【第22話】不毛の畑を「お掃除」しました。……閣下、一晩で金色の麦が実るのは通常のお手入れですわ
カステル領の本邸に戻った翌朝。リーネが最初に向かったのは、屋敷の裏手に広がる広大な農地だった。
かつては王国でも有数の穀倉地帯だったというその場所は、今や見る影もない。ジークヴァルトが長年苛まれていた呪毒は、雨と共に大地に染み込み、土そのものを変質させていた。ひび割れた土壌からは不気味な赤黒い魔力が微かに立ち上り、植えられたばかりの麦の苗は、どれも力なく萎れ、灰色に変色している。
「……ひどいですわ。これでは、土が息を詰まらせて泣いています」
リーネは、農道の端で膝をつき、乾いた土をそっと指先で掬い上げた。
彼女の目には、土の一粒一粒にこびりついた「呪いの煤」が、幾層にも重なっているのが見えていた。これではどんなに肥料を撒こうが、陽光を浴びようが、作物が育つはずもない。
「姫様、無駄ですぜ……。ここ数年、俺もあらゆる手を尽くしたが、この土はもう死んでいるんだ」
老庭師バルトが、鍬を杖代わりに吐き捨てるように言った。彼の背後には、同じく絶望した表情の農夫たちが力なく立ち尽くしている。彼らにとって、この畑が実らないことは、冬を越せない死刑宣告と同じだった。
「いいえ、バルトさん。死んでいるのではありませんわ。……ただ、とっても『汚れている』だけです。しっかりお掃除して、詰まりを通せば、土はまた笑ってくれますわ」
リーネは立ち上がると、王都の地下で手に入れた【伝説の洗浄石】を組み込んだ、新しい【聖樹のバケツ】を地面に置いた。
それを見たジークヴァルトが、心配そうに彼女の肩に手を置く。
「リーネ。これだけの広さだ、一度に浄化するのは君の体に障る。……私が魔力を供給しよう。君は私の腕の中にいろ」
「ありがとうございます、閣下。……でも、歩きながら細かく磨きたいので、抱っこしていただいてもよろしいでしょうか?」
「……喜んで」
ジークヴァルトは、まるでお宝を扱うような手つきでリーネをひょいと横抱きにした。
辺境伯自らが、泥臭い畑の真ん中に足を踏み入れ、妻を抱えて歩く。その異常な光景に農夫たちが目を丸くする中、リーネの「大掃除」が始まった。
「ノア様、ホコリちゃん! 準備はよろしくて?」
「はい、師匠! 魔導水、展開いたします!」
弟子となったノアが法衣を翻し、空中に巨大な水の球を作り出す。そこにリーネが洗浄石を浸すと、水は瞬時に純白の光を帯び、聖なる雨となって畑全体に降り注いだ。
「キュイイイ!」
ホコリ(魔獣)がリーネの膝から飛び出し、地表を滑るように駆け回る。ホコリは土中から浮き上がってきた微細な「呪いの煤」を、掃除機のように次々と吸い込み、浄化のエネルギーへと変えていく。
「【広域・土壌洗浄】!!」
リーネがジークヴァルトの胸に甘えるように寄り添いながら、パチンと指を鳴らした。
――ドォォォォォン!!
地響きのような音が鳴り響き、畑全体から真っ黒な煙が「シュアァァ!」と音を立てて噴き出した。数十年分の呪毒が、リーネの浄化魔力によって根こそぎ洗い流され、空へと蒸発していく。
真っ黒だった土は、一瞬にしてしっとりと濡れた、命の匂いがする黒土へと生まれ変わった。
驚くべきはそれだけではない。リーネが放った光の粒子は、土を洗うだけでなく、そこに残っていた萎れた苗たちに、爆発的な生命力を与えたのである。
「な……なんだ、これは!? 苗が……苗が伸びていくぞ!」
農夫たちの叫び声。
リーネが踏みしめる(正確にはジークヴァルトが歩く)足跡から、次々と青々とした茎が勢いよく伸び、見る間に穂をつけ、瞬く間に黄金色に色づいていく。
【伝説の洗浄石】によって増幅されたリーネの魔力は、もはや「掃除」の域を超え、生命のサイクルを極限まで加速させる「豊穣の祈り」へと昇華されていた。
一刻(二時間)ほどかけて畑を一回りし終えた時。
そこには、朝露に濡れて輝く、見渡す限りの「黄金の海」が広がっていた。
収穫まで数ヶ月かかるはずの麦が、たった一時間の「お掃除」で、たわわに実った最高級の完熟状態となっていたのである。
「……ふぅ。これでスッキリいたしましたわね。バルトさん、お待たせいたしました」
ジークヴァルトの腕から降りたリーネが、満足げに微笑む。
バルトは震える手で、黄金の麦を一房摘み取った。その粒は通常の三倍は大きく、一粒一粒が真珠のような光沢を放っている。
「……ありえねえ。……こんなこと、神話でも聞いたことがねえぞ……!」
バルトは麦を噛みしめ、そのあまりの芳醇さと、体中に溢れるような活力に、その場に突っ伏して泣き崩れた。
「姫様……! あんたは、あんたは本当に……この地の女神だ! 俺たちが、俺たちが食いっぱぐれることはもうねえんだ!」
農夫たちも次々と大地に膝をつき、リーネに向かって祈りを捧げ始めた。
彼らにとって、リーネはもはや「奥様」ではなく、文字通り「命を繋ぐ聖女」となったのである。
その日の午後。収穫されたばかりの「聖なる麦」で焼いたパンが、領都中の人々に振る舞われた。
一口食べただけで、病が癒え、元気が湧いてくる不思議なパン。
「お掃除をしただけですわ」と謙遜するリーネの横で、ジークヴァルトは焼き立てのパンを一切れ、彼女の口に運んだ。
「……美味いな、リーネ。君が磨き上げた大地は、こんなに優しい味がするのか」
「はい、閣下。……私、とっても幸せですわ。土が綺麗になって、皆様が笑顔になって……。お掃除って、本当に素晴らしいですわね」
リーネは幸せそうにパンを頬張る。
だが、ジークヴァルトの瞳は、喜びと共に鋭い警戒の色を帯びていた。
これほどの奇跡が起きたのだ。いずれこの「黄金の麦」の噂は国境を越え、飢えた野心を抱く隣国たちの耳に届くだろう。
「……リーネ。君のこの力、やはり私だけのものにしておきたかったよ」
「え? 何か仰いましたか、閣下?」
「いや。……明日も、君の気が済むまでお掃除に付き合おう。……だが、夜はしっかりと私の腕の中で休んでもらうぞ。君が消費した以上の魔力を、たっぷりと補給してあげなくてはならないからな」
ジークヴァルトは、リーネの腰を引き寄せ、耳元で独占欲に満ちた熱い囁きを残した。
リーネは顔を真っ赤にしながらも、「はい、頑張ります」と、やはりズレた返事をするのだった。
カステル領の復興は、この「黄金の麦」を皮切りに、さらに加速していく。
次なるターゲットは、領地を縦断する「濁った大河」。
リーネの無自覚な「水辺のお掃除」が、さらなる伝説を刻もうとしていた。




