雨が降って、太陽がまた昇る ~恋は、シワの分だけ深くなる~
第一章 雨の道、挨拶の覚悟
朝の雨は気まぐれだった。降ったりやんだりを繰り返し、道は黒く濡れて光っている。低い雲が空を覆い、湿った空気が肌にまとわりついた。陽子は傘を少し前へ傾け、隣を歩く息子の歩幅に合わせる。老舗の家で育つと、こういう挨拶の日は体が先に固くなる。背筋、声の高さ、靴の揃え方。その一つ一つが家の看板に触れている気がするからだ。息子は気にした様子もなく、傘の端で水を弾いていた。
陽子の息子:「母さん、眉間のシワ、今日だけで二本増えてる」
陽子:「増えていいの。今日は大事な日です」
陽子の息子:「大事っていう割に、顔が戦いに行く人なんだけど」
陽子:「戦いじゃない。挨拶よ」
息子ははいはいと笑い、水たまりを踏んで靴を濡らす。
陽子:「ちょっと! そういう所がもう……!」
陽子の息子:「畑も湿り気が大事だし。農家の家には合ってるって」
陽子:「急に味方みたいなこと言わないの」
言いながら、陽子は自分の声が硬いのを自覚する。老舗の家では家族に会うとは家同士が会うことに近い。人柄だけでなく、立ち居振る舞いも見られる。それが当たり前で育ってきた。角を曲がると、瓦屋根の家が見えた。周囲には畑が広がり、雨上がりの土の匂いが風に混じる。派手さはないが、長く続いた暮らしの筋がある家だった。
陽子の息子:「なんか、いい家だね。落ち着く」
陽子:「……そうね」
門のそばには作業靴が揃って置かれていた。雨の日でも畑に出る家なのだろう。その几帳面さに、陽子は胸の奥で小さく息を吐く。老舗の誇りと、農家の誇り。形は違っても、どちらも積み重ねでできている。玄関前に立ち、屋根から落ちる水滴の音を聞きながら、陽子はチャイムの前で指を止めた。
陽子:(大丈夫。挨拶は挨拶。昔とは違う)
そう言い聞かせ、指を伸ばした瞬間だった。ガチャリと音を立ててドアが先に開いた。
太郎の娘:「お父さん! 私、お茶菓子買ってくるね!」
明るい声と一緒に若い娘が玄関から飛び出してきた。財布を握ったまま靴を履き、その勢いで陽子と息子にぶつかりそうになる。
陽子の息子:「うわっ!?」
太郎の娘:「きゃっ! すみません! 前、見てなくて!」
娘はぺこぺこと頭を下げ、息子は手を振った。
陽子の息子:「大丈夫です! 怪我ないです!」
太郎の娘:「よかった……。あ、来てくれたんですね!」
陽子が口を開く前に、息子が一拍早く乗る。
陽子の息子:「はい! 俺、陽子の息子です! で、こっちが母さん!」
陽子:「ちょっと、名乗り方が雑!」
娘はくすっと笑った。
太郎の娘:「じゃあ、お茶菓子急いで買ってきます! 家に、なかった気がして!」
陽子の息子:「俺も行くよ! 母さん、ここで待ってて!」
陽子:「え? あなた、挨拶は?」
陽子の息子:「挨拶は逃げない。お菓子は逃げる!」
陽子:「意味が分からない!」
太郎の娘:「あはは! 行きましょう!」
二人は顔を見合わせ、雨上がりの道へ走っていった。玄関先に残されたのは、陽子ひとりだった。
陽子:(……私だけ!?)
急に静かになる。陽子は傘を畳み、敷居の前で小さく足を揃えた。老舗で身についた癖が勝手に体を整える。だが胸の奥は落ち着かない。土と濡れた木の匂いが、懐かしくも怖い。
陽子:「……どうしましょう。入っていいのかしら?」
その声に応えるように、家の奥から男の声がした。
太郎:「どなたかな?」
現れた老人は白髪混じりで背が少し丸い。だが目だけは澄んでいた。長年、日差しと風の中で働いてきた人の目だ。
太郎:「そこに立っていても仕方ない。中へどうぞ」
陽子の喉が詰まる。名乗らねばならない。だが名乗った瞬間に何かが崩れそうだった。
陽子:「本日は……」
太郎:「まあまあ、濡れる。先に入って」
不器用だが、気遣いはまっすぐだった。陽子はうなずき、靴を揃えて上がる。居間に通されると畳の匂いがふわりと広がり、古い柱時計が規則正しく鳴っていた。長い時間が、この家の空気に染み込んでいる。陽子は座布団の前に立ったまま、太郎の顔を見た。胸の奥が、強くざわつく。
陽子:(……まさか。そんなはず、ないのに)
太郎は客を見る目のまま、穏やかに言った。
太郎:「それで……どちらさまで?」
その瞬間、雨の匂いの奥から、三十年前の夜の匂いが、ふっと立ち上がった。
第二章 畳と柱時計
陽子は名乗るべき言葉を喉の奥で転がし、そのまま飲み込んだ。名乗った瞬間、何かが崩れる気がした。崩れてはいけないものと、崩れた方がいいものが、胸の中でせめぎ合っている。太郎は急須を手に取り、陽子の方へ一歩寄った。その歩き方は静かだが、地面を踏む力がある。畑に立ち続けてきた人の足取りだった。
太郎:「まあ、座って。お茶でも」
そう言いながら、太郎は自分の座布団を持ち上げ、向きを直して置いた。置いた直後に、もう一度直す。陽子はそれを見て、ほんの少しだけ口元を緩めた。昔もそうだった。緊張すると、どうでもいい所作に救いを求める人だった。
陽子:(……変わってない)
柱時計が一つ鳴り、陽子ははっとして背筋を正した。
陽子:「あの……今日は……」
言いかけた瞬間、太郎が湯のみを差し出してくる。
太郎:「熱いから、気をつけて」
陽子は反射で受け取り、すぐに後悔した。受け取ってしまえば、帰れない。老舗の家で身についた癖が、勝手に動いてしまったのだ。
陽子:(受け取ったら、話をしないといけないじゃない……)
太郎は台所へ向かい、すぐに戻ってくる。そして、急須を持ったまま立ち止まった。何をすべきか、順番が分からなくなったような顔をしている。
太郎:「……いや、先に、話を」
そう言いながら、また座布団を直す。落ち着いているのは、言葉だけだった。陽子は湯のみを置き、その音が思ったより大きく響いたことに、少し驚く。
陽子:「……私のこと、覚えていませんか?」
太郎は瞬きをし、首を傾げた。考える時の癖だ。その目に浮かんだのは、懐かしさではなく、困惑だった。
太郎:「ええと……」
数秒の沈黙。柱時計の音だけが、妙に耳につく。
太郎:「どなたでしたっけ?」
陽子の中で、何かがぷつんと切れた。
陽子:「……本気で言ってます?」
太郎:「え?」
陽子は湯のみを持ったまま、太郎を見た。白髪が増え、背中は丸くなっている。それでも、間違えるはずがなかった。
陽子:「私です。陽子。三十年前の」
太郎は一瞬、固まった。それから、ゆっくりと目を見開く。
太郎:「……あ」
小さな声だった。次の瞬間、太郎は立ち上がり、陽子を頭から足先まで、遠慮なく見回した。
太郎:「ああっ!? 陽子さん!? 本当に!?」
陽子のこめかみに、ぴくりと青筋が浮かぶ。
陽子:「……ちょっと。人の顔を見る時は、順番ってものがあるでしょう」
太郎:「い、いや……あまりにも……」
言葉を探し、そして言わなくていいことを言う。
太郎:「ずいぶん、シワが増えましたねえ……」
陽子は一歩前に出た。
陽子:「失礼ですね!! あなたこそ、干し柿みたいな顔じゃないですか!!」
太郎はぽかんとし、次の瞬間、吹き出した。
太郎:「はは……それは、言い過ぎだ」
陽子:「どこがですか!」
陽子も、堪えきれずに笑った。声を出して笑うのは、何年ぶりだろう。畳の部屋に、二人の笑い声が転がる。三十年分の時間が、今、音を立てて崩れていく気がした。
太郎は咳払いを一つし、ようやく座布団に座った。だが、すぐにまた立ち上がる。
太郎:「……お茶」
そう言って台所へ向かい、また戻ってきて立ち止まる。
太郎:「……いや、話を」
陽子は、その落ち着きのなさが可笑しくて仕方なかった。
陽子:「太郎さん。さっきから、立ったり座ったり忙しいですね」
太郎:「あ、いえ……落ち着こうと……」
そう言いながら、また座布団を直す。落ち着いているのは、やはり言葉だけだった。陽子は笑みを残したまま、少しだけ声を落とした。
陽子:「……どうして、あの時、別れたのか。聞いてもいいですか?」
太郎の手が止まる。その沈黙には、三十年分の重さがあった。太郎は視線を外し、畳の縁を見つめた。
太郎:「……あなたのお父さんに、言われたんです」
声は低く、静かだった。
太郎:「娘は見合いをする。だから、会うなって」
陽子は息をのむ。
陽子:「……そんな話、私は知りません」
太郎:「え?」
二人は顔を見合わせる。老舗の家。農家の家。時代と、大人たちの判断。それらが、二人の間に横たわっていたことを、ようやく理解する。
陽子:「……戻れない過去ですね」
太郎:「ええ。でも……」
太郎は、少しだけ笑った。
太郎:「今、こうして話せている。それだけで、悪くない」
陽子は小さくうなずいた。胸の奥が、少しだけ軽くなる。柱時計が、また一つ、時を刻んだ。
第三章 今と昔のあいだ
柱時計の音が、二人の間に残った沈黙を区切るように鳴った。太郎は急須を持ったまま、しばらく動かなかった。畳の縁を見つめるその横顔は、さっきまでの落ち着きのなさが嘘のように静かだった。
太郎:「……まさか、こうして会うとは思いませんでした」
陽子は湯のみを両手で包み、湯気の向こうから太郎を見る。声を出せば、また何かが壊れそうで、慎重に言葉を選んだ。
陽子:「私もです。正直……来るまで、何度も引き返そうと思いました」
太郎は小さくうなずき、ようやく座布団に腰を下ろす。今度は直さない。腰を落ち着けた、というより、覚悟を決めたようだった。
太郎:「息子さん……元気そうですね」
陽子:「ええ。落ち着きはないですけど」
太郎:「はは……それは、うちの娘も同じです」
二人は顔を見合わせ、また小さく笑った。笑いはあるが、さっきほど弾まない。どこか遠慮が混じっている。
陽子は部屋を見回した。古い家具、年季の入った柱、磨かれた畳。どれも派手ではないが、丁寧に使われてきた跡がある。
陽子:「……変わらない家ですね」
太郎:「ええ。変えないようにしてきましたから」
その言葉に、太郎の生き方がにじむ。土地を守り、畑を守り、暮らしを続ける。農家の家柄は、派手な看板は持たないが、時間そのものが証になる。
陽子:「私の家は……変わりました」
太郎:「そうですか」
陽子:「見た目は同じです。でも、中身は。守るものが増えて、縛るものも増えました」
太郎は黙って聞いていた。相づちも打たず、ただ聞く。その姿勢が、昔から変わらない。
太郎:「それでも、守ってきたんでしょう」
陽子は少し驚いて、太郎を見る。
陽子:「……ええ。守りました。守るしか、なかった」
言い終えた後、陽子は自分の声が少し震えていることに気づいた。老舗の看板は、誇りであり、重りでもある。
太郎は立ち上がり、窓の方へ歩いた。外には、雨に洗われた畑が広がっている。
太郎:「農家も、同じですよ」
振り返らずに言う。
太郎:「土地を守る。作物を守る。人との約束を守る。逃げたら終わりです」
陽子は、その背中を見て思う。三十年前、この人は若かった。若くて、不器用で、それでも真っすぐだった。
陽子:「……それで、身を引いたんですか」
太郎は少しだけ肩をすくめた。
太郎:「身を引いた、というより……壊したくなかった」
陽子:「何を?」
太郎:「あなたの家も、自分の家も」
その言葉は、責めるでもなく、言い訳でもなかった。ただ、事実だった。
陽子は視線を落とし、畳の目をなぞる。
陽子:「私、あの時……捨てられたと思ってました」
太郎:「……そうでしょうね」
陽子:「だから、意地になりました」
太郎は、ゆっくりと振り返った。
太郎:「意地、張ってましたか」
陽子:「ええ。立派に」
そう言って、陽子は苦笑する。
陽子:「老舗のお嬢様は、簡単に泣かないんです」
太郎:「はは……そうでした」
その笑いに、少しだけ昔の影が混じった。
太郎はまた座り、今度こそ急須から湯のみへお茶を注いだ。少しこぼれる。
太郎:「……あ」
陽子:「こぼれてます」
太郎:「ああ……」
太郎は慌てて布巾を取りに行き、戻ってきて拭く。その動きが、どこかぎこちない。
陽子:「落ち着いてください」
太郎:「はい」
返事は素直だが、手はまだ忙しい。
陽子は思わず、くすっと笑った。
陽子:「変わらないですね。そういうところ」
太郎は照れたように頭をかいた。
太郎:「年は取りましたけどね」
陽子:「ええ。お互いに」
言いながら、陽子は自分のシワを意識する。だが、不思議と嫌な気はしなかった。
外で、誰かの足音がした。砂利を踏む音が近づいてくる。
太郎:「……あ、帰ってきたかな」
陽子の胸が、きゅっと縮む。次に来るのは、子どもたちだ。今と、過去と、未来が、また一つの場所に集まろうとしている。
柱時計が、静かに時を刻んだ。
第四章 知らなかった別れの理由
太郎は湯のみを置き、指先で縁をなぞった。その動きは、畑で土の湿りを確かめる時と同じだった。陽子は、その癖に気づき、胸の奥が静かに揺れた。
太郎:「……あの時、あなたのお父さんが来たんです」
陽子は黙ってうなずいた。続きを促すように、視線だけを向ける。
太郎:「畑にいました。雨上がりで、土が重くて。長靴が、なかなか抜けなかった」
その具体的な言い方に、場面が浮かぶ。
太郎:「後ろから声をかけられて、振り返ったら……立派な身なりの人が立っていました」
陽子:「父ですね」
太郎:「ええ。靴も服も、声の張り方も、全部がきちんとしていた。ああ、この人は違う世界の人だって、すぐに分かりました」
太郎は小さく息を吐く。
太郎:「『娘は見合いをする』そう言われました。理由は、家のためだと」
陽子の指が、きゅっと握られる。
陽子:「私は……聞いていませんでした」
太郎:「でしょうね」
その言葉には、怒りも責めもなかった。
太郎:「『農家の家に嫁がせるつもりはない』とも言われました」
陽子は唇を噛んだ。
陽子:「……父は、そういう人です」
太郎:「ええ。真っすぐでした」
真っすぐ、という表現に、陽子は少しだけ救われる。
太郎:「家を守る、という意味では……俺も、同じでしたから」
太郎は、自分の手を見る。節が太く、土の色が抜けきらない手だ。
太郎:「農家は、土地を守れなかったら終わりです。老舗は、看板を失ったら終わりでしょう」
陽子は、ゆっくりとうなずいた。
陽子:「ええ」
太郎:「だから、身を引きました」
陽子:「……何も言わずに?」
太郎は、ためらいなくうなずく。
太郎:「言えば、あなたは選ぼうとする。家か、俺か」
陽子:「……ええ」
太郎:「それをさせるのが、嫌でした」
その一言が、陽子の胸に深く沈んだ。
陽子:「私は……捨てられたと思いました」
太郎:「そうでしょうね」
陽子:「だから、意地になりました」
太郎は黙って聞いている。
陽子:「父の言う通りに、見合いをして、結婚して、母になって……ちゃんとした人生です」
太郎は、はっきりとうなずいた。
太郎:「ええ。立派な人生です」
陽子は視線を落とす。
陽子:「でも……知らなかった」
太郎:「何を?」
陽子:「太郎さんが、私を嫌いになったわけじゃなかったってこと」
太郎は、少しだけ困ったように笑った。
太郎:「嫌いになる理由が、ありません」
陽子は、息をのむ。
太郎:「知っていたら……もっと苦しかったでしょう」
陽子:「……ええ」
柱時計が、静かに鳴る。
陽子は、ゆっくりと息を吐いた。
陽子:「私たち、見事にすれ違ってましたね」
太郎:「三十年も」
陽子:「長すぎます」
太郎:「本当です」
二人は、顔を見合わせた。そこに怒りはなかった。残っているのは、少しの悔しさと、静かな納得だった。
外で足音がした。今度は、はっきりと近づいてくる音だ。
太郎:「……戻ってきたみたいです」
陽子は背筋を伸ばした。老舗の癖だが、今はそれが、悪くなかった。
陽子:「ええ」
知らなかった別れの理由は、もう戻らない時間を変えはしない。それでも、知った今の方が、胸の奥の息は、確かにしやすかった。
第五章 名前を呼ぶ距離
玄関の方から、がさがさと紙袋の音が聞こえた。続いて、軽い足音が二つ重なる。陽子は思わず背筋を正し、太郎は反射的に咳払いをした。二人とも、理由は分かっていないが、急に「ちゃんとしなければ」と思っている。
太郎の娘:「ただいまー!」
陽子の息子:「お菓子、いっぱいあった!」
勢いよく襖が開き、二人が顔を出す。その瞬間、空気が少し変わったことを、若い二人は敏感に感じ取った。
太郎の娘:「……何か、ありました?」
陽子の息子:「妙に静かじゃない?」
陽子:「な、何もないわよ!」
声が少し高い。自分でも分かる。
太郎:「ええ、何も……」
そう言ってから、太郎は湯のみを持ち上げ、また置いた。中身はほとんど残っていない。
太郎の娘は、父の様子を一瞬だけ見て、にやりと笑った。
太郎の娘:「ふうん」
陽子の息子:「あ、母さん、その座り方、改まってる時のやつだ」
陽子:「余計なこと言わないの!」
太郎は、そのやり取りを見て、少しだけ肩の力を抜いた。
太郎:「まあ……座って。お菓子、あるんでしょう」
太郎の娘:「はいはい」
娘は袋を広げ、菓子を並べる。その手つきは慣れていて、家の中で育った安心感がある。
陽子の息子:「いただきます!」
陽子:「ちょっと、挨拶は?」
陽子の息子:「もう挨拶したでしょ。さっき」
太郎の娘:「いいですよ。うち、そんな堅くないですから」
陽子は、少し驚いて娘を見る。
陽子:「……ありがとうございます」
太郎の娘:「あ、今の言い方、母さんそっくり」
陽子の息子:「分かる。俺もそう思った」
陽子:「あなたたち……」
太郎は、くすっと笑った。
太郎:「似ますよ。親子ですから」
その言葉に、陽子は一瞬だけ言葉を失った。三十年前には、想像もできなかった光景だ。
太郎の娘:「あ、そうだ」
娘は顔を上げ、少しだけ照れたように言う。
太郎の娘:「お父さん。陽子さん、って呼んでますよね」
太郎:「え?」
太郎の娘:「さっきから」
太郎は、耳まで赤くなった。
太郎:「いや、それは……昔からの……」
陽子:「……私も、太郎さんって呼んでます」
陽子の息子:「あ、そこは普通に呼ぶんだ」
陽子:「普通よ!」
太郎の娘:「へえ」
二人は意味ありげに顔を見合わせ、同時にうなずいた。
太郎:「な、何だ、その顔は」
太郎の娘:「別にー」
陽子の息子:「別にねー」
言い方だけが妙に揃っている。
陽子は、思わずため息をついた。
陽子:「……年を取っても、名前を呼ぶのって、照れますね」
太郎は一瞬、黙ったあと、小さく笑った。
太郎:「そうですね。慣れません」
陽子:「昔は、平気だったのに」
太郎:「若かったですから」
陽子:「そうですね」
二人は、視線を合わせ、すぐに外した。その様子を、子どもたちは見逃さなかった。
太郎の娘:「……ねえ」
陽子の息子:「うん」
太郎の娘:「この二人、面白いね」
陽子の息子:「今さら感がすごい」
陽子:「聞こえてます!」
太郎:「ええ、全部」
笑いが起きる。大きくはないが、温度のある笑いだ。
縁側の方から、夕方の光が差し込み始めていた。雨は完全に上がり、庭の水たまりが、空を映している。
陽子は、その光を見て思った。過去は変えられない。でも、今は、こうして同じ部屋で笑っている。それだけで、悪くない。
太郎:「……お茶、入れ直しましょうか」
陽子:「ええ。今度は、落ち着いて」
太郎:「努力します」
そう言って立ち上がり、また座りそうになって、止まる。
太郎の娘:「お父さん」
太郎:「……はい」
太郎の娘:「落ち着いて」
一同が笑った。
第六章 親として
お茶を入れ直す間、居間には不思議な静けさが流れた。気まずさではない。ただ、それぞれが自分の立ち位置を探しているような、少しだけ重い沈黙だった。太郎は台所から戻り、今度は慎重に湯のみを置く。こぼれない。それだけで、少し誇らしげだ。
太郎:「……改めて、話をしましょうか」
陽子は背筋を伸ばした。その動きは無意識で、老舗の癖でもある。だが、今は「母親」としての姿勢だった。
陽子:「はい」
太郎の娘と陽子の息子は、顔を見合わせる。
太郎の娘:「もしかして、いよいよですか?」
陽子の息子:「なんか、空気がそれっぽい」
太郎:「ああ……そういう話だ」
太郎は、少しだけ言いにくそうに言った。
太郎:「娘から、聞いてます。二人のこと」
太郎の娘:「ちゃんと話したよ。逃げずに」
太郎:「そうだな」
太郎は、娘の方を見て、ゆっくりとうなずいた。その目には、農家の父親らしい厳しさと、同じくらいの優しさがあった。
太郎:「陽子さん」
名前を呼ばれ、陽子は一瞬だけ目を伏せ、それから顔を上げる。
太郎:「あなたの息子さんは……いい若者ですね」
陽子の息子:「あ、ありがとうございます」
急に振られて、慌てて頭を下げる。
太郎:「軽いけど」
陽子の息子:「そこ、否定しないで!」
太郎は、ふっと笑った。
太郎:「畑でも、家でも、重たいだけじゃ続かない。軽さも、大事です」
陽子は、その言葉に、胸の奥が少し温かくなる。
陽子:「……ありがとうございます」
太郎は、今度は陽子の息子を見る。
太郎:「娘を……よろしくお願いします」
その言葉は、静かだったが、重みがあった。土地を託す時と同じ重さだ。
陽子の息子:「はい」
今度は、ふざけなかった。
陽子は、息を一つ吸い、立ち上がった。
陽子:「太郎さん」
太郎:「はい」
陽子は、深く頭を下げた。
陽子:「……このような息子ですが、どうか、よろしくお願いします」
その動きに、子どもたちが息をのむ。老舗の家で、頭を下げるということの意味を、陽子はよく知っている。
太郎は慌てて立ち上がり、同じように頭を下げた。
太郎:「こちらこそ」
二人の頭の高さが、同じになる。その光景を見て、娘が小さくつぶやいた。
太郎の娘:「……対等だ」
陽子の息子:「うん」
頭を上げた二人は、少し照れたように目をそらした。
太郎:「三十年前は……こうはいかなかった」
陽子:「ええ」
太郎:「今は……いい時代ですね」
陽子:「本当に」
縁側の向こうで、風が庭の木を揺らした。濡れた葉が、光を返す。
太郎の娘:「なんか、ちゃんと家族になった感じ」
陽子の息子:「まだだけどね」
太郎:「まあ、これからです」
陽子は、ゆっくりとうなずいた。
陽子:「ええ。これから」
その言葉には、過去を悔やむ響きはなかった。今を受け入れ、先を見る音だった。
第七章 雨上がりの縁側
話が一段落すると、居間の空気がふっと緩んだ。太郎は縁側の障子を少しだけ開ける。外はすっかり明るくなり、雨は跡形もなく消えていた。庭の土はまだ湿っているが、そこに差し込む光はやわらかい。
太郎:「雨、上がりましたね」
陽子:「本当ですね」
縁側に腰を下ろすと、畳とは違う冷たさが伝わる。太郎の娘と陽子の息子は、並んで庭を眺めていた。
太郎の娘:「この庭、落ち着きます」
陽子の息子:「分かる。静かでいい」
太郎は、その後ろ姿を見て、小さくうなずいた。
太郎:「昔は……ここで、よく考え事をしました」
陽子:「畑のこと?」
太郎:「それもありますけど……人生のことです」
陽子は、縁側の木目をなぞる。三十年前、こんなふうに並んで座る未来など、想像もしなかった。
陽子:「もし、あのまま一緒になっていたら……どんな人生だったでしょうね」
太郎は少し考え、空を見上げた。
太郎:「きっと、忙しかった」
陽子:「それは想像できます」
太郎:「でも……悪くはなかったと思います」
陽子は、静かに笑った。
陽子:「私も」
二人の間に、気まずさはない。ただ、確かめ合うような静けさがある。
太郎の娘:「ねえ、お父さん」
太郎:「ん?」
太郎の娘:「今の人生も、悪くないよね」
太郎は、少し驚いたように娘を見る。
太郎:「……ああ」
陽子の息子:「母さんも、そう思ってるでしょ」
陽子は一瞬、言葉を探し、それからうなずいた。
陽子:「ええ。子どもたちがいて、幸せ」
太郎は、深く息を吸い、吐いた。
太郎:「それで、十分です」
縁側に、風が通り抜ける。濡れた庭の匂いが、少しずつ乾いていく。
陽子は思った。過去は変えられない。でも、今は選べる。そして、今の選択は、悪くない。
第八章 太陽がまた昇る
夕方の光が、部屋の奥まで差し込んできた。太郎は障子を閉め、居間に戻る。
太郎:「そろそろ、日も傾きますね」
陽子:「ええ」
帰り支度をする陽子を見て、太郎の娘が声をかける。
太郎の娘:「また、来てください」
陽子:「……いいんですか?」
太郎の娘:「もちろん」
陽子の息子:「じゃあ、今度は俺が菓子持ってくる」
太郎:「期待してます」
玄関で靴を履きながら、陽子は一度だけ振り返った。
陽子:「太郎さん」
太郎:「はい」
陽子:「……今日は、ありがとうございました」
太郎は、少し照れたように頭を下げる。
太郎:「こちらこそ」
外へ出ると、空はすっかり晴れていた。雲の切れ間から、夕焼けがのぞいている。
陽子の息子:「母さん、顔、柔らかくなった」
陽子:「うるさい」
だが、その声には棘がなかった。
家を離れ、道を歩き出す。振り返ると、太郎の家が夕日に照らされている。
陽子は、胸の中で静かにつぶやいた。
過去は雨のように降った。でも、今は太陽が昇っている。
恋は終わらなかった。ただ、形を変えて、深くなっただけだ。
第九章 その後のこと
それから、季節が一つ進んだ。畑の色が変わり、空気が少し軽くなる。太郎の家には、前よりも人の出入りが増えた。特別なことは何もない。ただ、週に一度、誰かが訪ねてくる。それだけだ。
太郎の娘:「お父さん、今日も来るって」
太郎:「ああ。お茶、用意しとく」
その言い方は、もう慌てていない。座布団も、一度置けば直さない。
縁側では、太郎と陽子が並んで座ることが増えた。話題は畑のこと、店のこと、子どもたちのこと。三十年前の話は、もう蒸し返さない。
陽子:「最近、店の前を通る人が増えたの」
太郎:「畑も同じです。見に来る人が増えました」
二人は顔を見合わせ、笑う。理由は分からないが、悪くない変化だ。
太郎の娘と陽子の息子は、相変わらず自然だった。畑を手伝い、店の手伝いをし、夕方には二人で買い物に行く。
太郎の娘:「ねえ、将来さ」
陽子の息子:「うん」
太郎の娘:「どっちの家も、続けたいよね」
陽子の息子:「欲張りだな」
太郎の娘:「いいでしょ。今の時代だし」
太郎は、その会話を聞いて、少しだけ目を細めた。
太郎:「時代は、ちゃんと進んでるな」
陽子は、静かにうなずく。
陽子:「ええ。置いていかれないように、歩けばいいんです」
夕暮れの縁側で、風が通り抜ける。雨の気配はない。
最終章 雨が降って、太陽がまた昇る
ある日の午後、急な雨が降った。短く、強く、そしてすぐにやんだ。太郎は縁側に出て、濡れた庭を眺める。
太郎:「また、降りましたね」
陽子:「すぐ、やみますよ」
その通り、雲の切れ間から光が差す。水たまりが、きらりと光った。
太郎は、少しだけ照れたように言う。
太郎:「……また、来ますか」
陽子は笑う。
陽子:「ええ。何度でも」
二人は、同時に立ち上がり、同時にまた座った。
太郎:「……今のは、失敗ですね」
陽子:「ええ。年のせいです」
太郎:「それも、悪くない」
陽子:「ええ」
柱時計が、変わらず時を刻む。畑は続き、店も続く。恋は、形を変えて、暮らしの中に溶け込んだ。
雨は降る。また降る。でも、そのたびに、太陽は昇る。
シワは増える。その分、話も増える。
それでいい。
それが、二人の今だった。




