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【第21話】辺境の我が家に帰ってきました。……閣下、領地全体が砂埃に塗れているのはお掃除のチャンスですわ!

 王都シュトラールを出発してから数日。カステル辺境伯家の紋章を掲げた魔導馬車は、緩やかな坂道を越え、ついに懐かしき領地の境界線へと足を踏み入れた。

 窓の外に広がるのは、王都の整然とした石畳とは対照的な、雄大な自然と切り立った山々が連なる辺境の風景だ。かつてはジークヴァルトの呪毒に呼応するように、どす黒い雲が垂れ込め、枯れ木が目立っていたこの地も、今はリーネが以前施した浄化の余波が残っているのか、微かに柔らかな光を帯びているように見えた。


「……閣下。見てください、カステルの空は王都よりもずっと広いですわ」


 馬車のシートに深く腰掛け、ジークヴァルトの逞しい腕に抱かれながら、リーネは窓の外を指差した。

 ジークヴァルトは、彼女の柔らかな髪を愛おしそうになぞりながら、満足げに目を細める。


「ああ。やはりここが一番落ち着く。……リーネ、王都では怖い思いばかりさせてしまったな。これからは、私の目が届くこの領地で、誰にも邪魔されずに過ごすといい」


 ジークヴァルトの言葉には、深い安堵と、それ以上に強烈な「囲い込み」の意志が混じっていた。彼にとって、王都はリーネという光を多くの者に晒してしまった忌々しい場所だ。自分の本拠地に戻った今、彼は彼女を一秒たりとも離さず、この地のどこまでも清らかな空気の中に閉じ込めておきたいという独占欲を隠そうともしなかった。


「……ですが、閣下。街道の端を見てください。あんなに砂埃が溜まっています。それに、あちらの川の支流……少しだけ魔力の澱みが停滞していますわ。これでは、お魚たちが息苦しくて可哀想です」


 リーネの瞳は、再会の感動よりも先に、領地全土に広がる「お掃除の余地」を的確に捉えていた。彼女にとって、カステル領への帰還は「休息」ではなく、「巨大な大掃除の始まり」を意味していたのである。


 馬車が領都の門をくぐると、そこには黒山の人だかりができていた。

 王都での「真聖女」の噂は、早馬によってすでに領民たちの耳に届いている。


「聖女様、お帰りなさい!」

「俺たちの恩人だ! 辺境伯夫人、万歳!」


 領民たちが花を撒き、歓声を上げる。リーネは驚きながらも、窓から身を乗り出して手を振った。


「皆様、お元気そうでよかったですわ! ……あ、でも、あそこの屋根瓦の隙間に苔が生えています! 後でお掃除に伺いますわね!」


 聖女の慈悲深い言葉だと思って感動に震える領民たちを余所に、ジークヴァルトは「……リーネ、窓から離れろ。身を乗り出すと危ない」と言いつつ、彼女の腰をがっしりと掴んで引き戻した。


 ◆


 カステル辺境伯本邸の玄関前。そこには、留守を預かっていた家族たちが勢揃いしていた。

 老執事ハンスが、感動のあまりハンカチで目元を拭いながら深く頭を下げる。


「お帰りなさいませ、閣下。そして……我が主母、リーネ様。王都でのご活躍、このハンス、聞き及んでおりますぞ。これぞカステルの誇り、真の救世主であらせられる!」


「ハンスさん、ただいま戻りました。……でも、ハンスさん。お玄関のマットの裏に、王都にはなかった種類の砂が溜まっていますわ。後で徹底的に叩き出しましょうね」


「おお……。お帰り早々、お掃除のご神託をいただけるとは! このハンス、身の引き締まる思いですぞ!」


 主従揃ってズレたやり取りをしている中、屋敷の中から一人の少女が弾かれたように飛び出してきた。


「お義姉様――っ!!」


 妹のミリーだ。彼女はリーネの腰に抱きつき、その小さな顔をドレスに埋めた。


「お義姉様、寂しかった! お兄様が、お義姉様を王都の人たちに取られちゃうんじゃないかって、ミリー、毎日心配してたの!」


「ミリー様、ただいま戻りました。……いい子にしていましたか? あ、ミリー様、お洋服に小さなシミが……。大丈夫ですよ、すぐに【洗浄】して差し上げますからね」


 再会を喜ぶミリーを優しく撫でながらも、リーネの指先は既に魔法の起動準備に入っている。

 その後ろでは、弟のテオドールが少し照れくさそうに頭を掻きながら立っていた。


「……お帰り、兄上。リーネ義姉さんも。……王都で実家の奴らを完膚なきまでに叩きのめしたって聞いたよ。さすが義姉さんだ」


「テオドール、実家のことはもう終わったことだ。それより、これからこの屋敷に新しい居候が増える。……ノア、ホコリ、前へ」


 ジークヴァルトに促され、馬車から降りてきたのは、弟子となった男装の少女神官ノアと、真っ白な毛玉のような魔獣ホコリだった。


「初めまして、カステル家の皆様! 私はリーネ師匠の第一弟子、ノアと申します。これからこの領地を、師匠と共に世界一清潔で神聖な場所に磨き上げる所存です!」


「キュイ!」


 ノアの凛々しい(しかしどこか狂信的な)挨拶と、ホコリの可愛らしい鳴き声に、本邸の面々は目を丸くした。


「……弟子? それに、そのもふもふした生き物は……?」


「ホコリちゃんですわ。とっても有能な、お掃除の助手なんです。……さあ、皆様。ご挨拶が済んだら、まずは旅の汚れを落としましょう。お屋敷全体を丸洗いしますわよ!」


 ◆


 その日の夜。

 久しぶりに戻った自分の寝室で、リーネは窓を開けて夜風を吸い込んだ。王都のそれとは違う、野草の香りが混じった、少し冷たくて清らかな風。


「……ふぅ。やっぱり、ここが一番落ち着きますわ」


 リーネが独り言を呟いた瞬間、背後から温かい体温が重なった。

 ジークヴァルトが彼女を包み込むように抱きしめ、その肩に顎を乗せる。暖炉の火が静かに爆ぜる音だけが、部屋に響いていた。


「……リーネ。ようやく、二人きりになれたな」


「閣下……。お疲れではありませんか? 今日は皆様へのご挨拶で大変でしたのに」


「君さえ隣にいれば、疲れなど感じない。……だが、明日からはまた君を追いかける日々になりそうだな」


 ジークヴァルトは苦笑しながら、リーネの首筋に愛おしそうに唇を寄せた。


「君はこの広大な領地を、本気で全て磨き上げるつもりなのだろう?」


「はい。……王都で【伝説の洗浄石】を手に入れましたから、今の私なら、カステル領全体を清めることができると思うのです。……淀みがなくなれば、病気もなくなり、畑の作物ももっと美味しくなりますわ。……皆様が笑って過ごせるように、私は私にできるお掃除を精一杯やりたいんです」


 リーネの無自覚な、けれどどこまでも真っ直ぐな慈愛の心。

 ジークヴァルトは、その純粋さが眩しくてたまらなかった。世界を救う力を「お掃除」と呼び、それを当然の義務のように語る。そんな彼女を、自分だけのものにしておきたいという渇望と、彼女が輝く姿を見守りたいという敬愛。二つの感情が、彼の中で激しく渦巻いていた。


「……分かった。ならば、私は君の盾となろう。君が思う存分、この世界を磨けるように。……ただし、夜だけは、私の腕の中で大人しくしていてもらうぞ」


「……閣下。それは、お掃除のスケジュールに入っておりませんわ」


「今、私が書き込んだ。……文句はあるか?」


 ジークヴァルトの情熱的な視線に、リーネは顔を真っ赤にして俯いた。

 カステル領への帰還。それは、地味な掃除女が「王国の聖女」として、自らの足元から世界を変えていく、内政と溺愛の新章の幕開けであった。


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