【第12話】王都の「煤(すす)」が気になります。……内緒のお散歩で、スラム街を丸洗いしてしまいました
カステル辺境伯家の王都タウンハウス。その三階にあるリーネの私室からは、王都シュトラールの全景が一望できた。
白亜の王宮を中心に、整然と並ぶ貴族街の屋根。石畳の美しい大通りには馬車が行き交い、一見すれば平和で清らかな王都そのものだ。
けれど、リーネは窓枠に指をかけ、眼鏡の奥にあるアメジスト色の瞳を僅かに細めていた。
「……あそこだけ、とっても『煤』が溜まっていますわ」
彼女の視線の先。華やかな中央広場から数本路地を入った、入り組んだ下町の一角。
そこには、物理的な汚れだけではない、どす黒く淀んだ魔力の「澱」が、重たい霧のように地面を這っていた。
実家で毎日、誰にも気づかれぬよう屋敷の結界を磨き続けてきたリーネには、それがはっきりと見えていた。あれは放置すれば、いずれ王都全体を蝕む「腐敗の根源」になる。何より、あんなに不衛生な場所を放っておくことは、掃除を愛する彼女の魂が許さなかった。
「閣下は、陛下との緊急会談で夜まで戻られないとお聞きしましたし……。ハンスさんも、地下貯蔵庫の整理で忙しそうですわね」
リーネは、そっと窓を閉めると、昨日ジークヴァルトから贈られたばかりの【聖樹のバケツ】と、特注の【白銀熊のブラシ】を魔法の収納袋に詰め込んだ。
自分でも分かっている。今の自分は「辺境伯夫人」であり、護衛もなしに街へ出るなど言語道断だ。けれど、あの澱みを見た後では、じっとしていることの方が苦痛だった。
「……ほんの少し、近所のゴミを拾いに行くだけですわ。すぐにお掃除して、すぐに戻ってまいります」
彼女は目立たないよう、地味な灰色の外出着に着替え、さらにフードを深く被った。
そして、裏口の鍵を【洗浄】の応用で音もなく開け、王都の迷宮へと足を踏み出したのである。
◆
たどり着いたスラム街は、想像を絶する不衛生さだった。
路地裏には腐った生ゴミが散乱し、ドブ川からは鼻を突く悪臭が漂っている。行き交う人々は皆、顔色が土色で、絶望と疲労が混ざり合った「魔力の汚れ」を全身に纏っていた。
リーネの足が止まったのは、スラムの中央にある、今にも崩れそうな古びた井戸の前だった。
「なんて……なんてことかしら! これでは、お水に毒が混ざっているのと同じですわ!」
井戸の底に溜まった水はどろりと濁り、負の感情が物理的な粘り気となって水面を覆っている。
リーネは恐怖を感じるよりも先に、怒りに近い「お掃除魂」を爆発させた。彼女は周囲を一度だけ見回し、誰も見ていないことを確認すると、収納袋から【聖樹のバケツ】を取り出した。
「【洗浄】――いいえ、ここは徹底的に『丸洗い』いたしますわ!」
リーネがバケツに手をかざすと、中から透き通った純白の光を放つ水が、溢れんばかりに湧き出した。
彼女はその水を、まずは井戸の淵から路地全体へと、打ち水のように勢いよく振りまいた。
――シュアァァァァァッ!!
水が地面に触れた瞬間、奇跡が起きた。
石畳の隙間にこびりついていた数十年来の泥汚れが、光の粒子となって弾け飛ぶ。
立ち上る湯気は、それ自体が高純度の浄化魔力を含んでおり、路地裏に漂っていた悪臭を瞬時にハーブのような清涼な香りに書き換えていく。
「次は、ここですわね」
リーネは【白銀熊のブラシ】を手に取り、井戸の周囲をシャカシャカとリズミカルに擦り始めた。
ブラシが通った跡には、白銀の光が道標のように刻まれ、井戸を覆っていた不吉な「澱」が蒸発していく。
彼女の【神域の純浄】が、伝説の道具を介して増幅され、ただの掃除が「広域浄化儀式」へと昇華されていた。
「……え? なんだ、この光は……」
「息が……息がしやすいぞ!? 体が、体が軽くなっていく!」
壁に寄りかかって喘いでいた老人が、驚愕の声を上げて立ち上がった。
咳き込んでいた子供たちは、霧が晴れるように体が楽になり、顔を上げて周囲を見渡す。
彼らの目に映ったのは、輝くバケツを持ち、淡々と路地を磨き上げる一人の地味な少女の背中だった。
彼女が通り過ぎた場所からは、ドブ川の水さえも水晶のように透き通り、暗かった路地裏には、まるでそこだけ天界が降りてきたような神聖な静寂が広がっていく。
「あ、あら。皆様……。あ、あの、不衛生だったので、少しお掃除させていただいただけで……」
リーネが戸惑ってバケツを隠そうとした、その時だった。
「――リーネ!!」
鼓膜を震わせるほどの、低く、切迫した叫び。
路地の向こう側から、王都の治安維持組織である騎士団を引き連れた、漆黒の外套をなびかせる男が、風のような速さで現れた。
ジークヴァルトだ。彼の顔は、かつて呪いに侵されていた時よりも蒼白で、その瞳には狂気的なまでの焦燥が宿っていた。
「……っ、見つけた……!」
ジークヴァルトは一瞬でリーネの元へ詰め寄ると、その華奢な肩を、折れんばかりの力で抱き寄せた。
「閣下……!? 会談は……」
「中止だ! 君がいなくなったと聞いて、王城から馬を飛ばしてきた……! リーネ、君は……君はどれだけ私を狂わせれば気が済むんだ!」
ジークヴァルトの腕が震えている。
彼はリーネを自分の外套の中に閉じ込めるように抱きしめ、周囲のスラムの住人たちを、近づく者すべてを斬り捨てんばかりの「死神」の視線で射抜いた。
「この場所で、一人で何をしていた……! 怪我はないか? 誰かに触れられなかったか? 毒を吸わされなかったか!? ……答えろ、リーネ!」
「あ、あの。……煤が気になったので、少しだけ『お掃除』を……。とっても綺麗になりましたわ、閣下」
リーネが満足げに指差した先。
そこには、かつての王都の恥部と呼ばれたスラムの姿はなかった。
磨き上げられた石畳。清らかな水。そして、病から救われ、神聖なオーラを纏った住人たちが、信じられないものを見る目で二人を見つめている。
「……お掃除……だと?」
ジークヴァルトはようやく、周囲の異変に気づいた。
この場所は今、王城の最奥よりも高い魔力密度と清浄さを有している。……リーネが、ただの「お散歩」のついでに、王都の闇を消滅させてしまったのだ。
「……陛下にお会いして、早急に王都を離れる許可を頂くべきだったな。……リーネ、君が外に出るだけで、世界が君を『聖女』として奪い合おうとする。……もう一秒たりとも、君を野放しにはできない」
ジークヴァルトは、周囲の住人たちがリーネに向かって跪こうとするのを見ると、それを遮るように彼女を横抱き(お姫様抱っこ)にした。
「閣下、恥ずかしいですわ! バケツが、バケツが落ちてしまいます!」
「バケツなど捨てろ! ……いや、それも君の魔道具か。ハンスに拾わせる。今は、私に抱かれていろ。……家に帰ったら、二度と勝手な真似ができないよう、君の体に私の刻印を深く刻んでやるからな」
耳元で囁かれた、独占欲の塊のような熱い言葉に、リーネは顔を真っ赤にして縮こまった。
騎士団が呆然と見守る中、ジークヴァルトはリーネを抱えたまま、清浄な風が吹き抜けるスラム街を後にした。
翌日。
王都中に、ある噂が激震のように走った。
「昨夜、王都最悪のスラムに白き聖女様が降臨し、一夜にして天界に変えられた」
「その聖女様は、恐ろしい死神辺境伯に連れ去られてしまった」
リーネの無自覚な「お掃除」が、ついに王国の宗教界、そして隣国の諜報員たちの耳にまで届き、彼女を巡る巨大な争奪戦の幕が、静かに上がろうとしていた。
当の本人は、タウンハウスの自室でジークヴァルトに「お説教(という名の甘い拘束)」を受け、「もっと丁寧にお掃除したかったですわ……」と、どこまでもマイペースな反省をしているとも知らずに。




