【第2話】「ただのスープですから」と差し出した一杯が、死にかけの辺境伯様を覚醒させてしまった件
翌朝、カステル辺境伯邸の執事ハンスは、重い足取りで主人の寝室へと向かっていた。
彼の手には、盆に載せられたわずかな重湯がある。もっとも、主人のジークヴァルトがこれを口にすることはないだろうと、半分は諦めていた。呪毒に侵された主人は、ここ数ヶ月、水すら戻してしまうほどの衰弱ぶりだったからだ。
(昨日いらしたリーネ様も、今頃は恐怖で泣き腫らしているか、逃げ出したいと訴えてくるに違いない……)
そう思いながら、ハンスが主人の寝室の扉を開けた、その瞬間だった。
「な……っ、な、なんですかな、これは……っ!?」
ハンスの手から盆が滑り落ちそうになった。
昨日まで、どす黒い霧――呪毒の瘴気が渦巻き、カビと死の匂いが充満していたはずの部屋が、まるで別世界のように変貌していたのだ。
窓は磨き上げられ、差し込む朝日は水晶のように透き通っている。空気は高原の朝のように清々しく、肺の奥まで洗われるような清涼感に満ちていた。
そして何より、ベッドの傍らで甲斐甲斐しく主人の包帯を巻き直している、一人の少女の姿があった。
「あ、ハンスさん。おはようございます。勝手にお掃除してしまってすみません。あまりに埃がすごかったので、つい……」
地味な灰色のドレスを着たリーネが、丸眼鏡を指で押し上げながら、控えめに微笑んだ。
ハンスは絶句したまま、部屋の隅々を見渡す。そこには「掃除」という言葉では説明のつかない、神聖なまでの「清浄」が宿っていた。
「リ、リーネ様……。これは一体、どのような魔法を……?」
「魔法なんて、そんな大層な。ただの【洗浄】ですよ。実家では毎日これくらいやらないと怒られましたから。あ、それより閣下、少し顔色が良くなられましたよ」
ハンスが視線をベッドへ移すと、そこには確かに、昨日まで死人と見紛うほど青白かったジークヴァルトが、しっかりと目を開けて上体を起こしていた。
「……ハンスか。騒がしいぞ」
その声には、昨日までの掠れた弱々しさはなく、かつての凛とした響きがわずかに戻っていた。ハンスは膝から崩れ落ちそうになるのを必死に堪え、震える声で言った。
「閣下……。お、お目覚めになられたのですね。なんという……なんという奇跡だ……」
「奇跡ではない。この娘が……リーネが、一晩中私の側で、この忌々しい呪いを抑えてくれたのだ」
ジークヴァルトの視線が、隣に立つリーネに注がれる。その瞳には、深い困惑と、それを上回るほどの強烈な関心が宿っていた。
「さて、ハンスさん。その重湯は私が預かりますね。閣下の今の状態では、それは少し、栄養が足りませんわ。私がキッチンをお借りして、特製のスープを作ってまいります」
リーネはハンスから盆を受け取ると、軽やかな足取りで部屋を出て行った。
残された主従の間に、沈黙が流れる。
「……ハンス。あの娘は、本当にエルストリア家の『無能』な令嬢なのか?」
「……報告書では、魔力も微弱で、家政の雑用しかできない『地味な娘』とのことでしたが……。今のこの光景を見る限り、教会の大司教様でも不可能な浄化を成し遂げておいでです」
ジークヴァルトは、自分の手を見つめた。包帯の隙間から見える肌の赤みは引き、長年彼を責め苛んできた「焼けるような痛み」が嘘のように消えている。
「……地味、か。あんなに眩しい『地味』が、この世にあるのだな」
◆
一方、キッチンに降りたリーネは、料理人たちが怯えて近寄らない片隅で、一人静かに鍋を火にかけていた。
「ええと、お庭の隅に生えていた『癒やし草』と『銀の雫花』を……。あ、このお水も少し濁っていますね。えいっ」
リーネが水瓶に手をかざすと、中の水が瞬時に白光し、不純物がすべて消え去った「究極の純水」へと変わる。
彼女が「庭の隅に生えていた」と言った草は、実はこの極寒の辺境にしか自生しない、伝説の霊草『万能癒薬』の原種であったが、彼女はそれを「ちょっと珍しいパセリ」くらいの認識で刻んでいく。
さらに、彼女の【調合】スキルが発動する。
本来なら高度な錬金器具が必要な工程を、彼女はただ「美味しくなれ」と念じながらかき混ぜるだけで完了させてしまう。
立ち上る湯気は、それ自体が高度な回復魔法の効果を持っており、キッチンの隅で怯えていた見習い料理人の長年の腰痛が、その香りを嗅いだだけで完治してしまうほどだった。
「よし、できました。地味な薬草スープですわ!」
リーネは自信満々に、透き通った琥珀色のスープを盆に載せ、再び主人の部屋へと戻った。
◆
「閣下、お待たせいたしました。召し上がれますか?」
ベッドの横に腰掛けたリーネが、匙ですくったスープを、ジークヴァルトの唇に寄せる。
ジークヴァルトは一瞬躊躇った。彼はここ数ヶ月、何を口にしても「砂を噛むような苦味」と「激しい嘔吐感」に襲われてきたからだ。
けれど、リーネの眼鏡の奥にある、真っ直ぐで優しい瞳に見つめられ、彼は吸い込まれるように口を開いた。
「……っ!?」
口の中に広がったのは、今まで味わったことのない、圧倒的な「純粋さ」だった。
雑味も苦味も一切ない。ただ、身体の芯まで染み渡るような温かさと、大地のエネルギーが直接流れ込んでくるような感覚。
「……美味い。……こんなに、温かくて、味がするものは……初めてだ」
「よかったです。お口に合ったみたいですね」
リーネは嬉しそうに笑い、次の一匙を運ぶ。
ジークヴァルトは、夢中で食べた。
一口ごとに、呪毒でボロボロになっていた内臓が修復され、枯れ果てていた魔力回路に、清らかな力が満ちていく。
痩せ細って骨張っていた彼の頬に、わずかに赤みが差した。
「……全部、食べてしまったな」
空になった皿を見て、ジークヴァルト自身が驚愕していた。
ハンスに至っては、後ろで「おお、神よ……!」と咽び泣いている。
「お粗末様でした。これなら、明日にはもう少し重いものも食べられそうですね」
リーネが皿を下げようとした、その時。
ジークヴァルトの大きな、けれどまだ細い手が、リーネの手首をそっと掴んだ。
「……リーネ。なぜ、私にここまでしてくれる。君は、生贄として売られてきたのだろう? 私を恨んで、死を待つことだってできたはずだ」
その問いに、リーネはきょとんとした顔で首を傾げた。
「恨むなんて、そんな。私、実家では『役立たずの掃除女』って言われて、誰からも必要とされていなかったんです。でも、ここで閣下のお部屋を綺麗にして、スープを『美味しい』って言っていただけて……。私の方こそ、居場所をいただけて嬉しいんです」
屈託のない、汚れ一つない笑顔。
その純粋さに、ジークヴァルトの心の中で、何かが音を立てて崩れ、そして再構築されていった。
「……居場所、か。ならば、もう二度と離さない。君を虐げた連中の元になど、死んでも返さないからな」
「えっ? はい、お仕事頑張ります!」
ジークヴァルトの瞳に宿った、深い、深すぎるほどの独占欲の光に、リーネはまだ気づかない。
彼の手の力が、昨日よりもずっと強くなっていることにも。
「ハンス、今すぐ手配しろ。彼女を辱めたエルストリア家の調査だ。それから……」
ジークヴァルトはリーネの手を引き寄せ、その指先に、誓うような熱い口づけを落とした。
「リーネ。君に最高の礼をしよう。君が私の側にいることを、世界中の誰よりも幸せだと思えるように」
死神と呼ばれた男の、命懸けの溺愛が、今、静かに、けれど苛烈に始まった。




