【第16話】王都に広まる不穏な噂。……え、私が「魔獣を操る魔女」だなんて、そんなに凄そうに見えますか?
王都郊外の別邸は、今やカステル領の屋敷にも勝るほどの清浄な空気に満たされていた。
それもそのはず、主であるリーネの手による『神域の純浄』に加え、新たに仲間に加わった伝説の稀少魔獣――ホコリクイの「ホコリ」が、物理的な塵や魔力の澱みを片端から吸い込み、浄化のエネルギーへと変換し続けているからだ。
「ホコリちゃん、そこ! タンスの裏の僅かな隙間に、小さな綿埃が隠れていますわ!」
「キュイッ!」
リーネが指を差すと、バレーボールほどの大きさになった真っ白な毛玉が、器用に跳ねて隙間に潜り込む。数秒後、ホコリが満足げに這い出してくると、そこには指一本通らぬほど密着していたはずの家具の裏まで、新品同様の輝きを取り戻していた。
「まあ、天才ですわ! 私、今まであそこを掃除するのに魔法の細い触手を作って苦労していたのですけれど、ホコリちゃんがいれば一瞬ですわね」
リーネがホコリを抱き上げ、その柔らかな毛並みに頬を寄せると、ホコリは嬉しそうに喉を鳴らした。
だが、その光景を背後から、氷点下すら下回るほどの冷徹な視線で見つめている男がいた。ジークヴァルトである。
「……リーネ。その毛玉をいつまで抱いているつもりだ。掃除が終わったのなら、今すぐ庭のバルトに預けてこい。……いや、やはり私が今すぐ遠くの森へリリースしてやろう」
「閣下、またそんなことを。ホコリちゃんはとってもお掃除の役に立ってくれていますのよ?」
「……私だって、その程度の埃なら指先一つで消し飛ばせる。私の魔力を極限まで細分化し、空間ごと滅却すれば……」
「ダメですわ、そんな物騒な魔法! お部屋が壊れてしまいます!」
ジークヴァルトは、自分の強大すぎる魔力が「繊細なお掃除」において、一匹の毛玉に劣っているという事実に、かつてないほどの敗北感と嫉妬を募らせていた。彼はリーネの側に侍る特権を、この小さな魔獣に奪われることが耐えられなかったのである。
◆
そんな平和で、どこかコミカルな別邸の空気とは対照的に、王都の場末にある雨漏りのひどい安宿の一室では、どす黒い怨念が渦巻いていた。
「……あ、熱い。……肌が、肌が焼けるようだ……っ!」
暗い室内で、男が苦悶の声を上げながら、自分の腕を掻きむしっていた。リーネの兄、ロイド・エルストリアである。
かつての華やかな貴族の面影は微塵もなく、服は汚れ、髪は乱れ、そして何より、リーネの浄化によって剥き出しにされた「悪意のただれ」が、今もなお彼の全身を苛んでいた。
隣では、かつて伯爵と呼ばれた父が、虚ろな目で壁を見つめ、意味のなさない呟きを繰り返している。
「……すべて、あの女のせいだ。リーネさえいなければ……あんな『不気味な光』さえ出さなければ、我々は今も王都の主役だったはずだ……!」
ロイドの歪んだ憎悪に呼応するように、扉が静かに開かれた。
入ってきたのは、夜会でリーネの光に目を焼かれ、権威を失墜させた神殿の汚職司祭、バルガスであった。
「……エルストリア殿。まだ、その痛みは消えませぬか」
「司祭……! ああ、早く、早くあの女を殺す方法を……!」
「殺す? いえいえ、それでは生ぬるい。……あの女は、聖女を装いながら魔獣を喚び出し、禁忌の儀式で人々を洗脳している『魔女』です。……我々は、国王陛下に正式な告発文を提出しました。隠れ家での不審な動き、そして禁忌の魔獣を従えているという証言……。すべて、準備は整っております」
バルガスは邪悪な笑みを浮かべ、一枚の羊皮紙を差し出した。
「異端審問の火に焼かれる際、彼女は自らの罪を認めるでしょう。……そして、彼女を庇い立てするカステル辺境伯もろとも、この国から排除するのです」
自らの汚職を隠すため、そして自分たちを「掃除」しようとした清らかな力への報復。
彼らは、リーネの「あまりに清らかすぎる善意」を、逆説的に「人知を超えた悪魔の業」だと定義し直すことで、民衆の恐怖を煽ろうとしていた。
◆
その日の夕暮れ。別邸に、王都の社交界を監視させていた義母エレオノーラが、激しい勢いで戻ってきた。
「ジーク! リーネ! 大変よ、あのおぞましい神殿の老いぼれたちが、とんでもないデマを流しているわ!」
応接間に飛び込んできたエレオノーラは、扇子を激しく仰ぎながら、掴んできた情報を捲し立てた。
「リーネが隠れ家で『禍々しい灰色の悪魔』を召喚し、呪いの力で王都を滅ぼそうとしているですって! 実家のロイドも、『自分は妹に呪いをかけられてこの姿になった』と涙ながらに証言しているらしいわ。……陛下も、神殿の公式な告発を無視できず、近々『異端調査官』を派遣することを決めたそうよ!」
室内の温度が、一瞬で氷点下まで下がった。
ジークヴァルトの周囲に、真っ黒な殺気の渦が巻き起こる。
「……調査官だと? 私の屋敷に、土足で踏み込もうというのか。……いいだろう。神殿ごと、この世の地図から消し去ってやる」
「待ってちょうだい、ジーク! 今それをしては、リーネが本当に魔女だと思われてしまうわ!」
緊迫する空気の中、当のリーネは、膝の上にホコリを乗せたまま、不思議そうに首を傾げていた。
「……お義母様。私、魔女だなんて言われているのですか?」
「そうなのよ、リーネ! あなたが魔獣を操って、恐ろしい儀式をしているって……」
「魔獣……。あ、ホコリちゃんのことでしょうか? でも、この子はとっても有能な『お掃除の助手』ですわよ? それに、魔女だなんて……。私、そんなに魔法が上手そうに見えるのでしょうか?」
リーネは、丸眼鏡(の代わりに従者が持ってきた手鏡)を見つめ、真剣に悩み始めた。
「私、お掃除の魔法しか使えないのに……。もしかして、汚れを落としすぎて、皆様に『魔法の達人』だと勘違いされてしまったのかしら。……地味な掃除女としては、少し目立ちすぎてしまったかもしれませんわね」
あまりにも見当違いな方向にショックを受けているリーネに、エレオノーラは脱力して椅子に崩れ落ちた。ジークヴァルトも、殺気を僅かに緩め、愛おしさと呆れの入り混じった溜息をつく。
「……リーネ。君は、本当に……。……いいか、気にする必要はない。君を『魔女』と呼ぶ奴がいれば、私がそいつの舌を引き抜いて、二度とそんな不敬を吐けないようにしてやるだけだ」
「閣下、それはやりすぎですわ。……でも、調査官という方がいらっしゃるのなら、ちょうど良かったですわね」
「……何がだ?」
「王都の神殿の方は、お掃除が行き届いていなくてとっても大変そうでしたもの。調査官の方にお掃除のコツを教えて差し上げれば、きっと皆様、スッキリして悪い噂なんて忘れてしまいますわ!」
リーネは、純粋な善意に満ちた笑顔でそう断言した。
彼女にとっては、敵対勢力の攻撃さえも「お掃除不足によるイライラ」の延長線上にしか見えていないのだ。
だが、ジークヴァルトの瞳は笑っていなかった。
彼はリーネの柔らかな手を握りしめ、その指先に誓うように接吻した。
「……ああ。そうだな、リーネ。……徹底的に『掃除』してやろう。君の清らかさを汚そうとする、この国のゴミ共をな」
最強の辺境伯による、王都壊滅をも辞さない「過保護な迎撃準備」が、静かに始まった。
同時に、神殿が送り出す「異端調査官」が、リーネの運命を左右する重大な情報を携えて、別邸の門へと近づきつつあった。




