前世で私を棄てた婚約者様に、どうやら執着されているみたいです
思い付きと勢いで書きました。設定は緩めです。
誤字報告をありがとうございます、修正しております。
ロゼリアが王立学院から帰宅すると、家から飛び出して来た父が彼女の華奢な身体を抱き締めた。
「ありがとう、ロゼリア。お前のお蔭だよ」
その言葉の意味がわからないまま、彼女は瞳を潤ませている父を困惑気味に見上げた。
「どうしたのというのです、お父様?」
彼は目元に滲んだ涙を拭うと、ロゼリアに向かってにっこりと笑った。
「イライアス様が、この家への支援を申し出てくださったんだ」
「えっ、イライアス様が……?」
娘の怪訝な表情に気付かぬままに、父は頷いた。
「ああ、これで領民たちにも迷惑を掛けずに済む。お前がイライアス様に求婚されていたなんて、知らなかったよ。まさか、彼のような方がこの家に婿入りしてくださるとはな」
「……!!」
ロゼリアの顔から、さあっと血の気が引く。彼女にとってのイライアスは、結婚どころか、顔すら見たくもない相手だったからだ。
けれど、その理由を父に説明するのが困難だということも、彼女にはよくわかっていた。イライアスは、眉目秀麗な上に王立学院でも抜群の成績を誇る、この国でも一、二を争うほど豊かな侯爵家の次男坊だ。歴史は古いものの、傾きかけている伯爵家の一人娘である自分には、傍から見ても明らかに勿体ない相手だということを、彼女は認めざるを得なかった。彼からの求婚が、娘にとってはまったく望ましくないものだなんて、父には想像もつかないのだろうとロゼリアは思った。
そして、母を早くに亡くしたロゼリアにとって、男手一つで彼女を育ててくれた、真っ直ぐで少し不器用な父は、誰より大切な存在だ。そんな父の笑顔を見てしまったロゼリアには、イライアスからの縁談を断ることは難しくなっていた。
言葉を失っている彼女の肩を、父は優しく叩いた。
「イライアス様は、屋敷の中でお前のことを待っているよ」
無言のままのロゼリアの背中を押すようにして、彼は彼女を待つイライアスのところへと娘を連れて行った。
応接間のドアが閉まると、ロゼリアはテーブルを挟んで座るイライアスの顔を、冷ややかな瞳で見つめた。
「どうして、私に求婚しているなどと父に仰ったのです? 私には関わらないで欲しいと、何度もそう申し上げたはずですが」
イライアスは、真剣な顔でロゼリアを見つめ返した。
「君が嫌がることはわかっていた。だが、このままでは、君の家が立ち行かなくなるのも時間の問題だ。……君の家が持ち直すまでで構わないから、俺を利用してくれないか」
ロゼリアは俯くと、呟くように言った。
「父はもう、すっかりその気になってしまっています。貴方様がこの家に支援の手を差し伸べてくださることには、感謝しております。でも……」
溜息を吐いた彼女は続けた。
「なぜ私なのです? 前世の罪滅ぼしか何かのおつもりですか」
イライアスが言葉を詰まらせる。前世の彼は、前世のロゼリアが心から愛していた婚約者であり、そして彼女を棄てた相手でもあった。
到底信じられないようにも思えた、ロゼリアの脳裏に甦ってきた前世の記憶が確かなものだと判明したのは、皮肉にも、彼から前世の自分の名前を呼ばれたからだ。互いに前世の記憶を持っていることを、二人はそれぞれ知っていた。
「いや、違う。そんな理由で君に求婚したのではない」
「では……」
ロゼリアは乾いた笑みを零した。
「また私を殺すおつもりですか?」
前世のロゼリアの記憶は、決して好ましいものではない。前世のイライアスは、前世の彼女の想いを踏みにじるかのように、多くの衆目の前で彼女との婚約を破棄して、他の令嬢との婚約を宣言した。その上、婚約破棄の直後、まるで謀ったかのように前世の彼女は何者かに襲われ、命を落としたのだ。
しばらく口を噤んでから、イライアスは静かに口を開いた。
「俺はただ、君の側にいることができるなら、それだけで構わない。だから、求婚させてもらった」
苦しげに彼は顔を歪めた。
「君の家の事情につけ込んで卑怯な真似をしていることは、百も承知だ」
「……私には、イライアス様のお考えがまったくわかりませんわ」
ロゼリアは硬い表情でイライアスを見つめた。
「私、結婚しても、貴方様を愛することはできないと思います」
「ああ。そんなことを望む資格は、俺にはないとわかっているよ」
そう言いながらも悲しげな表情を浮かべた彼を見て、ロゼリアの方がなぜか傷付いたような顔をした。
(どうして、こんなことになったのかしら。彼ならどんな相手だって選べるはずなのに、なぜ今更私のことを……? 今の私には、前世の私が秘めていたような彼への想いなんて、欠片も残ってはいないのに)
もしも前世の自分が、彼から想いの籠った言葉を贈られていたのなら、きっと涙を流して喜んだのだろうと、まるで他人事のようにロゼリアは思った。彼女の胸はもう冷え切っている。心からの愛情をあっさりと裏切った相手を信じることなど、ロゼリアにはできそうにもなかった。
複雑な気持ちになりながら、彼女は今世でイライアスと出会った時のことを思い返していた。
***
ロゼリアが王立学院で初めてイライアスの姿を見掛けた時、彼女はまるで全身に電流が駆け抜けていったかのような衝撃を覚えていた。
それは、一目惚れとか、運命を感じたといったような類のものではなく、どちらかと言うと、背筋が冷えて身体が震えたという方が正しい。
思わず固まったロゼリアは、目を瞠ったまま、その場に呆然と立ち尽くしていた。
(私、いったいどうしたっていうのかしら? でも、なぜだか、彼に会ったことがあるような気がするわ……)
今までにない感覚にロゼリアが戸惑っていると、一緒にいた友人のジェマが不思議そうに首を傾げた。
「ロゼリア、突然どうしたの? ……ああ、一学年上のイライアス様ね」
ジェマはロゼリアの視線の先に気付いてふふっと笑うと、遠目に見えるイライアスの姿に頬を上気させた。
「本当に綺麗な顔をしていらっしゃるわよね。背が高くてスタイルもいいし、あなたが見惚れるのもわかるわ」
確かに、イライアスの容姿は人一倍優れていた。遠くから見てもはっきりとわかるほどに整った、まるで彫刻のような顔立ち。深く澄んだ涼しげな碧眼に、さらさらと流れる淡い金髪。知的な面立ちに加えて、すらりと長い手足と、バランス良く引き締まった体躯を持った彼は、非の打ち所のない外見の持ち主だと言ってよかった。
納得したように一人頷いたジェマは続けた。
「しかも成績優秀で、アルレイ侯爵家のご子息とくれば、次男だとしたって、この学院の女生徒たちが放っておかないのもわかるわよね。彼自身は、そんな女生徒たちからは距離を置いているみたいだけれど……いくらロゼリアが可愛くたって、ライバルは多いわよ?」
「ううん、そんなつもりはまったくないわ」
ジェマの言葉に、ロゼリアは苦笑した。歴史だけは古い伯爵家の出身であるものの、家業が思わしくなく、奨学金を得ることでどうにか学生生活を維持している苦学生のロゼリアにとって、イライアスなど遥か雲の上の存在だ。そんな彼女には、イライアスに懸想する気は微塵もなかった。
それどころか、ロゼリアはすぐにその場から逃げ出したいような衝動に駆られていた。彼女の奥底にある何かが、彼の姿を前にして警鐘を鳴らしているようだった。
「もう、行きましょうか。教室の移動もあることだし」
口早にジェマにそう告げたロゼリアは、立ち止まっていた廊下を急ぎ足で歩き出した。けれど、ジェマに話し掛けようとロゼリアが何気なく振り返った瞬間、その奥にいたイライアスとばちりと目が合った。
ロゼリアの目には、彼がはっと息を呑んだように見えた。彼女の背中を、冷や汗が伝う。
(私だって今まで彼のことを知らなかったし、彼が私なんかのことを知るはずもないもの。きっと気のせいよね……?)
イライアスと目が合ったことに気付かないふりをして、ぎこちなく彼から目を逸らした彼女は、そのまま、ジェマと次の授業がある教室へと向かっていった。
教室で席に着いたロゼリアは、黒板を見つめながらもぼんやりと思考を飛ばしていた。世界史の授業だったけれど、教授の熱心な説明も、まるで頭に入ってこない。普段は真面目で、奨学金を得るために好成績を維持しているロゼリアにとって、授業中にこれほど上の空になるのは珍しいことだった。
(さっきのあれは、何だったのかしら)
彼女の頭の中を、目にしたばかりのイライアスのことがぐるぐると回っていた。考えたくはないのに、彼のことばかりが頭に浮かぶ。
(彼を見たのは初めてだったはずなのに、この既視感は何なの?)
ロゼリアには、これまでイライアスと何の接点もなかったことは間違いなかった。それに、彼ほど美しい男性に、彼女は生まれてこのかた会ったことがない。もしもどこかで会っていたとしたなら、少なくともその姿を忘れることはなかっただろう。
けれど、彼を見た瞬間、どこか懐かしいような、それでいて決して近付いてはいけないような、そんな不思議な感覚にロゼリアは包まれていた。記憶の奥底で何かがつかえているような、そんなもどかしい思いを胸に抱えながら、彼女は悶々と授業の時間を過ごしていた。
「……何かあったのかい、ロゼリア?」
ロゼリアが眉根を寄せて白いままのノートを広げていると、隣の席に座る友人のラルフから声が掛かった。聡明で面倒見もよく優しい彼は、ロゼリアの親しい友人の一人だ。
「どうしたんだい、そんな難しい顔をして」
怪訝な表情をした彼を見て、ロゼリアは目を瞬いた。
「私、そんなにおかしな顔をしてた?」
「ああ、らしくないっていうのかな。今日は板書も写していないみたいだし」
手元のノートが真っ白なことにようやく気付いたロゼリアは、慌てて黒板を見上げた。ペンを走らせようとした彼女の手が、黒板に書かれたある国名を目にしてぴたりと止まる。黒板の端の方には、エセル王国という文字があった。
「……!」
今は亡きその王国の名前を見た途端、ロゼリアの目の前に、突然鮮明な映像が浮かび上がってきた。
(これは……)
頭の奥がクリアになるような感覚と共にロゼリアに見えてきたのは、目を背けたくなるような場面だった。
ロゼリアの目に、美しいドレスを纏い、馬車に乗っている一人の令嬢の視界が映る。彼女は、突然馬車を襲って来た数人の荒々しい男たちに、馬車の中から引き摺り出されるところだった。叫び声を上げようとして口を押さえられたその令嬢の恐怖や、男に掴まれた腕の鈍い痛みまで、まるで彼女に乗り移りでもしたかのように、ロゼリアには手に取るように感じることができた。
彼女を押さえつけた男たちは、その喉元に鋭利な刃物を突き付けるとにやっと笑った。
「あんた、王太子に棄てられたんだってな。可哀想に」
彼女の胸がずきりと痛んだのが、ロゼリアにはわかった。その令嬢の記憶――王宮に招かれた大勢の貴族たちの前で、愛する王太子に冷たく婚約破棄を告げられ、逃げるように帰路についたことまで、ロゼリアはまるで自分のことのように思い出せた。エセル王国の国章が縫い取られた式服を纏った王太子は、彼女の代わりに、新しく婚約者となった令嬢の肩を抱いていたのだ。
目の前の男たちが、舌なめずりをしながら彼女に近付いてくる。
「こんなに美人なのに、王太子も惜しいことをするな」
「このまま殺すのも勿体ない。俺たちで味見でもするか」
喉元に突き付けられた刃物が、青ざめた彼女の胸元につうっと下りる。その鋭い切先が掠めた白い首筋に、ぴりっと痛みが走った。けれど、男の刃物が彼女のドレスを切り裂こうとした瞬間、彼女は、男が手にしていた刃物を震える両手で掴むと、そのまま自らの胸に突き立てた。まるで、胸にまだ残る王太子への恋心までも散らすように。
色めき立っていた男たちの顔が歪む様子が、彼女のぼやけていく視界に映る。薄らいでいく意識の中で、彼女の頭には走馬灯のように過去の幸せだった日々が巡っていた。そのほとんどが王太子との思い出だったことに、頬を一筋の涙が伝うところまでで、その映像はぷつりと途切れた。
(……っ)
ロゼリアは、動悸が激しくなった胸を思わず押さえた。感覚や感情まで伴う生々しい映像に、眩暈を覚える。胸にはまだ、鋭い痛みまで残っているかのようだった。それが刃物で貫かれたことによるものなのか、それとも愛する人に棄てられた悲しみによるものなのかはわからなかったけれど、いずれにしても、その令嬢が非業の死を遂げたということだけはロゼリアにもわかった。
(もしかして、これは……私の前世の記憶?)
最期を迎える瞬間を切り取ったような断片的なものだったけれど、ロゼリアの脳裏に甦ってきたそれは、他人のもののようには思えなかった。
そして、非情な婚約破棄を言い渡した王太子の美しい顔が、なぜかイライアスの顔に重なる。彼女の目に映った王太子は、銀色の髪と翡翠のような緑の瞳の持ち主だったにもかかわらず、彼が纏っていた空気は、イライアスのそれとぴったり一致するように思われた。
(前世や、生まれ変わりなんていうことが本当にあるのかは、私にはわからないけれど……)
もしもそんなことが有り得るとするのなら、イライアスは確かに前世のロゼリアが愛した人――そして彼女を裏切った人なのだろうと、彼女は不思議と確信に近い感覚を覚えていた。
(だから、さっきはあんなに背筋が冷えたのかしら)
まだ混乱していたけれど、前世の死に際と思しき場面を思い出したロゼリアの顔からは、すっかり血の気が引いていた。呼吸が浅く速くなった彼女を、ラルフは気遣わしげに見つめた。
「体調でも悪いのかい? 顔が真っ青だよ」
「うん、ちょっと気分が悪くて。……今日はもう早退するわ」
ちょうど授業の終わりを知らせるチャイムが鳴り、立ち上がったもののよろめいて足元をふらつかせたロゼリアを、ラルフは慌てて支えた。
「ごめんなさい、ラルフ。迷惑を掛けちゃって」
「いや、全然。それより、大丈夫かい……? どうぞお大事にね」
ジェマも、そんなロゼリアの元に心配そうに駆け寄って来た。彼らに見送られながら、ロゼリアは馬車に乗り込むと王立学院を後にした。
***
青い顔のまま帰宅したロゼリアの耳に、応接間から漏れ聞こえてくる声が届いた。どうやら、父が誰かと話しているようだった。
「……もう、これ以上は難しいですね」
「そこを何とか……」
思わず聞き耳を立てていたロゼリアの前で、応接間の扉が開く。ロゼリアよりもさらに青ざめた顔をしていた彼女の父が、娘の姿に気付いてはっと目を瞠った。
「ロゼリア?」
「お父様……」
ロゼリアをちらりと横目で見た客人が、そのまま足早に玄関へと向かっていく。彼を見送ってから、肩を落として戻ってきた父を、彼女は不安気に見つめた。
「どうなさったのです、お父様? この家の事業の状況は、それほどまでに悪いのですか?」
最近父が金策に走っているようだということは、ロゼリアも知っていた。父は無理矢理に口元に笑みを浮かべると、彼女の頭を優しく撫でた。
「お前は何も心配することはないよ、ロゼリア」
(本当かしら……)
ロゼリアの母は、彼女を産んで間もなく早逝してしまった。そんなロゼリアのことを愛情たっぷりに育ててくれた温厚な父は、彼女にとって世界で一番大好きで大切な存在だった。
彼は正義感が強く、不実な取引を嫌う。弱い立場の領民たちから甘い汁を吸う貴族も多い中で、彼らの生活を重んじ、正当に利益を還元する父を、彼女は尊敬していた。
けれど、実直であるあまり、多少不器用なところが仇になったのか、このところますます家業の様子が芳しくないようだということに、彼女は嫌でも気付かざるを得なかった。
「お父様。私、王立学院を辞めて、お父様のお手伝いをした方がよいのでは……」
「何を言っているんだ。せっかく優秀なのだから、お前はこのまま勉学に励みなさい」
書斎に戻る父の背中を、ロゼリアは表情を翳らせたまま見送った。一気に現実に引き戻されたような気がして、その日に思い出した前世の記憶らしきものは、彼女の頭の中からいったん吹き飛んでいた。ただ、悪夢を見たような嫌な感覚だけが、ロゼリアの胸に残った。
その翌朝、王立学院に登校し、馬車から下りたロゼリアの背後から声が掛けられた。
「ロゼリア嬢」
「……?」
聞き覚えのない声に、戸惑いがちに後ろを振り返ったロゼリアの目が見開かれる。彼女の目の前に立っていたのは、イライアスその人だった。
「イライアス様……!?」
驚きに息を呑む彼女の前で、イライアスは嬉しそうに柔らかく笑った。
「俺の名前を知っていたんだね」
「ええ……はい」
ロゼリアの喉が、緊張にこくりと動く。どうして彼が急に話しかけて来たのか、彼女には解せずにいた。彼は深い海のような美しい碧眼で、じっとロゼリアを見つめた。
「少しだけ、君の時間をもらえないか? 君に聞きたいことがあるんだ」
じりと後退ったロゼリアは、俯いて彼の視線を躱すと、そのまま深く一礼した。
「申し訳ありません。急いでおりますので、失礼いたします」
踵を返したロゼリアは、校舎に向かって全力で駆け出した。特別急いでいる訳ではなかったけれど、とにかく、イライアスの前から逃げ出したかったのだ。彼女の全身の細胞が、彼を拒否しているようだった。
ロゼリアは額に滲んだ汗を拭うと、教室に入って自席についた。
(彼は、私に何を聞こうとしていたのかしら)
さっきの態度はさすがに失礼だったかもしれないと、彼女が多少の申し訳なさを感じていると、教室の扉の陰からイライアスの姿が覗いた。
(……もしかして、私を追い掛けてきたの?)
顔を引き攣らせたロゼリアの元に、彼はつかつかとやって来た。教室にいる女生徒たちの目が、美しい彼の姿に釘付けになっている。
イライアスは、ロゼリアの耳元に囁きかけた。
「一限が始まるまでの間だけでいい。二人で話せないか?」
一見すると、さもロゼリアと親密であるかのようなイライアスの姿に、女生徒たちがざわついた。かあっと頬に血が上るのを感じたロゼリアは、困惑しつつも急いでがたっと席を立った。周囲の女生徒たちからの視線が痛い。
「わかりました」
イライアスがふっと笑みを零した。
「じゃあ、俺について来てくれ」
ロゼリアは、渋々彼に従った。階段を上り、誰もいない校舎の屋上へと出ると、イライアスは彼女を振り返った。
「ここは、俺のお気に入りの場所なんだ」
まだ眩しい朝陽の照らすその場所で、涼しい風が二人の頬を撫でていった。彼と一緒でなければ、確かに気持ちのよい場所かもしれないと思いつつ、ロゼリアは苦々しい気持ちで彼に尋ねた。
「前置きは結構です。恐縮ですが、ご用件だけ簡潔にお願いできませんか?」
「……君には、随分嫌われているようだね」
警戒心を滲ませているロゼリアに、イライアスが苦笑する。きっと、普段は女生徒たちから熱い眼差しを向けられているだろう彼にとっては、自分のような令嬢は珍しいのだろうと思いつつ、彼女は硬い表情で続けた。
「嫌いも何も、お話しすることさえ今日が初めてですから」
「そうだったな」
彼はじっとロゼリアを見つめた。
「君は、エセル王国のことを何か覚えてはいないか?」
ロゼリアの顔が、すうっと青ざめた。昨日甦ってきた、前世の記憶らしきものを思い出しながらも、彼女はしらを切ることにした。それが気のせいではなく確かなものだという証拠など、どこにもない。
「ちょうど昨日の世界史の授業で、エセル王国のことを習ったところですが、それだけです」
しばし思案気に口を噤んでから、イライアスは再び口を開いた。
「では、リュシーという名に聞き覚えは?」
「……!」
ロゼリアには、足下の地面がぐらりと揺れたような気がした。新たに記憶の底から甦ってきた、かつて王太子から呼ばれた名が、彼女の頭の中に響く。無自覚のうちに、彼女は前世で愛した王太子の名前をぽつりと呟いていた。
「エルドレッド、様」
彼女の言葉を聞いたイライアスの瞳が、みるみるうちに輝いた。
「ああ、やっぱり君は……」
感極まったようにロゼリアに向かって伸ばされたイライアスの手を、彼女はすぐに冷たく振り払った。
「私には関係ありません」
彼の顔を、ロゼリアはきっと睨み付けた。
「もう、私には金輪際関わらないでください」
それだけ言い捨てると、くるりとイライアスに背を向けて、彼女は小走りに教室へと戻った。その後も、ロゼリアは事あるごとにイライアスから話しかけられたけれど、ジェマとラルフの陰に隠れるようにして、彼のことをあからさまに避け続けた。
この時のロゼリアには、彼から求婚される未来がすぐそこに待っていることなど、知る由もなかった。
***
テーブルを挟んで腰掛けている、華奢で色白なロゼリアの姿を、イライアスは切ない思いで見つめていた。
美しい亜麻色の髪に、アメジストのような輝きの強い瞳。その色合いは前世とは違ったけれど、彼女は確かにかつて心から愛した女性に違いないと、彼はロゼリアと会う度にそう感じる。優しげな顔に似合わず、彼女の口元が頑なに引き結ばれている様子を眺めながら、イライアスの心は鈍く痛んでいた。
(俺は、前世の彼女のことを、どれほど深く傷付けてしまったのだろう)
ロゼリアの瞳から読み取れるのは、彼に対する拒絶の色だけだった。
親しい友人と過ごしている時のロゼリアは、まるで花が綻ぶように明るく笑う。けれど、彼が話しかけた瞬間、彼女の表情はいつだって凍り付くのだ。恐怖、嫌悪、困惑といった負の感情が彼女の顔に浮かぶ様子を、イライアスはただ眺めることしかできなかった。今更謝罪をしても、それが彼女に届くことはないのだろうということも、もう嫌というほど思い知らされている。
それでも、彼にはロゼリアを諦めることはできなかった。
(あの時、俺は君の手を放すべきではなかった)
前世の彼の父は、エセル王国最後の王として歴史にその名が刻まれている。けれど、その息子であった王太子エルドレッドの名前に、歴史上光が当たることはほとんどない。
エルドレッドがリュシーとの婚約を破棄してから程なくして、エセル王国内では革命が起こった。それまで力で押さえ付けられていた貧しい者や奴隷たちが、反乱を起こしたのだ。武力で領土を拡大し、周囲の小国を征服して奴隷を増やすことで国力を増してきたエセル王国内では、貧富の差が広がっており、激しい不満が渦巻いていた。
彼自身は、貧しい国民の意見も掬い上げようと奮闘していたものの、彼の父である国王は正反対の意見を持っていた。国王は、王宮での贅沢な暮らしを満喫する一方で、歯向かう者たちには見せしめのように残虐な刑を課した。そんな王族たちは、恨みと憎しみの対象になっていた。
エルドレッドの肩を持ち、彼を支えていたのは、心優しき婚約者のリュシーと、彼女の実家の侯爵家だった。けれど、そのライバル関係にあった侯爵家の方が、既得権益を守ろうとする貴族たちの筆頭であり、国王との立ち位置が近かった。
彼は、父である国王が、彼の婚約にも次第に不満を抱くようになっていることに気付いていた。そして、それ以上に、国内の緊張が高まり、革命の兆候が随所に現れていることを悟っていた。国の至る所に漂う不穏な空気から、愛する婚約者を守るにはどうすればよいか、彼は苦渋の決断を迫られていたのだ。将来の王妃となれば、国が覆ってしまえば断頭台は避けられない。
領民たちからの信頼が篤いリュシーの侯爵家であれば、革命が起きたとしても無事に生き残れるのではないかと、エルドレッドはその可能性に賭けて、断腸の思いで彼女との婚約を破棄したのだった。
あえて多くの貴族たちの前でリュシーとの婚約破棄を告げたのは、彼女はもう、憎まれる王家とは関係が切れたと示すため。婚約破棄の噂はあっという間に広がるだろうと、そう想像がついていた。
革命が起きたら真っ先に矢面に立たされるであろう、ライバル侯爵家の令嬢と婚約を結び直したのも、リュシーに対して影で不穏な動きをしていたその侯爵家の不満の矛先を、彼女から逸らすためだった。
けれど、婚約破棄の直後、彼が対面することとなったのは、愛する人の変わり果てた姿だった。密かに護衛をつけていたのに、彼のごく近くに裏切り者が交じっていたようだった。
まだ仄かに温かさの残る最愛の人を前にして、彼は慟哭した。
(リュシーは、どんな思いで死んでいったのだろう)
彼が最後に見た、王宮を去って行く彼女の顔には、ただ深い絶望が滲んでいた。
裏切られ、棄てられて、さらに恐怖の中で世を去ったであろう彼女のことを思うと、心臓が潰れそうだった。
革命が起き、王家が転覆して断頭台に立った彼は、彼女のいない世界で、それ以上過ごさずに済むことに安堵していた。
(もしも、願いが叶うなら。あの世でも来世でもいい、どうかまた彼女に会いたい)
最後に神にそう願った前世の彼は、断頭台の露となって消えた。
今世のイライアスは、それまで何一つ欠けることのない恵まれた環境に生まれながらも、どこか満たされない感覚を覚え続けてきた。けれど、ロゼリアを一目見た瞬間、前世の記憶が甦り、探していたものが何だったのかを自覚した。彼は、前世の最後の願いを叶えてくれた神への感謝を覚えずにはいられなかった。
(ロゼリアが振り向いてくれることは、決してないかもしれないが……)
彼女が、前世で襲ってきた者が自分の差し金だと誤解していることも知っている。それでも、悲惨な結末を招いたのは自分の判断の甘さゆえだったと、彼は深く責任を感じていた。
嫌がるロゼリアの側にいることは、自分のエゴなのだろうとわかってはいたけれど、ほんの少しでも長く彼女の側にいたかった。
ロゼリアは、イライアスを避けてはいるが、冷たくなりきれてはいない。彼女の言葉に彼が表情を翳らせると、それ以上に彼女が傷付いたような顔をする。いくら距離を置かれても、中身は前世と同様に優しい彼女が、イライアスには愛しくて仕方なかった。
それに、イライアスがロゼリアの家について調べていた時、奇妙な圧力がその事業にかかっていることにも気付いていた。
(せめて、今度こそは俺の手で、少しでも彼女の力になることができたなら)
前世のリュシーとロゼリアの顔が、彼の頭の中で重なる。前世で奪ってしまった彼女の笑顔を、できることならほんの僅かでも取り戻したかった。
彼は目を閉じると、願いを込めてぎゅっとその拳を強く握り締めた。
今までと少し違う話が書きたくなり、思いつくまま書いてみました(この短編ごと取り下げる可能性もありますが、その場合はご容赦ください…)。
お付き合いくださり、ありがとうございました!
また、11/16には中丸みつ先生による「転落令嬢、氷の貴公子を拾う」コミックス第2巻が、11/30にはもりこも先生による「義姉の代わりに、余命一年と言われる侯爵子息様と婚約することになりました」コミックス第1巻が発売予定です(原作小説は9月に発売しています)。
どちらも本当に素敵にコミカライズしていただいていますので、お手に取っていただけましたら、とても嬉しく思います!