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「やたらと忙しい一日だったな、……いてて」
剛田は交番から少し歩いた所にある銭湯で汗を流し、湯船に浸かって小さく呟く。
頬の傷の血は既に止まっていたが熱い湯が少々沁みていた。
僅か半日程度の間に度重なったアクシデントの数々、剛田は疲れた身体を癒すため湯浴みに訪れたのだ。
銭湯の使い方は日本とほとんど同じだ、カツ丼もそうだが日本と共通するものが、この灯炫郷に割りと多いらしい。
日本とまったく違うのは多種族が入り交じっている点だが、そのわりには種族による差別はあまり感じられない。しかしその代わりに居住区域による差別が定着しているといった模様。
今日の出来事や学んだことを思い浮かべ逆上せる前に湯から上がり服を着る。
「いい湯だったよ、また来るね」
「ありがとさんよ、流界人の兄ちゃん」
そして番台にちょこんと座る番頭の小迅族のお婆ちゃんに挨拶をしたら家路を辿る。
黄昏時を過ぎた空は薄暗く、星がちらほらと輝きだしている。
中層区はマナによるエネルギーインフラがそれなりに整っているようで、この時間帯は辺りの民家から漏れる灯りと疎らに佇む街灯のお陰で夜道でもなかなかどうして歩きやすい。
剛田は晩飯にしようと露店で買った肉まんのような物を小脇に抱え、歩きながら夜空に点在し始めた星を眺めていた。
湯で火照った顔を涼しい夜風が撫でるとなんとも言えない心地よさが身体に染み渡る。
悦に入っていた剛田がふと正面に目をやると遠目に交番が見えてきたのだが、その前にはまたも人影が佇んでいるのが見える。
(おいおい、もう勘弁してくれよ……)
頭の中でぼやきながらも、見間違いであってほしいと恐る恐る交番へと歩み寄る。
「あっ、ゴーダ! どこ行ってたんだよ!」
それは今日の昼にもみた顔であった。
「なんだジュカ君か……」
「な、なんだよその反応は? ていうか顔ケガしてんじゃねえか」
安堵から肩の力が抜けてしまった剛田、その様子と頬の大きな傷を見たジュカが訝しげな視線を送る。
「いやすまない、なんでもないんだ。これはあの後ちょっと色々あってな。ところでこんな時間になにか用事か?」
比較的安全ではある中層区といえど、心層区と違い外層区との物理的な隔たりはなく子供が出歩くには十分に危険である。
「ああ、仕事のついででちょっと通りかかったから顔出しただけなんだけどな」
「仕事?」
「運び屋もやってんだよ、足だけは速いからな」
そう言ってボロの貫頭衣に隠れた太腿を叩いて見せる。
「もしかして良くない物を運んでるんじゃないだろうな?」
「さあどうだろうな? 『中身は知らない方がいい』なんてのも多いからな、オレもあえて詮索しねえよ」
などと笑いながら冗談めかして話すジュカ。
(それは確実にいけない物を運ばされているんじゃないだろうか……)
などと考えながら剛田は顎に手を当て苦い顔。
「でも今日で運び屋は仕事納めだよ、盗みもやめだ。明日からは幽玄で働くからな、迷惑かけらんねえしよ。それでさ、一つ聞きたいんだけど幽玄て定休日あんの?」
「たしか火曜日だったな、それがどうかしたか?」
この異世界でも曜日は同じように日曜日から土曜日まであり七日間で構成されている、ちなみに今日は金曜日である。
どうやら暦に関してもあちらの世界と変わらないようなのだが日本のように四季があるのかはまだ分かってはいない。今の気候は涼しく、夜は少し肌寒い程度であり日本で言えば秋くらいにあたるのだろうか。
「そうか、じゃあさその日ゴーダが暇なら外層区にこねえか? 今日の話をしたら弟が会って礼を言いたいらしくてよ、それに前も言ったけどそう悪いとこでもねえんだぜ」
あちこちと走り回る剛田も外層区にはまだ行ったことがない。というのも治安局員のルゥに「不慣れな者が一人で行く場所ではない」と釘を刺されていたからだ。
交番の位置は中層区の東寄りにあり、地図で確認した限りではスラムの入り口までなら徒歩でも剛田の足なら一時間程度で行けるかといった距離であった。
(正直なところ興味はある……)
黙って視線を空へと泳がせる剛田、実は以前から行ってみたいとは思っていた彼がこの誘いに乗らない訳がなかった。
「そうだな、そう言うことなら弟君に会いに行ってみるか。それにもう少しこの灯炫郷の見聞も広めておきたいしな」
「そうこなくちゃ、じゃあ四日後だな。ここまで迎えにくるから道案内はまかせろよな。じゃあな!」
「ああ、またな。といってもどうせすぐ幽玄で会うだ──」
ジュカは挨拶を口にすると剛田が言葉を言い終える前に身を翻し、すっぽり身を覆う貫頭衣とボサボサの長い髪を靡かせながら風のように走り去っていく。
忙しない小迅族の背中を見送りながら、風を擬人化したらあのようになるのではないかと剛田は一人忍び笑いするのだった。
さあ、そろそろ中に入るか……。
交番へと入ると灯りをつける。
電灯はこちらの世界で買ったマナエネルギー由来のバッテリー式懐中電灯を天井からぶら下げて代用しているため、夜でもそこそこ不便なく動くことができた。
水に関しては交番のすぐ脇に古井戸があり、そこで汲んだものを煮沸して飲んだり生活用水として使用させてもらっている。
「もらっている」とは言っても井戸の所有者は不明。まるでこの交番の立地に誂えたように存在していたものであり、使っていて近所から苦情を言われる事もなかったので今の今まで勝手に利用しているのだ。
そもそも中層区は水道管理も充実しているようで井戸を使う者は多くない、それでも交番にこの街の水道管が繋がっているわけも無いのでこの井戸は剛田にとって取り分け有難い物であった。
何気に恵まれた環境、最低限生活していくのに困りはしなかったが一つ問題があった。
娯楽が少ない。
夜は非常に退屈である。剛田にとってはこれが元の世界に帰りたい一番の理由でもあった。
心層区ほどではないにしろ中層区にも飲み屋通りや風俗街といったそれなりの規模の夜の歓楽街はちゃんと存在するのだが、まとまった金銭はあるものの無駄遣いできるほどの見通しは立っていない剛田は欲に任せて散財することなどできはしない。
それならば小説や漫画といった安価なものをと考えてはみたものの文字体型や言語の組み立てが似ているだけであり、決してスラスラと読める訳ではないのでいまいち楽しめはしなかった。
ある程度お金を出せばテレビのような映像機器も手に入りはするがこの交番にそれを写し出せる設備が整っている訳がない。ただテレビを買えば視聴できるわけではないのは日本と同じだ。
その結果、毎晩トレーニングに励んでは疲れにまかせて眠ってしまうのが夜のルーティンになっている。
「ある意味健康的だよな……」
げんなりとした表情で天井を見つめながらそう呟き、剛田は今日も眠りについた。
※
あれから三日間、相変わらず帰る手掛かりは掴めていないものの先週金曜日の嵐のような一日がまるで嘘のように穏やかに日々は流れていった。ほぼ毎日食べに行く幽玄ではジュカが慣れない接客を一生懸命にやっており、聞けばなんとか続けていけそうだということで剛田は一安心した。
そして火曜日の朝──
「おい、ゴーダ準備できてるかー?」
交番の扉をドンドンと叩く音と共に大きな声が聞こえてくる。
その声に気づいた剛田が扉を開くと見知った小迅族が腕を組んで立っていた。
「朝早いな……」
「もう八時だぜ、スラムの朝は早いんだよ」
そう言いながら早くしろよと言わんばかりに爪先をパタパタと鳴らすジュカ。
(外層区から来たってことは起きたのはもっと前だよな、今日はこいつ休日だろうに……)
そんなことを思いながらも──。
「すまんすぐに出られるようにする」
と、慌てて準備を始めた。
そうは言っても剛田もそれなりに早起きであり七時には起きてダラダラと掃除や水汲みなどをやっていたところであった。夜することもなく退屈で寝てしまうのだから早朝に目が覚める当たり前である。
黒いツナギに袖を通し、ブーツを履く。
そして髪は軽く寝癖を直す程度、準備といっても数分で完了する手軽さである。
「しかし、ジュカ君は幽玄で働く時以外は相変わらずそのいつもと同じ服を着ているんだな」
交番を施錠し終えた剛田がふと尋ねる。
「まあ気に入ってんだよ。ていうかゴーダも同じ格好じゃねえか」
そう言って指を指すジュカ、真っ当な指摘に剛田も反論の余地が無い。
「う、まあそう見えるよな……」
いつも同じ服だと思われていそうだがそうではない、剛田はこのツナギを合わせて三着ほどロッカーに掛けているのだ。
つまり剛田にしてみれば厳密には毎日同じ服ではないのだがそれは他人には伝わる筈もない。
「それじゃ気を取り直して出発するか、歩いて行くのか? 交通手段とかはあるのかい?」
「なに言ってんだよ、金も時間も勿体ないだろ。走るんだよ」
「マジか……」
斜め下の回答であった、朝っ腹からいきなり走らされるなど警察学校以来である。
そこからハイペースのジュカについてランニングさせられること約十五分程、外層区と中層区の境であり両区を隔てる大きな線路道に辿り着く。
そこでは何本もの路線が走り、川のように列車が往来している。
「ハァハァ、ジュカ君……ハァハァ、速いな……」
「なに言ってんだよ、オレ一人だったらここまで十分だぜ、まあ全力出せばもっと飛ばせるけどな。しかしそんなに息切らして情けねぇなぁ」
ここまで走った距離はおよそ五千五百メートルといったところ、毎日ランニングをしてはいる剛田ではあるが長距離走や中距離走の選手を目指している訳ではないのでこの距離をこの服装でこのペースはさすがにキツかったらしい。
(一人なら十分、あちらでは五キロメートルの世界記録が十二分台だったか。舗装されていない道ならバイクや車より余程速いし何より疲れ知らず、運び屋は天職だったのでは……)
マナによる身体強化の成せる技か、はたまた小迅族という種族のポテンシャルなのか、そんなことを考えながら剛田は懸命に息を整えた。
「ふぅ、この線路道の向こう側が外層区、通称スラムって訳か」
「ああ、そうさ」
中層区にも灯炫郷をぐるりと繋ぐ主要交通路があるがそちらとは違い線路しかなく列車しか走っていない。ジュカによると主に外層区で生産されるものを流通させるのに使われる、配送を主目的としたものだそうで魔導列車と言う名だそうだ。
図らずも外層区と中層区を隔てる境界線のような役割も果たしている為、皮肉も込めて『防壁代わりの鉄道』などと呼ばれているらしい。
流通の妨げにならぬよう人を渡すことなど想定していないので踏切はない、歩道橋は点在しているそうだがここからはかなり遠い。
しかし向こう側へ行く方法は単純だ、列車に轢かれないように気をつけて渡れとのこと。
仮にこの鉄道で列車に轢かれ死んだ場合、余程の人物やなにか事件性等がない限り身元調査すらされず自然へと還るまで線路脇に野晒しされるらしく、死体が転がっていることなどざらにあるそうだ。
それ故場所によっては酷い臭いが漂っている。
「これでスラムに到着と」
ハードルラインの幅は百メートル程といったところ、気をつけて渡るだけならそう難しくはない。
「ようこそ外層区へ、じゃあせっかくここまで来たんだしうちに行く前に色々寄って帰ろうぜ」
軽快に言い放つジュカ。
「貧民街と聞いていたが大きな建物が多いな」
民家はあまり見られず、工場のような巨大な建造物が乱立する風景を見回しながら剛田が呟く。
「ああ、そりゃそうさ。肉や穀物に野菜それに魚介類、ていうかほとんどの食料の生産は外層区で行われてるんだ、まあ経営してんのは心層区の奴らだけどな。剛田の言う貧民街のイメージに当て嵌まるとしたらもっと外側だぜ、うちもその辺だ」
「なるほど、人通りも多いし中層区とは違った栄え方をしているのはそう言うことか」
するとジュカは先導するように足取り軽く前にでて剛田に手招きする。
「さっきの様子じゃどうせ朝飯まだだろ? そこの商店街に食いに行こうぜ、この辺の工場は二十四時間稼働してるとこばかりだから朝からやってる店も結構あるんだ。奢れとか言わねえからさ」
「そうだな、起き抜けに一走りして腹も減ったしそうするか」
そう口にして剛田が外層区での一歩を踏み出した。