深い深い森の中(2)
「無事か?」
やっぱり男の人だ。
間近で見て、声を聞いて、即座に確信した。
だけど返事ができない。
短時間の内に色々あって、今も頭の中は混乱しっぱなしで、声が出せなくなっていた。
口をパクパクさせるだけの私に対し、彼は安堵した表情を浮かべ、静かに話を続ける。
「なんて言ったのかは聞き取れなかったが、必死さは伝わったぞ。間に合ってよかった」
そう言って差し伸べられた手を掴み、力の入らない足をなんとか立たせる。
もう片方の手は凍える体をさすっていた。
そんな私を見兼ねてか、その人は着ていたコートを脱ぐと、そっと私の肩に掛ける。
そのままボタンまで止めてくれてるけど、なんでこんなに親切なのか分からない。
「これで多少は寒くないか?」
喉が鳴らない分、必死で頭を縦に振った。
「言葉は通じてるみたいだな。ここにいると危険だから、少し歩くぞ」
連れられるまま、木々の隙間を進んでいく。
知らない場所に、知らない体。
状況が一切飲み込めない私にとって、この恩人に救われたことだけが、唯一の事実だった。
理由は不明でも、疑う気にはなれない。
「そんな格好で森の奥地に独りだったってことは、単なる迷子ではないよな?」
「はい。私にも何がなんだが……」
「お、少しは落ち着いてきたか?」
「え……? は、はい!」
緊張がほぐれたのか、心を支配していたざわめきが薄れ、声を取り戻していた。
嬉しそうに微笑む彼は、出会ったばかりの相手に、どうしてここまで寄り添えるの?
言葉では伝えきれない、態度では示せないほどの優しさを、当然のように与えてくれる。
一体どこから溢れてくるのだろう。
よく見ると顔つきはうちの執事と似ているのに、性格がまるで違う。
とても分かりやすく表現してくれる。
とにかく、まずはお礼を言わなくちゃ。
「あの、すぐに感謝をお伝えできなくて申し訳ありません。先程は危ないところを助けていただき、本当にありがとうございました」
「気にすんなって。人間、助け合って生きてくもんだろ? にしても、急に大人びたな」
「えっと……何かお気に障りましたか?」
「いや、そうじゃないよ。お前は見た感じ十四・五歳の子供っぽいけど、話してみればしっかりしてるんだなって思ってさ」
「今の姿をどの様にお思いになるかは存じませんが、これでも私は十八歳ですので……」
「成人三年目か。まぁ大人歴十一年を超えちまったた俺からすれば、まだまだ子供と大差ないな」
二十代前半に見えるけど、二十七歳だったんだ。
性別から年齢まで、外見だけでは判断が難しい、とても不思議な人だわ。
それはいいとして、さっきからいくら歩いても全然進んでる気がしない。
同じような垂直の木が並び、土に生えるキノコも似た物ばかりで、景色の変化に乏しいのが原因かしら。
もしかして、迷ったりしてないわよね?
彼に対して僅かばかりの疑念を向けた矢先に、私は激しく後悔した。
「違ったら悪いんだけどさ、お前女か?」
「……え?」
振り返った彼からの質問にドキッとする。
今の自分がどんな顔なのかは知らない。
ただ少なくとも、さっき半裸を目撃されてしまったし、そんな疑問は湧かないはず。
それともこれは、女々しいとかの皮肉を含めた発言なのかな?
質問の意図が読めない。
そう思われること自体は嫌じゃないけど、もし不快感を抱かせたのなら変えなきゃ。
悩んだ末に、大した返答は浮かばなかった。
「おっしゃる通りです……と申しましたら、信じてくださいますか?」
「本人がそう言うなら、そうなんだろ?」
「いえ、ですが……見られましたよね? それでも私の主張に意味はあるのでしょうか?」
言葉なんて、上辺を飾る手段のひとつ。
自分の眼で見た現実より優先されるなんて、絶対に有り得ない。覆ったりしない。
そうでなくちゃ、私の人生は良くも悪くも振り回されっぱなしだわ。
全てを真に受けていたら、どれだけ多くの愛に包まれ、それを聞き流してきたというの?
相手を喜ばせる嘘ならまだいい。
でも全部本気だったとしたら、とても私一人では受け止められない。
言葉ってそういうものよ……
そんな悩みを嘲笑うかのように、彼はケロッとした表情で言い放つ。
「どうやら性別ってやつは、姿形だけで決まるものではないらしいぜ?」
「……では何が真実なのでしょう? 瞳に映るものさえ偽物であるとすれば、本物などどこにも存在しなくなってしまいます」
「つまり自分の本質ってのは、本人にしか分からん。他人が見聞きして何を言おうが、それはあくまで評価であり、真実じゃない。お前が自分を女だと思うなら、それだけが真実だ」
彼が述べた持論は、私の知る常識とは全く異なっていた。
相手を理解する為には、視覚や聴覚から得られる情報が頼りになる。
しかし彼の言い分を考慮すれば、それはあくまで理解した気になっているに過ぎない。
相手の真実とは、その人が語る本人像に他ならず、即ち信じる以外に知る術は無い。
自分なりに噛み砕いて、すごく納得した。
確かに私は本性を隠し続けてきた。
自分について打ち明けず、ただ察してくれることを待ち続けた。
願わくば、その上で愛してくれることを。
誰にも理解されるはずがない。
悟られない為の努力をしてきたのだから。
それでいて、後ろに潜む臆病者を愛しくれだなんて、今思えば虫のいい話だわ。
そう考えると私って、欲しいものだけが永遠に得られない運命になるけど……
「とても参考になりました。それでも私は、本来の姿を晒すわけにはまいりません。私の評価が落ちれば、家格まで穢してしまいます。外面の評価に縋るしかないのです」
「んー……まぁお前にも事情があるんだろうけど、良い評価を得たいってのは当然の感情だろ。だがせっかくならさ、自分の評価は自分の為にあるべきだと、俺は思うんだよな」