梅に見る
プロローグ「雪に見る」
はらりはらりと降る雪の中、一人の男が傘を差して、そんな雪を立ち止まって眺めていた。
そんな男の口の端からふと、感嘆の声が漏れた。
「嗚呼、雪とはなんて儚く美しいのだろうか」
男の雪を見る目は、何処か遠くを眺めているようにも、懐かしさに浸っているようにも、
―――まるで、何か思い残したようにも感じれらた。
一章「ふる雪にいろまどはせる梅の花」
五年ほど前のとある吹雪の日。
男はまだ、二十二ほどの若者だった。
手にはさしていない傘を持ち、帰路についていたが、その足はなかなか進まず、道の脇に構えてある店などによっては、売り物を見ていた。
しかし、手に取ったものも買うことはせず、冷やかしもいいところだった。
男はどうも、家路を急いでいるようには見えなかった。
そう、男は家に帰ることを躊躇っていたのだ。
男は人間に対して好感を抱くことができず悩んでいた。
人とはどうして自然のように逞しくあらず、儚くあらず、美しくあれないのだろうか。
男は人を自分の大好きな自然と比べてしまっていた。
その中でも両親のことは特に苦手としている。
父親は厳格であり、母親は一言も言葉を発さないのである。
そんな父親のことは嫌いではなくとも、同じ家に住まえば自らもそうなってしまうのではないかと思ってしまい、母親も同じく、全く口を開かないつまらない人間になってしまうのではないかと案じていた。
それだけではなく、男の家には本の一冊もなかったのだ。
本はないが花や鳥の絵などは腐る程あり、季節によって飾る絵を変えるのだった。
男は、自らがそんな家で育ってきたが故に、人を好きになれず、本を恋しく思い、絵などではない本物の自然を愛するようになってしまったのである。
故に家へと向かう足はなかなか進んではくれなかった。
だが、やがて人気が少なくなっていき、道の脇にも民家がところどころ立ち並ぶ程度になっていく。
先刻から、雪はまだ降り続いているというのに悲しいものだと心の家で嘆いていた。
そう、思ったのと全く同時にそれは、彼女は目に入った。否、男の眼が彼女に吸い込まれたのだった。
───男は彼女に見惚れた。
嗚呼、なんと美しい少女だ。まるで、この吹雪にさらされながらも咲く、梅の花のようだ。
「すまない、君」
気がつけば男は、掃き掃除をする少女に歩み寄り、声を掛けてしまっていた。
男はハッと我に返った。
「あぁ、何でも──」
「何か御用でしょうか」
小さな鈴を小さく鳴らしたような、か弱く、それでいて凛としたような可憐な声が、男の耳を擽った。
誤って掛けた言葉を取り消そうとしていたがもう遅い。
その声に耳を溶かされた男は、そのまま取り消すことなど叶わず、会話を続けるしかなかった。
「そのだな、雪が降っていては色々と困ってしまうだろう。私の袖も君の肩も濡れてしまっているではないか」
「……は、はい」
「その、よければ少し休みたいと思ってだな」
男がそこまで言った後、二人の間に沈黙が流れた。
しかし、その静寂を少女のかすかな笑い声がこだました。
「ふふっ」
と口元をおさえ、可愛らしく笑った。
少女はそのまま男の右手を指さした。
「あっ」
男はふと気がついた。
少女が指した男の右手には傘が握られていた。
男は口を開けたまましばらく沈黙した。
すると、少女は再び笑い、男に話しかけた。
「ふふっ、面白い方。」
「そうだったな傘があったことをすっかり忘れてしまっていた」
男は少し恥ずかしそうに言った。
「ですが…」
少女は続けた。
「もし、またこの道を通るのでしたらその時は、傘を持たずに通ってください。貴方ともっと話してみたいです」
「勿論だ」
男は自分でも気づかぬ間に素早く返事をしてしまっていた。
その後再び顔を赤くすると急いでこの場を立ち去らんと早口で告げた。
「ぜひ、そうさせていただこう。では、その時まで」
「はい、どうか風邪を引かないでくださいね」
傘をさし、家に背を向けた男を、少女は手を振りながら見送った。
嫌われるかと思ったが、次話す約束まですることができた。今日はとても良い日だ。明日もきっと良い日になるな。
男は今日一日と次の機会に、幸せな予感を感じた。
男の足取りは軽く、家路を真っ直ぐと辿っていた。
二章「鶯のみやわきてしのばむ」
あれから二日経った後、男はとある大学へと向かった。
片道五時間という遠い遠い道のりだったため、まだ日も昇らないうちに家を出た。
男は雪が降っているにも関わらず、傘を手にしていなかった。
まだ日の昇らない闇の中、駅への道を小走りで向かっていた。
その道の途中、少女の家を通り過ぎたときには、たまたま会うことができるのではないのだろうかと淡い期待も抱いたが、そのような予感など全くなかったため、少女の姿がないことを確認すると、その場にとどまろうとする念を振りほどくようにして走った。
駅について外套を触るとかなり湿っていた。
真っ黒な外套はその色のごとくずっしりとしていて、羽織っていると地面に引っ張られているようだった。
そんな外套を脱ぎ、券を買って、ホームで待っていた。
やがて、爛々と光る一つ目が近づいてきた。
汽車だ。
汽車が煙突の根本のライトを光らせ、シュッシュッと音を立てながら走ってきたのだ。
その光がホームで一人佇んでいる男を照らし出した。
キーッという高い音とゴォォという低い音が歪に混ざり合い男の耳に響いた。
停車した汽車に男はゆっくりと乗った。
そのままゆっくりと歩き、車両の真ん中あたりで窓にもたれかかるようにして座席に座った。
男が座ると、汽車はすぐに動き出した。
男の乗った車両にはその男の他に誰一人として乗っていなかった。
男は方にかけていたカバンから一冊の本を取り出すとそのまま適当に開いた頁を読み始めた。
男が二頁ほど読んだところで、車掌がやってきて男の切符を切った。
車掌が去っていくと、男は再び、本を読み始めた。
それからしばらくして、日が昇り始めた。
男はそれに気づくと本を閉じ、窓を開けた。
そうして男は、陽の光を、日の出の瞬間の凍るような空気をその胸いっぱいに吸い込んだ。
毎朝の日課だ。
こうして汽車の窓から吸うことだってよくあった。
男の顔にいくつもの冷たいものが触れた。
雪だ。
男が家を出た頃から今までずっと降り続けていたのだ。
男はそのまま雪を眺めた。
───刹那、男の視界に純白の花を咲かせる見事な梅の木が映った。
それは本当に一瞬のことで、汽車はすぐにその梅の木を遠く後ろへと突き放してしまっていた。
しかし、男の瞳にはその梅の幻影がくっきりと映り込んでいた。
視界の外にある梅の木が自らの目の先にあるのだ。
男はかっと目を見開き、梅の木を見てから一度も瞬きをしてなどいなかった。
男の知らぬ間に、他の乗客も増えていたのだが、そのどの人々も梅の木には気づかなかった。
男だけが見分けたのだ。
降りしきる雪と見紛うほど清く白い梅の花を。
男だけが見たのだ、少女の微笑みを。
男だけが聞いたのだ、銀鈴の音を。
雪に隠れる梅の花を男だけが見つけたのだ。
第三章「君に告ぐ」
ある駅のホームに汽車が止まった。
日は沈み、汽車も段々とその夕闇に溶けてゆく。
そんな汽車から一人の男が走りながら降りてきた。
その様子は慌ただしいなんてものではなく、真っ直ぐと自分の信念を貫き通す美しい姿勢さえ感じさせた。
足は目的地に近づけば近づくほどに早くなり、凍えるほどの風にさらされながらもその額には汗が滲んでいた。
男はようやく足を止めた。
着いたのだ。彼女の家に。
男は膝に手をつき、ぜえぜえと乱れた呼吸を整えようとした。
「なにか御用でしょうか」
男の眼の前で一つの鈴の音が響いた。
男は顔を上げその鈴の音の方を見遣った。
そこに立っているのは一人の少女だ。
あの少女が梅の花の少女が立っていた。
男はやっとのことで声を出した。
「雪が降っていては色々と困ってしまうだろう。私の袖も君の肩も濡れてしまっているではないか」
この前の言葉を一言一句違わず、発した。
ずっと待っていたのだ。
この時を、彼女に会いに行くことをずっと心待ちにしていたのだ。
いつでも彼女を想い、今こうして会いに来たのだ。
少女は微笑み、今度は前と異なる言葉を口にした。
「そうですね。それはお困りでしょう。よければ、私の家でお休みください。雪が止んでからまた、お帰りになってください。」
男は頷くだけで精一杯だった。
息が乱れているわけではない。
走って疲れているわけでもない。
その言葉に鼓動が高鳴り、次言葉を交わしたならば、心臓が裂けてしまいそうなほどだった。
少女と男は言葉をかわさずに少女の家へと上がった。
玄関に少女以外の靴はなかった。
少女はまだ、一人暮らしができるような歳でもないと思われるにも関わらず、一人なのだろうか。
そんなことを男は思った。
「今、母は父の入院している病院にいます。帰りは遅いでしょう。なので、どうぞゆっくりされてください」
少女は男の心の内を読んだかのように淡々と述べた。
それからしばらく、男と少女は少女の用意した温かい茶を飲みながら居間で一時間ほど話をした。
男は少女のことをよく知ったし、少女に自分のこともよく知ってもらえたと思い、満足した。
そして丁度、雪が止んだ。
「もう、こんな時間ですね」
「ああ、そうだな。とても楽しい時間を過ごさせてもらったよ。雪も止んだことだしそろそろ帰らなければいけないな」
「そう…ですね」
少女は残念がった。
男も心の内ではそんな少女の表情を見て、もっと留まりたいと思っていた。
しかし、雪は止んでしまった。
家への道は開けた。
もう遅い時間だ。
男は立ち上がり、少女は男を玄関まで見送った。
「あの…よければ、また雪の降る日にでも」
「そうだな、雪の降る日に。約束だ」
男はそう言って、その場を離れようとした。
その背中に少女の視線を感じながら、離れたくないという思いを胸に抱きながら、離れようとした。
「待ってください」
少女がそう、男を引き留めた。
「お名前を…」
「鶯」
男は振り向き、すぐに返した。
男はまだ、名乗っていなかったのだ。
「うぐいす…さんですか」
「そうだ、真樽鶯。それが私の名だ」
「うぐいすさん。ぜひまた、いらしてください」
少女は今までで一番大きな声で伝えた。
「わかった」
鶯も負けず大声で返し、再び少女に背を向けた。
「また、いつか、雪の降る日に」
鶯の小さなつぶやきが雪の止んだ夜道に確かな心残りを落とした。
第四章「隠るるまでにかへりみしやは」
男が遠く離れた街へと行くことは少女との二度目の邂逅より少し前、大学で告げられた。
鶯は同じ研究室で働く、仲間から誘われ、さらに大規模な研究所へと移動することになったのだ。
鶯はこの時、期待に目を輝かせ、直ぐに返事をしてしまった。
それが今、いざ、家を出るとなると大きな後悔として鶯の背中にのしかかった。
その研究所は雪が降らないほどの遠く南にあり帰るには今までの大学への道のり何往復分もあった。
つまり、この土地に返ってくることは滅多にできないのだ。
こうなると、今まで苦手としていた両親のことは少しでも恋しく思うことになるし、何より、約束を果たすことができなくなってしまう。
少女との次会う約束がもう二度と果たせなくなるかもしれないのだ。
そう思うだけで後悔はまた一段と大きく膨れ上がった。
両親は家の玄関で快く見送ってくれた。
最近は二人共足腰が悪くて、駅まで歩くなど一苦労なのだ。
鶯は自らが生まれ育った家を一度だけ振り返った。
今までの思い出がいくつも浮かんできた。
その思い出は鶯の足を止めるに足らず、鶯は再びとぼとぼと歩き始めた。
駅に着く前に、少女の家に寄らなくてはならない。
鶯は研究所に行った後、少女に手紙を送ろうと思っていた。
そのために少女の名を聞く必要があった。
少女の親にこの関係を明かしたくなかった。
少女だけに手紙を読んでほしかった。
その手紙に想いを乗せたかった。
少女の家を訪れ、戸を叩き、訪ねた。
家はしんとしていて、なんの音沙汰もなかった。
鶯は絶望を知った、今までの人生絶望などなかった。
下を向くようなことは多々あったが、これほどの喪失感と憂鬱感が己を苛んだのは初めてのことだった。
そんな陰鬱さを心のうちに留めることができず、鶯はしばらく、その場に立ち尽くした。
しかし、鶯はやがて汽車の時間に急かされるようにして、少女の家を離れた。
名前を聞き返していればよかった。
会えなくなることを伝えていればよかった。
鶯は、少女の家の梅の木の梢を何度も何度も見えなくなるまで振り返った。
第五章「雪ふる里ぞ夢に見えける」
そうして少女に会うことのできない日々が五年続いた。
その時の後悔は重い鉛として鶯の心にのめり込んでいた。
鶯はそんな昔を、雪を見て思い出していた。
鶯のため息は雪の降る空に滲むようにして広がった。
五年という月日は忙しい日々を過ごしてきた男にとって、あっという間の短いにも途方もなく長い時間にも感じられた。
鶯は先ほど雪を儚く、美しいと称賛したが、記憶の中の少女はそんな雪も霞むほど綺麗で、可憐で、美しくて、弱々しくて、そんな彼女を思い出し、鶯はさらに彼女に会いたくなった。
嗚呼、君に会いたい。
君にあって話がしたい。謝りたい。
君のことをもっと知りたい。
君の名前を教えてくれ。
君のその笑顔を見せてくれ。
君の声を聞かせてくれ。
鶯はベンチに座り込み、頭を抱え込んだ。
次の瞬間、鶯の耳をあの懐かしい鈴の音が、透き通った声がかすめた。
「なにか、お困りですか」
鶯の眼の前に一人、少女が立っていた。
その瞬間鶯の眼から涙が溢れ出した。
どれほど悲しくても一滴も出なかった涙が鈴の音一つでダムが崩壊したかのように一気に流れ出た。
「雪が降っていては色々と困ってしまうだろう」
涙とともに声も溢れた。
恋も溢れた。
傘を持っていない少女に涙声になりながらも声をかけた。
「そうですね。私も困っています。それではこうしましょう。私が貴方にハンカチをあげます。なので、私も傘に入れてください」
鶯は苦しみをこらえて頷いた。
泣いて泣いて、息もできなくなっていた鶯に少女はハンカチを差し出した。
「もう、一人で悩むことはないですよ。ほら」
そう言って少女は鶯の頬を濡らす涙を拭いた。
鶯は自分の頬に少女の手が触れたとき、自分の気持ちに気がついた。
嗚呼、私は君と出会ったあの日から、ずっと君のことが好きだったのか。
「君の……」
「何。うぐいすさん」
「君の名前を教えてくれ」
少女は少し間をおいて名乗った。
「雪下来梅。それが私の名前です」
君はそんな名前だったのか。
君らしい可憐な名だ。
男は立ち上がり、来梅の手を取って言った。
「ありがとう、来梅。すまない、来梅。私はあの時からずっと、君が好きだ。」
この作品は国語の授業で創作したもので、文字数やら、原典やら、ジャンルやら色々と制限があっての作品作りになってしまい。最後の方などは特に展開が急すぎて、クオリティの低いものとなってしまいました。最近は受験勉強に明け暮れている(本当のところ学校の課題に追われていてそれどころじゃない)ので、全く作品が投稿できておらず、「取り敢えず出しとけ」という感じで出したものです。いつか、リメイクして、入れたかったシーンなんかも入れたいと思います。
受験勉強(をする時間が作れるように)頑張ります。