【罪と罰】なぜ現代では「赦し」すらをも「悪」とする風潮が蔓延るようになったのか?
タイトルを入力し「さてこのテーマについて、いっちょ考えてみるか」と手を揉み。
で、ふと思いつく。
AI先生にタイトルをそのままコピペして質問してみたら、いったいどういった答えが返ってくるのかな?と。
筆者が嗜虐的とすら感じる「失敗者」に対する社会の反応。その裏には、いったいどのような心理が働いているのだろうか。そしてAIはそれをどのように分析するのであろうか?
AI先生はいきなりドストエフスキの『罪と罰』を引き合いに、日頃の社会的格差や不公平感から、加害者に対する「赦し」にすら「甘やかし」や「不正義」を覚える人々が存在することを指摘。不公平の是正という観点でも「正義こそが至高」という意識を持つ人々が増加するのが、こういった社会的低迷期・混乱期に多く見られる傾向だという。
うーん、いきなり納得。なるほどね~。
ただ、筆者自身は社会的格差におけるだいぶと下流の方に生まれながら「不公平感」などという感情とは、子供の頃にとっくに縁を切っており、「社会ってそういうもんじゃん」とずっと思って生きてきた。なので、こういった「ルサンチマン的思考」が少々欠落しており、社会的強者にも弱者と同様の苦しみを認め、「赦し」に関しても、大変おおらかな人間になってしまった、と自分自身にも少々呆れている(いや、呆れてはいないんだけど)。
現代社会の不寛容性について、ケンカを売ってやろうと息巻いてタイトルを書いて早々、AI先生からのファイナル・アンサー。長期的なストレスからヒステリーを起こしている人々に対し、不寛容性を指摘し、カウンターを仕掛けたとしても、それはもう逆効果だなと、いきなり気付かされてしまった(諭されたとでもいうべきか)。
『罪と罰』の引き合いの後にも、AI先生はソリッドな論理展開でこの社会的状況を解説。その上でこの風潮を変えるための「道徳的な正解」まで隙のない筋道で説明。あれ、これもう何も書く(分析する)必要ないじゃん、と筆を折る筆者であった。
なんだこれ。
筆者自身がなぜ、大体のことに対し、すぐに「赦し」の心を持ってしまうのか、という点について、ちょっと追加で考察。
それはおそらく「怒り続けることのしんどさ」徒労感から来るもの。ネイティヴ・インディアンのことわざにも「怒りは自分に盛る毒」というものがあり、それを子供のころから肌感覚で理解していたので、こういう人間になってしまったんだな、と。
逆に「正義を振りかざす不正義」には今でも拒絶反応があり、ついつい噛みついてもしまうわけだが、エネルギーの使い方が世間とは少々裏返ってしまっている、と自己分析。