【第10話】王都の夜会はピカピカすぎて目が眩みます。……え、皆様が跪いているのは、私のお掃除のせいですか?
王宮の大舞踏室は、今やこの世の楽園か、あるいは神々の集う聖域のようであった。
天井から吊るされた巨大なクリスタルのシャンデリアが、かつてないほど清澄な輝きを放ち、磨き上げられた床は深淵の湖のように滑らかで、貴族たちの影を鮮明に映し出している。
だが、その美しさは王宮の掃除係による努力の成果ではない。
カステル辺境伯ジークヴァルトの腕に抱かれるようにして現れた、一人の「地味」なはずの少女――リーネが、ただそこを歩き、その場に留まっただけの結果であった。
「……閣下。あの、皆様がさっきから私の方をじっと見ていらっしゃいますわ。やはり、私のような地味な掃除女が、このような煌びやかな場所に来るべきではなかったのでしょうか」
リーネは、アメジスト色の瞳を不安げに揺らし、以前かけていた丸眼鏡を直すような手癖を見せた。もっとも、その眼鏡はすでに義母エレオノーラによって没収されており、今は彼女の透き通るような素顔が、残酷なまでに露わになっている。
「……リーネ。君はまだ、自分の価値を理解していないのだな」
ジークヴァルトは、彼女の腰に回した腕を一層強く引き寄せ、周囲の貴族たちを「見るな」と言わんばかりの冷徹な魔圧で威圧した。
彼の正装は、リーネの浄化魔力を受けて鈍く光る黒銀の鎧布でできており、二人が並び立つ姿は、闇夜を統べる王と、その胸に抱かれた唯一無二の恒星のようであった。
「君が歩くたびに、この会場の『汚れ』が消えていく。君が吐息をつくたびに、淀んでいた空気が聖域へと変わる。……見てみろ。君を嘲笑おうとしていた者たちが、あまりの神々しさに言葉を失い、膝をつこうとしているのを」
「ええっ!? 皆様、体調が悪いのでしょうか。……それはいけませんわ。お掃除が足りなくて、悪い空気が溜まっているのかもしれません」
リーネは、本気で心配して周囲を見渡した。
彼女にとっては、周囲の貴族たちが呆然としているのは「不衛生な空気のせい」だという結論に至る。緊張を紛らわせるように、彼女は無意識に足元から【神域の純浄】の波動を放った。
純白の波紋が床を駆け抜け、会場の隅々に溜まっていた数十年分、数百年分の「権力の泥」を根こそぎ洗い流していく。
その時だった。
人混みを割って、一人の少女が飛び出してきた。
リーネの妹、セシリア・エルストリアである。
彼女は、かつてリーネを「汚らわしい」と罵り、実家で一番の美貌を誇っていた。だが今の彼女は、リーネがいなくなった実家の腐敗をその身に受け、顔中に不気味な湿疹が浮き出ていた。それを隠すために、禁忌の魔道具を用いた呪いの厚化粧と、他人の若さを吸い取るドレスで着飾っていた。
「……お姉様! お姉様お姉様お姉様ぁ!!」
狂気に満ちた叫び。セシリアは、リーネのドレスの裾を掴もうと、泥のついた手で這い寄った。
「よくも……よくも私をこんな目に! あなたが去ってから、屋敷は異臭が漂い、お父様は発狂し、お兄様は病に伏したわ! あなたが何か毒を仕込んだのでしょう!? 今すぐその力を私に返しなさい! その美しさも、その魔力も、全部私のものよ!」
会場にいた貴族たちが、セシリアのあまりの醜態に悲鳴を上げた。
かつての「社交界の華」の無残な姿。だが、リーネはセシリアに対して怒りを感じるどころか、悲痛なまでに顔を歪め、その場に跪いて妹の手を取った。
「……まあ、セシリアちゃん! なんてこと……! そんなに顔色が悪くなって、身体中にこんなに恐ろしい『汚れ』がこびりついて……。苦しかったでしょう。痛かったでしょう」
リーネの瞳から、一粒の涙が零れ落ちた。
彼女にとっては、愛する妹を救うための、全力の、魂を込めた「お掃除」であった。
――キィィィィィィン!!
空間を切り裂くような清澄な音が響き渡り、リーネの手から、視界を真っ白に染め上げるほどの浄化の閃光が放たれた。
それはもはや魔法という次元を超えていた。理を正し、偽りを剥ぎ取る、神の御業。
「あ……ああああああっ!! 熱い、熱い熱い熱いぃぃ!!」
セシリアが、地獄の業火に焼かれるような絶叫を上げた。
リーネの浄化が、セシリアの体に纏わりついていた「呪いの化粧」と「他人の魔力を奪うドレス」を、分子レベルで分解し、消滅させていく。
浄化の光が引いた後、そこに残っていたのは、以前の美しいセシリアではなかった。
化粧とドレスという「仮面」を失った彼女の姿は、内側に溜め込んだ悪意と業が、そのまま肉体に反映されたかのような、見るに堪えない醜悪なものに変貌していた。
浄化によって「表面のメッキ(偽りの美)」が剥がれ、隠されていた「中身の醜悪さ」だけが、以前より強調されて白日の下に晒されたのだ。
「……あれ? どうして……?」
リーネは、呆然として立ち尽くした。
彼女の目の前には、浄化される前よりもさらに無残な姿でのたうち回る妹がいる。
「……ごめんなさい。ごめんなさい、セシリアちゃん。私、一生懸命にお掃除したのですけれど……一度では、落としきれなかったみたい。あなたの心の奥に、まだこんなに真っ黒なものが残っているなんて……」
リーネは、本気で申し訳なさそうに、震える声で謝罪した。
「静まれ! 何事だ!」
威厳に満ちた声と共に、人垣を割って現れたのは、この国の主たる国王陛下と、その隣に控える白髭の老魔導師――筆頭魔導師のオーウェンであった。
国王は会場に足を踏み入れた瞬間、その異常なほどの空気の清々しさに目を見開いた。
「これは……。我が王宮の結界を遥かに凌ぐ浄化の波動……。オーウェン、鑑定せよ」
オーウェンが震える手で杖をかざし、のたうち回るセシリアと、呆然と立つリーネを交互に見た。
「陛下……信じられませぬ。その娘――セシリアが纏っていたのは、他者の生命を啜る禁忌の呪い。そして、その呪いを『掃除』したカステル辺境伯夫人の御力は……もはや人の領域を超え、神域に達しております。彼女が歩いた場所には、邪悪な術など一切通じませぬぞ」
「なんと……。エルストリア伯爵家は、これほどの不浄を抱えながら、救国の英雄である辺境伯にこの『聖女』を差し出したというのか」
国王の冷徹な視線がセシリアに注がれる。セシリアは剥き出しになった醜い素肌を隠そうと床を掻くが、その爪さえも浄化によって黒ずんだ呪毒を排出し続けていた。
「近衛兵! この不浄なる者を今すぐ連行せよ! 禁忌の術を用いた罪、および辺境伯夫人への不敬、到底許されるものではない! エルストリア家は即刻、爵位を剥奪し、領地も没収とする!」
国王の命を受け、鉄の鎧を纏った近衛兵たちが一斉に踏み出した。
「エルストリア公女セシリア、禁忌術行使の現行犯で拘束する! 大人しくしろ、この化け物め!」
「離して! 私は綺麗なのよ! お姉様が、お姉様が私をこんな姿に……ひぃぃぃぃ!」
衛兵に手荒く両脇を抱えられ、セシリアは無様に足をバタつかせながら会場を引きずられていく。その叫び声が遠ざかるたび、会場の空気はさらに清らかさを増していくようであった。
「……閣下。私、お掃除が得意だと思っていたのに……。どうしても磨ききれないものがあるのですね。悲しいですわ……」
「……リーネ。君が悲しむ必要はない」
ジークヴァルトは、彼女の耳元で囁いた。
「君の優しさは、汚れた連中には劇薬すぎる。君の光で救えないものは、この世のどこを探しても存在しない。……ただ、あの者たちは、救われることすら拒むほどに腐っていただけなのだ」
「ならば、もう他人の掃除などするな」
ジークヴァルトは、跪いて主を認めようとする国王陛下すら無視し、リーネを横抱きにすると、その大きな外套で彼女の姿を隠した。
リーネが指先を向けた先では、建物にこびりついていたどす黒い変色や、漂っていた異臭が、白い光の粒子と共に霧散していた。かつてどんよりと澱んでいた大舞踏室には、今は透き通った月の光が真っ直ぐに差し込み、埃一つない床を白く照らし出している。
ジークヴァルトは、腕の中のリーネを一度だけ強く抱きしめ直すと、その唇を塞いだ。
王都の夜会。
エルストリア伯爵家は、リーネが放った一筋の光によって、その資産の多くと社会的地位を完全に喪失した。
後に残されたのは、かつてないほど清らかに浄化された会場と、自らの業に焼かれて没落した伯爵家の噂。
そして、王国中の人々が、伝説の始まりを確信した瞬間であった。
地味な掃除女と蔑まれた少女の指先が、この国の澱みをすべて洗い流し、最強の死神の心に、消えない愛の火を灯したのである。




