【第14話】王都の別邸に潜伏中。……老庭師様、枯れ木に花を咲かせるのは普通のお掃除ですわ
王都神殿での「聖石浄化」という前代未聞の事態を受け、ジークヴァルトは即座に決断を下した。
過熱する民衆の信仰心と、面目を潰された神殿側の執拗な追及からリーネを守るため、一行は王都郊外の深い森に隠されたカステル家の古い別邸へと避難したのである。
「……閣下。あの、そんなに強く握られては、歩きにくいですわ」
馬車を降り、深い緑に囲まれた別邸の門をくぐる際も、ジークヴァルトはリーネの右手を片時も離そうとしなかった。彼の指は、まるで彼女が霧となって消えてしまうのを恐れるかのように、痛いくらいの力で組み合わされている。
「……構わない。神殿の薄汚れた空気のせいで、君はあんなに怯えていたのだ。今は、私の体温だけを感じていろ。……リーネ、君の震えが止まるまで、私は君を離すつもりはない」
ジークヴァルトの低い声には、隠しきれない独占欲と、守りきれなかった自分への苛立ちが混じっていた。リーネは、彼の胸に顔を埋めるようにして歩きながら、神殿の重苦しい「澱み」を思い出して小さく身を震わせる。けれど、ジークヴァルトの手の温もりと、彼が放つ強大な守護の魔力が、少しずつ彼女の心を解きほぐしていった。
たどり着いた別邸は、長年使われていなかったせいか、建物全体が深い静寂と「埃の匂い」に包まれていた。
庭園は手入れが行き届かず、噴水は枯れ、かつて美しい花を咲かせていたであろう樹木は、どす黒く変色して立ち枯れている。
「……ふん。呪われた主人が連れてきた嫁が、こんなに地味で頼りない娘か」
枯れ果てた庭の真ん中で、一人の老人が立ちはだかった。
深く刻まれた皺と、節くれだった手。カステル家に代々仕え、この別邸を頑固に守り続けてきた老庭師、バルトである。彼は鋭い眼光でリーネを値踏みするように睨みつけた。
「バルト、無礼だぞ。彼女は私の妻であり、この家の主だ」
ジークヴァルトが冷徹な殺気を放つが、バルトは「ふん」と鼻を鳴らした。
「形式などどうでもいい。俺が見るのは、この庭を愛せるかどうかだ。……お嬢さん、あんたにこの死に絶えた庭がどう見える? ここはな、呪毒の影響で土まで腐っちまってるんだ。俺がいくら手を尽くしても、ペンペン草一株生えやしねえ」
リーネは、バルトの言葉を静かに聞いていた。
彼女の目には、バルトが言う「腐った土」の正体が、重なり合った不純物と魔力の目詰まりに見えていた。
「……バルトさん。あの、とってもお掃除のしがいがありそうですわ」
「はぁ? 掃除だと?」
「はい。木々も、噴水も……みんな息苦しくて泣いていますもの。少しだけ、磨かせていただけますか?」
リーネはジークヴァルトの手をそっと解くと、収納袋から愛用の【聖水の小瓶】と、昨日届いたばかりの【白銀熊のブラシ】を取り出した。
彼女は迷いのない足取りで、ヘドロが溜まり、どす黒い染みがこびりついた中央の噴水へと歩み寄る。
「……不衛生なのは、良くありませんわ」
リーネが【洗浄】を唱えながら、噴水の縁をブラシでひとなでし、聖水を一滴だけ注いだ。
その瞬間――。
キィィィィィィン!!
空気を震わせる清澄な音が響き渡り、リーネの指先から純白の光が溢れ出した。
噴水の底に溜まっていた腐敗した泥が、一瞬で浄化され、光の粒子となって霧散していく。そして、数十年も止まっていた水路が「ゴボリ」と音を立てたかと思うと、水晶のように透き通った水が、勢いよく噴き上がったのである。
「な……っ!? バカな、水路は完全に死んでいたはずだぞ!」
驚愕するバルトの目の前で、さらなる「お掃除」が進む。
噴水から溢れ出した浄化の水が、枯れ果てた大地に染み込んでいく。リーネがブラシを振るうたびに、地中に溜まっていた呪毒が洗い流され、茶褐色だった土が、豊かな黒色へと蘇っていく。
すると、どうだろう。
立ち枯れていたはずの樹木が、リーネの魔力を吸い込んで「ミシミシ」と音を立てて成長し始めた。一瞬にして新緑の葉が茂り、枝の先からは、季節外れの色鮮やかな花々が次々と蕾を解き、甘い香りを放ち始めたのだ。
「……ふぅ。これで少しは、皆様も呼吸が楽になりますわね」
リーネは額の汗を拭い、満足げに微笑んだ。
そこには、先ほどまでの「死の庭」の面影は微塵もなかった。陽光を浴びて輝く水しぶきと、咲き乱れる花々。そこは今や、王都で最も美しいとされる王立庭園すら霞むほどの、奇跡の庭園へと変貌していた。
「……姫様……。あんた、いや、姫様……っ! 俺は、俺はなんてことを……!」
バルトはその場に膝をつき、震える手で蘇った土を掴んだ。
彼は涙を流しながら、リーネに向かって深く深く頭を下げた。
「これは掃除なんてレベルじゃねえ……。あんたは、女神だ。……この老いぼれバルト、今この瞬間から、あんたの忠実な下僕となります。庭のことなら、何でも命じてくだせえ、姫様!」
「ええっ!? ひ、姫様なんて、困りますわ。私はただ、お掃除をしただけですから……」
戸惑うリーネを、ジークヴァルトが背後からそっと抱きしめた。
「……言っただろう。君の価値は、磨けば磨くほどに光り輝くのだと。……バルト、彼女を『姫』と呼ぶのは許そう。だが、彼女に触れることだけは私が許さない」
庭園に清らかな風が吹き抜ける中、リーネはジークヴァルトの腕の中で、ようやく本当の安らぎを感じていた。
◆
しかし、その清浄な空気とは対極の場所で、どす黒い陰謀が煮えたぎっていた。
王都神殿の地下、窓一つない密室。
そこには、聖石浄化の際にリーネの光に目を焼かれ、地位を危うくした汚職司祭と、そして――。
「……あ、あの女……。リーネ……許さない……絶対に……」
顔の半分を布で覆い、浄化によって剥き出しになった醜い「ただれ」を呪うように掻きむしる男。リーネの兄、ロイド・エルストリアだった。
彼は没落し、浮浪者のような成り果てながらも、神殿側に拾われ、リーネへの復讐心だけで命を繋いでいた。
「ロイド殿。……準備は整った。あの女は、聖女などではない。人々の心を惑わし、禁忌の術で神殿を汚した『魔女』だ。……証言者は揃っている。国王陛下と民衆の前で、あの女を異端審問の火刑台に送ってやろうではないか」
司祭の邪悪な笑い声が、地下室に響く。
彼らはリーネの「あまりに清らかすぎる力」を逆手に取り、それを「悪魔の業」だと捏造するための偽の証拠を、着々と作り上げていた。
リーネの無自覚な救済が、意図せぬ形でさらなる巨悪を呼び寄せようとしている。
だが、隠れ家の暖炉の前でジークヴァルトに甘えるリーネは、まだ知らない。
自分を捨てた兄と、腐敗した宗教権力が、手を取り合って自分を地獄へ引きずり込もうとしていることを。
「……リーネ。明日も、明後日も、私は君を守る。……この命に代えてもだ」
ジークヴァルトの熱い誓いだけが、夜の帳が下りた別邸に、静かに響いていた。




