泉で心身ともに深く癒やされた翌朝。リーネの瞳には、休息を経てさらに研ぎ澄まされた「お掃除」への情熱が宿っていた。
別邸のリビングには、王都の地下水道で手に入れた【伝説の洗浄石】が、柔らかなアメジスト色の光を放ちながら鎮座している。リーネは愛用のブラシを丁寧に手入れしながら、隣でコーヒーを飲むジークヴァルトを真っ直ぐに見つめた。
「……閣下。私、決めましたわ。この洗浄石の力を借りて、カステル領全体の『地脈』と『水脈』を、一度まるごと丸洗いしてしまいたいのです」
ジークヴァルトは、カップを持つ手を止めて僅かに目を見開いた。
領地全体を一度に浄化する。それは一国の魔導師団が総出で数ヶ月かけて行うような、国家規模の儀式に相当する。だが、リーネの口から出ると、それは「週末に家中のカーテンを洗濯する」くらいの、ごく当たり前の家事のように聞こえてしまう。
「……リーネ、規模が大きすぎる。君の魔力は底知れないが、一歩間違えれば反動で君の体が……」
「大丈夫ですわ、閣下。私には、閣下が貸してくださる魔力と、この有能な助手たちがいますもの。……ね、ノア様、ホコリちゃん」
「キュイ!」
「はい、師匠! 地脈の流動計算は、この元・異端調査官にお任せください。不浄な澱みを一滴残さず洗い流すための『配管図』、既に作成済みです!」
ノアは、弟子入りしてからというもの、リーネの浄化技術を数値化し、理論化することに心酔していた。彼女が広げた地図には、領地の隅々まで巡る魔力の通り道が、まるで血管のように克明に記されている。
「……やれやれ。君がそう言うのなら、私は全力で君を支えるだけだ。……ハンス、騎士団に命じろ。本日から三日間、領地全土の警備を最大級に引き上げろ。リーネの『お掃除』を邪魔する羽虫一匹、通すことは許さん」
◆
その頃、カステル領の北端、隣国『魔導帝国』との国境に近い断崖絶壁に、数人の影が潜んでいた。
彼らは帝国の隠密部隊『腐敗の牙』。その名の通り、土地を腐らせ、敵国の生産力を奪うことを得意とする、呪術に長けた工作員たちだ。
「……フン。カステル領に聖女が現れたと聞いたが、所詮は田舎の掃除女だ。この『腐食の魔毒』を上流のダムに流し込めば、昨日掘り当てたという温泉も、黄金の麦畑も、一晩で黒いヘドロに変わる」
リーダー格の男が、不気味に波打つ紫色の液体が入った瓶を取り出した。
彼らは高度な「隠密魔法」によって、ジークヴァルトの騎士団の目さえも欺き、誰にも気づかれずにダムの最深部へと潜入していた。
「……おい、何か来るぞ」
工作員の一人が、異変に気づいた。
足元の地面から、ドクン……ドクン……という、心臓の鼓動のような振動が伝わってくる。
それは、リーネが本邸の魔力炉に【伝説の洗浄石】を設置し、ジークヴァルトの魔力を触媒にして、領地全土への「広域洗浄」を開始した合図だった。
◆
「【神域の純浄・全土丸洗い(ワールド・クリーンアップ)】!!」
カステル別邸の魔力炉の前。リーネが両手をかざすと、洗浄石が目を眩むような純白の閃光を放った。
その光は、地面を伝い、水脈を駆け抜け、血管を流れる血液のように領地全体の隅々まで一瞬にして行き渡った。
それは、悪意を持つ者にとっては、この世で最も恐ろしい「光の濁流」だった。
「な……なんだ、この光は!? 隠密魔法が……剥がされる……っ!?」
ダムの淵にいた工作員たちが悲鳴を上げた。
リーネの浄化は、単なる「汚れ」だけでなく、空間に漂う「隠し事」や「悪意」といった、本来その場にあるべきではない不純物をも、容赦なく『掃除』していく。
彼らが纏っていた高度な隠密魔法は、リーネの目には「空間にこびりついた見苦しい煤」として認識され、一瞬で磨き消されてしまった。
さらには、彼らが持っていた『腐食の魔毒』の瓶が、洗浄石の波動に触れた瞬間、パリン!と音を立てて砕け散った。
中から漏れ出した猛毒は、水に触れる前にリーネの魔力によって「ただの清らかな水」へと書き換えられ、逆に工作員たちの衣服や顔をピカピカに洗い清めていく。
「ぎゃああああああ! 俺の殺意が……俺のどす黒い野望が、洗い流されるぅぅぅ!!」
「清々しい……なんて清々しいんだ……! 俺はなぜ、こんな不潔な任務を……」
工作員たちは、あまりの浄化の強さに戦意を喪失し、ダムのほとりで真っ白な輝きを放ちながら、恍惚とした表情で空を仰ぎ見た。隠密部隊としての「黒い気配」を完全に掃除された彼らは、今や暗闇の中でも一目で分かるほど、神々しく発光していた。
「……あそこに、とっても大きなゴミ(不法投棄物)が浮いていますわ、閣下」
本邸にいながら、領地全体の水脈と繋がっているリーネには、ダムの異変が手に取るように分かっていた。
「……ハンス、ノア。……行け。ダムの周辺で『発光している不審者』をすべて回収しろ。……リーネ、君のお掃除のついでに、害虫まで炙り出せるとは、手間が省けたな」
ジークヴァルトは、冷徹な笑みを浮かべて騎士団に出動を命じた。
数分後、抵抗する気力すら失い、魂まで洗濯された工作員たちが、芋虫のように縛り上げられて本邸へ連行されてきた。
「……ふぅ。これで領地全体がスッキリいたしましたわね」
リーネが魔力炉から手を離すと、窓の外には、これまで見たこともないほど澄み渡ったカステル領の景色が広がっていた。
山々は青々と輝き、川からは一切の濁りが消え、街道の砂埃さえもが「浄化された砂」となってキラキラと光っている。
領民たちは、突然身体が軽くなったことに驚き、一斉に家の外に出て、この奇跡を噛み締めていた。
だが、捕らえられた工作員が、放心状態で口にした言葉が、ジークヴァルトの表情を強張らせた。
「……無駄だ……。たとえここを浄化しても……帝国の『大いなる冬』が……世界を黒く塗りつぶす……。消えない呪いの雪が……すべてを腐らせる……」
「……大いなる冬?」
ジークヴァルトは、男の胸ぐらを掴み、その瞳の奥に潜む絶望を読み取った。
魔導帝国が準備しているのは、個別の工作などではない。大陸全土の太陽を遮り、永遠に腐敗を撒き散らす「広域呪い兵器」の起動だった。
「閣下……。もし、世界中が汚れてしまったら、お洗濯が大変なことになってしまいますわ」
リーネは、心配そうに空を見上げた。
彼女にとって、帝国の脅威は「戦争」ではなく、「世界規模の衛生危機」として捉えられていた。
「……ああ。そうはさせない。……リーネ、君がこの世界を磨き続けられるよう、私は帝国の喉元まで、道を作ってやろう」
ジークヴァルトはリーネを力強く抱き寄せ、その華奢な肩を抱いた。
領地を完璧に清め上げたリーネの「お掃除」は、今、国境を越え、世界を覆おうとする巨大な「不浄」との戦いへと向かおうとしていた。
最強の辺境伯と、無自覚な聖女。
二人の本当の試練は、ここからさらに激しさを増していくことになる。




