【第24話】黄金の温泉で湯浴みを。……閣下、出会ったあの日から、私の世界は磨かれ続けているのです
カステル領を縦断する大河のほとり。リーネが川底を磨き上げた際に湧き出した「黄金の源泉」は、ジークヴァルトの命により、瞬く間に白亜の石造りの露天風呂へと整えられた。
周囲は高い生垣と強力な結界に守られ、聞こえてくるのは夜の森のさざめきと、こんこんと湧き出す湯の音だけ。今夜、この場所には護衛の騎士たちも近づけず、ただ二人きりの静寂が支配していた。
黄金色に輝く湯面に、満月がくっきりとその姿を映している。
リーネは、義母エレオノーラがこの日のためにと用意させた、肩口に繊細な刺繍が施された薄桃色の湯浴み着を纏い、おそるおそる湯船に肩まで浸かった。
「……ふぅ。とっても温かくて、身体の芯まで解けてしまいそうですわ」
リーネが小さく吐息をつくと、すぐ隣で同じく湯に浸かっていたジークヴァルトが、ふっと柔らかな笑みを浮かべた。
普段の冷徹な辺境伯の威厳を脱ぎ捨て、濡れた髪を無造作に掻き上げた彼の姿は、どこか少年のようでもあり、同時にリーネを惹きつけて離さない大人の色香に満ちていた。
「驚いたな。……川を掃除して温泉が湧き出すなど、前代未聞だ。だが、この湯の心地よさは、君が心を込めて磨いてくれたからこそなのだろうな、リーネ」
「いえ、私はただ……石が苦しそうだったので、汚れを落としてあげただけですわ。……でも、こうして閣下と一緒に、静かな夜を過ごせるなんて。……なんだか、夢のようです」
リーネは、湯面に浮かぶ自分の指先を見つめた。
ほんの数ヶ月前まで、自分は実家の薄暗い地下室で、ボロボロの雑巾を握りしめ、誰に声をかけられることもなく掃除に明け暮れていた。あの頃の自分にとって、世界は灰色で、明日は今日よりもさらに汚れていくものだと、諦めの中で生きていた。
「……閣下。私、時々、あの日を思い出すのです。……初めてこの領地に来て、包帯に巻かれた閣下とお会いした、あの日のことを」
リーネの声は、湯気に溶けるように穏やかだった。
ジークヴァルトは、湯の中でリーネの小さな手を探り、そっと自分の大きな掌で包み込んだ。
「……あの時の私は、醜い化け物だった。君を歓迎する言葉さえ持たず、ただ死を待つだけの、泥の中に沈んだ男だったというのに」
「いいえ。……私には、閣下の瞳が、とても綺麗に見えていましたわ。……汚れに隠れていただけの、本当の光。……あの日、閣下が私の作ったスープを『美味しい』と仰ってくださった時、私の世界は初めて、洗剤や水を使わなくても、キラキラと輝き始めたのです」
リーネは、ジークヴァルトをまっすぐに見つめた。
丸眼鏡の向こう側で隠されていた、彼女の本音。
掃除をすれば場所は綺麗になる。けれど、自分の心までが磨かれ、救われたのは、他でもないジークヴァルトが、自分の「地味な努力」を肯定し、愛してくれたからだ。
「……私は、掃除しかできない女です。……でも、閣下が側にいてくださるから、私は自分のお掃除を、もっともっと好きになれました。……王都でたくさんの怖いことがありましたけれど、閣下の手を握っていれば、私はどんな汚れも怖くなかった。……ありがとうございます、閣下。私を、見つけてくださって」
リーネの瞳に、微かな涙が浮かぶ。
ジークヴァルトは、繋いだ手に僅かに力を込め、彼女を引き寄せて、その額に優しく唇を寄せた。
そこには、いつもの過剰な独占欲や、敵を寄せ付けないための殺気は一切なかった。ただ、一人の女性を深く慈しむ、純粋な愛だけが宿っていた。
「……礼を言うのは、私の方だ、リーネ。……君は私が呪いを解いたから感謝していると言うが、それは違う。……絶望という深い闇の中にいた私に、最初の一筋の光を見せてくれたのは君だ。……君が差し出したその手が、どれほど温かかったか。……君が磨き上げた床が、どれほど私の凍りついた心を溶かしてくれたか」
ジークヴァルトは、リーネの頬に触れ、愛おしそうに親指でなぞった。
「出会ったあの瞬間から、私の想いは一秒たりとも変わっていない。……君を愛している、リーネ。……世界中の誰が君を地味だと笑おうとも、私にとっては、君こそが世界で最も眩しく、気高い光だ。……この気持ちだけは、どんなに時が流れても、決して曇らせることはない。……約束しよう」
ジークヴァルトの真摯な告白。
その言葉は、どんな宝石よりも、どんな魔法よりも、リーネの心を温かく満たしていった。
リーネは、彼の胸にそっと頭を預け、黄金の湯の温もりに身を任せた。
「……私も、お約束しますわ、閣下。……これからもずっと、閣下の側で、閣下が見せてくださるこの世界を、一生懸命磨き続けます。……汚れてしまったら、何度でも、何度でもお掃除して……。閣下がいつでも、清らかな光の中で笑っていられるように」
「……ああ。期待しているよ、私の小さな聖女様」
月明かりの下、二人は寄り添い、遠くで跳ねる銀鱗魚の音を聞きながら、静かな時間を共有した。
これまで戦ってきた実家の陰謀も、これから迫りくる帝国の影も、今この瞬間だけは、遠い異国の出来事のように感じられた。
黄金の湯面が、二人の幸せな姿を映し出し、ゆらゆらと揺れている。
リーネにとって、この温泉はただの「掘り当てたお宝」ではない。
自分を信じ、愛し、守ってくれる唯一の理解者と、心を洗うための大切な、大切な「約束の場所」となったのである。
「……ねえ、閣下。……明日も、一緒にお掃除してくださいますか?」
「ああ。……君の隣にいることが、私の生涯で最も誇らしい仕事だからな」
二人の唇が、吸い寄せられるように、穏やかに、そして深く重なり合った。
それは、欲望ではなく、魂の深淵で結ばれた二人の、確かな誓いの接吻だった。
辺境の夜は、どこまでも優しく、二人の未来を照らし続けていた。




