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【第23話】濁った大河を「お掃除」しました。……閣下、川底を磨いたら伝説の温泉が湧いてしまいましたわ

 黄金の麦畑が領都を沸かせた翌日。リーネの視線は、カステル領を南北に貫く母なる大河『カステル川』へと向けられていた。

 かつては豊かな水量と清らかな流れを誇ったはずのその川は、今や見る影もない。上流の山々から流れ込む呪毒を含んだ土砂と、長年の魔力の停滞によって、水面は不気味な茶褐色に濁り、鼻を突く泥臭さが漂っている。

 川縁で洗濯をしていた女性たちは、灰色に染まった布を力なく絞り、溜息をついていた。


「……なんて不衛生な。お魚たちも泥を被って、息苦しくて泣いていますわ」


 河原に降り立ったリーネは、丸眼鏡を指で押し上げ、濁った水面を厳しく見つめた。彼女の目には、水中に浮遊する微細な「不浄の煤」が、幾重にも重なって光を遮っているのがはっきりと見えていた。


「リーネ、川に入るのは感心しないな。足元が滑るし、水底には何が潜んでいるか分からん」


 背後から、ジークヴァルトが過保護な声をかける。彼は既に、リーネが川掃除を始めようとしているのを察知し、騎士団を遠巻きに配置して警戒を強めていた。


「でも、閣下。この川が汚れているせいで、皆様のお洗濯も大変ですし、お料理に使うお水も濁ってしまっています。……少しだけ、川底を磨かせてください。そうすれば、お水もスッキリして喜んでくれますわ」


 リーネの「お掃除したい」という純粋な、そして断固とした意志を秘めた瞳に見つめられ、ジークヴァルトは一瞬で降参した。彼は溜息をつくと、漆黒の外套を脱ぎ捨て、魔力を指先に集中させた。


「……分かった。だが、君の靴を汚させるわけにはいかない。……道を作ろう」


 ジークヴァルトが右手を一振りすると、凄まじい魔圧が川面を叩いた。

 轟音と共に、濁った水が左右に割れ、川底の泥が剥き出しになった一本の「道」が現れる。まるで神話の奇跡を物理的な魔力で再現したかのような光景に、岸辺で見守っていた領民たちが悲鳴のような歓声を上げた。


「まあ、歩きやすくなりましたわ! ありがとうございます、閣下!」


「キュイッ!」


 リーネは喜び勇んで、割れた川の真ん中へと進み出た。その足元には、真っ白な毛玉の魔獣ホコリが、主人の先を行くように跳ね回っている。岸辺では、弟子となったノアが【白銀熊のブラシ】の予備を抱え、「師匠、いつでもお呼びください!」と目を輝かせていた。


 リーネは、収納袋から【伝説の洗浄石】を組み込んだ特製のブラシを取り出すと、ぬめった泥がこびりついた大きな岩の前に膝をついた。


「【洗浄】――これでは、お魚たちが隠れる場所もありませんわね。ピカピカにしますわよ」


 リーネが岩を一拭きした瞬間、シュアァァッ!という清廉な音が響いた。

 岩を覆っていた数十年来の苔と泥が、光の粒子となって霧散する。彼女の【神域の純浄】は、洗浄石の力を受けてさらに鋭敏になり、川底に沈殿していた「負の因果」さえも根こそぎ洗い流していく。


 リーネがリズミカルにブラシを動かし、割れた川の底を磨きながら進むたび、彼女の背後からは「本来の色」を取り戻した清流が、さらさらと流れ込んできた。

 茶褐色だった水は、一瞬にしてエメラルドグリーンの輝きを放つ透明な水へと変わり、川底の砂利は一つ一つが宝石のように光を反射し始めた。


「……あら、ここ、とっても頑固な汚れが詰まっていますわ」


 川のちょうど中央付近。一段と大きな岩の隙間に、どす黒く変色した魔力の塊が固着していた。リーネは「えいっ」と気合を入れ、ブラシをその隙間に深く差し込んで、全力で磨き上げた。


 ――キィィィィィィン!!


 空間を切り裂くような清澄な音が、領地全体に響き渡った。

 次の瞬間、リーネが磨き上げた岩の隙間から、黄金色に輝く熱い飛沫が勢いよく噴き出したのである。


「なっ……!? リーネ、下がれ!」


 ジークヴァルトが一瞬で彼女を抱き寄せ、後方へと跳躍した。

 噴き出したのは、単なる水ではなかった。リーネの浄化魔力が地脈の奥底に届き、数千年の間封印されていた「高純度の魔力源泉」――すなわち、伝説の温泉を掘り当ててしまったのだ。


 立ち上る湯気は、それ自体が芳醇な花の香りと、強烈な癒やしの波動を纏っている。

 割れていた川の水が再び一つに戻った時、カステル川は以前の濁流ではなく、微かに温かく、そして浸かるだけで万病を癒やす「奇跡の薬水」を運ぶ大河へと変貌していた。


「……ふぅ。これでスッキリいたしましたわね。川底も磨けましたし、なんだか温かいお水が出てきて、とっても気持ちよさそうですわ」


 リーネは、ジークヴァルトの腕の中で満足げに微笑んだ。

 岸辺では、老庭師バルトや農夫たちが、変わり果てた美しい川を見て「嘘だろ……」「川が光ってるぞ!」と腰を抜かしている。

 洗濯をしていた女性たちは、試しにその水に手を浸し、一瞬で荒れた肌が真珠のように滑らかになるのを体験して、歓喜の声を上げた。


「奇跡だ! 奥様が、川を温泉に変えてくださったんだ!」


「これで、お肌もツルツル、体もポカポカですわ!」


 領民たちが次々と川岸に跪き、リーネに向かって感謝の祈りを捧げる。

 だが、その光景を見つめるジークヴァルトの表情は、どこまでも険しかった。彼は、湧き出した温泉の湯気に触れた自分の手の傷が、一瞬で消滅し、肌に異様なまでの艶が出ていることに気づいた。


(……この『黄金の湯』は、美肌の効能が強すぎる。……こんなものに浸かったリーネを、他の誰かに見せるわけにはいかない)


 ジークヴァルトは、リーネを誰の目にも触れさせないよう、自分の外套で包み込むように抱きしめ直した。


「……ハンス! 今すぐ騎士団を呼べ。この河原の一角を封鎖しろ。……ここには、リーネ専用の、世界で最も強固な結界を張った『辺境伯専用露天風呂』を建設する。許可なく近づく者は、即座に不敬罪で処罰しろ!」


「ええっ!? 閣下、皆様で入ったほうが楽しいですわよ?」


「却下だ! ……君のこの美しさは、私だけのものだと言っただろう。……いいか、リーネ。今日からこの温泉に入るのは、私と君、二人だけだ」


 あまりの過保護っぷりと、極端な独占欲の発言に、ハンスは「やれやれ」と天を仰いだ。だが、騎士たちは既に「奥様の温泉を守れ!」と、異様な士気で河原の警備を開始していた。


 ◆


 その日の夜。別邸のバルコニーからは、浄化され、月の光を鏡のように反射する美しい大河が見えた。

 川が綺麗になったことで、領地の生態系は劇的に回復し、絶滅したと思われていた魔力を持つ魚『銀鱗魚』が跳ねる姿も確認されたという。


「……閣下。お掃除って、本当に素晴らしいですわね。川が綺麗になっただけで、こんなに皆様が喜んでくださるなんて」


 リーネが夜風に当たりながら呟くと、背後から温かい抱擁が重なった。

 ジークヴァルトは、彼女の首筋に顔を埋め、温泉の香りと、彼女自身の清らかな香りを深く吸い込む。


「ああ。……だが、君が磨けば磨くほど、この領地は『楽園』になり、世界中の野心がここへ向くことになる。……リーネ、君を守るために、私はさらに強くならねばならないな」


「閣下が守ってくださるなら、私、安心ですわ。……明日も、お掃除頑張りますね」


 リーネは幸せそうに目を細める。

 だが、彼女はまだ知らない。

 川が浄化され、黄金の温泉が湧き出したという報せが、鳥たちの羽に乗って隣国『魔導帝国』の最奥へと届き、帝国最強の工作員たちが「その水を、その女を奪え」という密命を受けて動き出したことを。


 カステル領の平和は、リーネの「お掃除」によってもたらされる奇跡と、それを守り抜こうとするジークヴァルトの執念によって、より激しい波乱へと飲み込まれようとしていた。


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