【第11話】嵐の後の静かな朝。没落した実家からの「贈り物」より、私は新しいブラシが欲しいのです
王都を揺るがした衝撃の夜会から、一夜が明けた。
カステル辺境伯家のタウンハウスは、昨夜の喧騒が嘘のように静まり返っている。窓から差し込む朝日は、リーネの無自覚な浄化によって磨き上げられた窓ガラスを透過し、寝室の床に一点の曇りもない光の帯を描き出していた。
「……閣下。あの、もう、お日様があんなに高いところにおりますわ」
リーネは、自分を包み込む大きな腕の中で、困ったように声を上げた。
ジークヴァルトは、起きてはいるものの、その逞しい腕でリーネの腰をしっかりと抱き寄せ、彼女をベッドから出そうとしない。それどころか、彼女のうなじに顔を埋め、深くその清らかな香りを吸い込んでいる。
「……あと一時間はこうしていると決めた。昨夜、あの忌々しいセシリアに触れられそうになった君の腕を、私の魔力で上書きしなければならないからな」
「触れられそうになっただけで、触れられてはおりませんわ。……それに、閣下がすぐに助けてくださいましたもの」
リーネが控えめにそう告げると、ジークヴァルトの腕にさらに力がこもった。
彼にとって、昨夜の出来事は単なる「不快な騒動」では済まなかった。愛する妻が、自分を虐げてきた実家の毒牙に再び晒されそうになったという事実は、彼の内にある独占欲と保護欲を、制御不能なほどに沸き立たせていたのだ。
「……君は、あまりに無防備だ。あのような汚物、私がいれば視界に入れる必要もなかったというのに。……リーネ、君は私の光だ。その光が、一瞬でも曇るような真似は私が許さない」
ジークヴァルトの低い、熱を帯びた声が耳元で響く。
リーネは、彼の過保護すぎるほどの愛に気恥ずかしさを覚えながらも、その胸の鼓動が自分を求めていることを感じていた。彼女にとって、実家での生活は「誰からも必要とされない日々」だった。だからこそ、こうして自分を「光」だと呼び、離そうとしないジークヴァルトの存在は、何よりも得難い救いとなっていた。
「……閣下。お掃除をさせてくだされば、私はすぐに元気になりますわ。ほら、あそこの隅に、昨夜の着替えで出た僅かな綿埃が……」
「……君という女性は。そんなことよりも、今は私の隣で大人しくしていなさい」
結局、リーネがベッドから解放されたのは、執事ハンスが控えめな、しかし断固としたノックを扉に響かせた後のことだった。
◆
朝食を兼ねたリビングでのティータイム。そこには、国王直属の使者が届けたという、一通の重厚な書状が置かれていた。
ハンスが恭しくそれを読み上げる。
「……エルストリア伯爵家は、禁忌の魔術使用、および辺境伯夫人への不敬、数々の公金横領の罪により、爵位を剥奪。全財産は没収の上、一族は王都を追放。……事実上の、家門断絶でございます」
その淡々とした報告を聞きながら、リーネは窓の外を眺めていた。
あんなに重苦しく、自分を縛り付けていた「家」という名の鎖が、こうもあっさりと消え失せてしまった。
悲しみも、喜びも、特には湧いてこない。ただ、長年こびりついていた頑固な汚れが、ようやく一拭きで綺麗になった時のような、そんな感覚だけがあった。
「リーネ。国王陛下からは、没収したエルストリアの領地と資産、その全てを君への慰謝料として譲渡したいという打診が来ている」
ジークヴァルトが、リーネの細い指先を包み込むように握りながら言った。
「君を虐げたあの屋敷をどうしたい? 更地にして巨大な洗濯場でも作るか? それとも、全て売り払って、君専用の最高級の工房を建てようか」
彼の提案は、どれも常軌を逸したスケールのものばかりだった。実家の財産といえば、たとえ没落したとはいえ、王都の一等地の邸宅や広大な領地が含まれる。それを全て、リーネの「お掃除」のために使おうというのだ。
ハンスが「閣下、さすがにそれは……」と口を挟もうとしたが、ジークヴァルトの鋭い視線に射抜かれて沈黙した。
「……いえ。そんな大層なものは、私には必要ありませんわ、閣下」
リーネは、ふんわりと微笑んだ。
「お父様たちの持ち物だったものを受け取っても、お掃除が大変になるだけですもの。……それよりも、私、お願いしたいことがあるのです」
「なんだ? 君の望みなら、地の果てにあるお宝でも取ってこよう」
身を乗り出すジークヴァルトに対し、リーネは少しだけ恥ずかしそうに、けれど瞳を輝かせて答えた。
「王都の古本屋街に、千年前の『失われた清掃術』が記された魔導書が眠っていると聞いたのです。それから、北の国でしか獲れない『白銀熊』の毛を使った、どんな微細な埃も逃さないという特注のブラシ……。それを、手に入れていただけないでしょうか?」
室内が、一瞬の静寂に包まれた。
ハンスは天を仰ぎ、ジークヴァルトは呆然とリーネを見つめた。
一国の領土にも匹敵する資産を提示されて、彼女が欲しがったのは、古びた本と掃除用のブラシ。あまりにもリーネらしい、あまりにも「地味」で純粋な願いだった。
「……リーネ。君は本当に……」
ジークヴァルトは、こらえきれないといった様子で、低く笑い出した。
笑って、笑って、やがて彼は愛おしさが限界に達したように、リーネを抱き寄せてその額に深い接吻を贈った。
「ああ、分かった。その本も、そのブラシも、世界中からかき集めて君に捧げよう。……君が無欲であればあるほど、私は君に全てを注ぎ込みたくなる。……覚悟しておけ、リーネ。私の愛は、君が磨き上げるどんな床よりも、深く、しつこく、君に纏わりつくだろうからな」
「……しつこいのは、少し困りますけれど。閣下がお手伝いしてくださるなら、私、嬉しいですわ」
リーネの天然な返しに、ジークヴァルトはさらに深く、溺れるような視線を向けた。
◆
その日の午後。リーネはさっそく、タウンハウスの裏庭で新しいブラシ(まだ特注品は届かないので、予備の良質なもの)を手にしていた。
実家という名の「大きな汚れ」が消え、王都の空は驚くほど澄んでいる。
「ふふ、やっぱりお掃除って素敵ですわ。淀みがなくなると、こんなに日差しが気持ちよく感じられるのですもの」
リーネが鼻歌まじりに石畳を掃くと、【神域の純浄】が穏やかに発動し、庭全体が柔らかな光に包まれていく。
背後では、執務を放り出したジークヴァルトが「リーネ、次はそこのバケツを運ぼう。私の魔力を使えば、水温も自由自在だぞ」と、王国最強の魔力を無駄遣いしながら、嬉々として彼女を追いかけている。
没落した実家の末路など、もはや今の彼女の意識には一欠片も残っていない。
彼女の目の前にあるのは、磨けば磨くほどに輝く新しい世界と、自分を「光」として崇め、決して離そうとしない愛おしい「死神」の存在だけ。
「閣下、そこは私が磨きますから。……もう、本当に過保護なんですのね」
「当たり前だ。私の魂を洗浄し、再生させたのは君なのだから」
二人の笑い声が、清浄な空気の中に溶けていく。
王都滞在はまだ続くが、リーネにとっての「真の戦い(大掃除)」は、ここからさらに加速していくことになるのであった。




