04.わたしは迷子のように
「エヴィ、エヴィ」
鳴いた小鳥が姿を変じて、手紙となる。ひら、と手のなかへと落ちてきたそれに目を落とすと、つい先日届いたものと同じ筆跡で綴られた文字が並ぶ。
プレゼントについての礼と感想、デートについての詫び、改めてデートがしたいから予定を教えてほしい旨、それらが彼らしい生真面目な文章となって記されて。そして、しばらく王都に滞在する、と――。
だけどそれは……彼女と会うためなのではないの?
きっと仕事上の理由で領地を離れたのだろうと考える自分もいるのに、一方で、芽生えた疑いが胸を焦がす。
もともといずれ解消される可能性のあった関係だったけれど、でも、だけど、
――いっそ婚約解消を申し出てくれたらいいのに。
デートの予定がなくなったわたしがふらりと街に出掛けたあの日、約束をキャンセルしたはずのルーカスの姿がすぐそこで目撃されていた。目撃者は護衛のカルロ。どうやらわたしたちがカフェから郵便舎へと移動している時に、付近の店舗に女性をエスコートして入っていくところだったとか。
彼の姿なら遠目からでも分かるつもりでいたのに、お父様に信頼を置かれているだけあってさすが視野が広い……なんて感心している場合ではない。それを耳打ちで知らされたナディルは血相を変え、わたしの分まで取り乱していた。
わたしとの約束をキャンセルしてまで会う相手。それも、二人きりで。
せめて理由を話してくれていたなら信じられたかもしれない。それが実際には何の説明もなく、逢瀬はその一度きりでもなかったらしい。学友からわたしを心配しての便りや密告が、手紙として一通、二通と届くほどには噂になっている。
「ナディル、そんな顔をしないで」
「ですがお嬢様……!」
「お返事はひとまず保留しておきましょう」
近くにいるから会おう、なんて言われても、こんな状況では気が進むはずもない。どうせ約束したところでまた彼女が優先されるのかもしれないと思えば、予定に思い巡らせることすら億劫だった。
ルーカスとの出会いは物心つくより前のこと。
わたしの両親と彼の両親、四人ともが学園でのクラスメイトだったのだという。その縁から両家は親しく、子供が結婚したら素敵だね、なんて、最初に言い出したのはどうやらお母様だったみたいだけど、そんな軽さでわたしは誕生とほとんど同時に婚約を定められたらしい。
当事者であるわたしたちはといえば、兄妹のように育った。領地は離れているけれど、王都にいる間はいつも一緒に過ごした。お兄様とルーカスを取り合ったり、ルーカスとお兄様を取り合ったり。大抵は年少のわたしを甘やかしてくれて、振り返ってみると二人にはとても大切にされていたのだなと思える。
「ぼくのエヴィ」
まだ自分たちの立場も関係も、ちゃんと理解していないままに、彼はそんな風に呼んで笑っていた。
「ルーカスおにいさま」
学園に入った彼は友達も増えて世界を広げたはずなのに、変わらず優しい兄様でいてくれた。
お互いに好きな相手が出来たら解消してもいいよと話す親の言葉に、初恋もまだだったわたしはピンと来ず、彼もそのようだったから、ああこのまま結婚しそうだなと漠然と考えていた。
今にして思えば、未だに婚約が継続されているのは、ただ彼が優しいからに他ならない。
恋すら知らない妹を守るため。彼に得などない。強いて挙げるなら面倒な求婚者避けといったところかもしれない。伯爵家の跡取りで、本人も見目よく優秀とくれば、婚約者の一人でもいなければ縁談は途切れることがなかっただろう。いてもなお、月に数件はあると言うのだから。
手紙を手にしたまま幼い頃を思い返して、ため息が落ちた。
春休みが終わる。手紙は日々届き続けるものの、彼とは会わないまま――。
春休みが明け、学生たちは学園へと戻った。
わたしもまた、お兄様に遅れて帰った領地での短い家族団欒を終えて、転送門を通り抜け兄妹揃って王都へと。しばらくの間とはいえ実家暮らしをしていると、寮生活に戻ることが、もう何年も繰り返していることだというのに少し心細い。
夏学期が始まる。
学園で過ごす日々はもちろん楽しい。友達と毎日顔をつきあわせるのも学生時代の特権で、休みの間は恋しく感じていたくらい。
それでもいつも、休み明けの最初だけは慣れるのに時間がかかる。どうしたって環境の変化があることは否めないし、領地でもタウンハウスでもそばについてくれていたナディルがいないことが一番大きいだろうか。
彼女がそばにいて何でもないおしゃべりをたくさんしたおかげで気持ちはどうにか落ち着いて、彼にそうした相手が現れたならそれはそれで良いことなのだと考えられるようになってきた。
わたしたちは所詮は狭い世界に生きてきたから、だから、そう、外の世界に踏み出すのはきっと良いことに違いない。
学園での日々は四年目も終わりが近づいて、それはつまり、お兄様の卒業がそこまで迫ってきているということ。
お兄様はルーカス同様、お父様の後継者としてまずは補佐の仕事を学んでいくことになるはず。やりたいことがあるなら当面の間は自由にして構わないと両親は言っていたけれど、本人は王城勤めをして上り詰めようという野心もないと言うし、興味のある分野の研究にだけは関心がある様子だったけれど。
「それでは、また後ほど」
「いってらっしゃーい」
「お兄様によろしくお伝えくださいね」
長期の休み明けの初日だけは、お友達とではなくお兄様とランチをすることになっていた。人見知りでなかなか学園に馴染めなかったわたしを気遣ってくれて始まった習慣が、今も続いている。
みんなで足を運んだ食堂、カウンターへと向かう姿を見送って見渡した室内に目当ての姿は見えず、いつもの席だろうとテラスに足を向ける。
入学当初はお兄様とルーカスと、頼りきりだったわたしは二人に会えるランチを心待ちにしていた。
きちんと二人の手を離れて過ごせるようになったのは、三学年の終わり頃だったろうか。あの頃は甘えたい気持ちと、独り立ちしたい気持ちと、一人で矛盾を抱えていた気がする。
「…………って、」
日に日に暖かさの増す季節、食堂とテラス席とを隔てている一枚の扉は開け放たれていて、そよそよと風が通り抜けていく。その風に乗るようにして聞こえたのはお兄様の声で、わたしとのランチ時にお一人でないなんて珍しい、と大して気にもとめず歩みを進めた。
あれ、と思ったのは、その相手がよく知る声だと気付いた瞬間。
「しつこい」
これまでに聞いたことのない苛立った響きで吐き出された声は、最近避け続けている婚約者のものだった。思わず足が止まる。
「随分と神経逆立ててるみたいだけど、そういうのは君じゃなくて僕ら兄妹の方だと思うけど?」
いつも穏やかな二人が諍いなんてと思ったけど、
……ああこれは。きっとわたしのこと。
「何度も言うように、そんな関係じゃないんだから問題ない」
名ばかり形ばかりの婚約者なんて、どんな関係でもない。それについて話していたなら、それぞれの意見が折り合わずに険悪な雰囲気になっていることも理解出来た。
「噂にまでなっているのにそんなこと言うんだ?」
口調だけはにこやかさを崩さないお兄様は、ここからは見えないけど笑顔で彼を刺しに行っているに違いない。
ルーカスの逢瀬は密やかな噂となって広まりつつあることを、わたしもお友達から聞いたばかり。これまでの彼がわたしに付きっきりだったものだから、それが反動のように作用しているのかもしれない。会話を聞く限り、同様の流れでお兄様の耳にも届いてしまったのは明らかだった。
「私だってこんなことになるとは思ってなかったし、あの子には悪いと思っている」
「だったら、」
「分かっているくせに、酷いやつだな、お前は」
「君とあの子、僕がどっちを取るかなんて愚問でしょう?」
お兄様は優しい。ルーカスも、優しい。だからこそわたしとのこの他愛無い関係を終わらせるトドメの言葉を言い出せずにいるのだろう。
わたしのせいで二人の友情に亀裂が生じるなんてことにはなりたくない。割って入るべきか、それともわたしが入ることでより拗らせてしまうだろうか、正解が分からない。
「……本当ならすぐにでも連れ去りたいさ」
呟くように吐き出された声は、きっと本音。
ああそんなにも彼女のことを――。
聞いてしまった内容に、どうしてか足が動かない。きっとそういうことなのだろうと予想して、彼が求めるなら婚約解消くらい受け入れるつもりで、わたしたちの兄妹のような関係は変わらないはずだからと、
……そう、子供じみた独占欲なんて捨てて、家族なら祝福すべきことだとさえ思っていたのに。
「エヴェリン、遅いから迎えに行こうかと思ったよ」
「ごめんなさいお兄様。お友達とおしゃべりしていて」
出ていくタイミングを見失ってぼんやりしていると、いつの間にか話題は移っていて、わたしに気付いたお兄様に隣の席へと誘われる。
「やあ、エヴィ」
「……おひさしぶりです。酷いわお兄様、お呼びしているなら教えてくれればよかったのに」
「ここでこうして過ごすのも、もうなかなかない機会だなと思ってね」
わたしはどんな顔をしているだろう。
これまでどんな風に彼と接していたのだろう。
「あのデートの約束、守れなくてごめん」
「いいえ。むしろお手紙と贈り物をたくさんありがとうございます、気を遣わせてしまって」
守れなかったんじゃなくて破ったくせに。
どろどろと粘度のある塊が喉の奥にあるようで、息が詰まる。お腹の中で何かがぐるぐると渦を巻いて気持ちが悪い。
きっと二人も気詰まりだったろうに、あくまでも優しく、あたたかな話を途切れさせることなく続けてくれた。わたしも笑顔でそれに乗る。
腫れ物に触るかのような気遣いに一層居た堪れない気持ちになるけれど、だからといってわたしに何が出来るでもない。
何を食べても味の分からない、飲み物でさえ上手く飲み込めない、こんなにも気まずいランチタイムは生まれて初めてだった。
無理矢理に口から押し込む気持ちでなんとか食べ終えた時には、ぐったりと、そしてそれを見せないように表情を作ることでさらに疲弊して。
「授業の準備があるので、わたしはこれで」
と、逃げるように席を立った。
困ったように微笑むお兄様に胸が痛んだけれど、正直、もう限界だった。気持ちが悪い。息が出来ない。心臓は嫌に軋み、視界までが歪む。
食堂を通り抜けて廊下を進む、教室へと徐々に早まる足。淑女たるもの走ってはいけない。だけど、
「――――エヴィ!」
駆け出しそうになったところを呼ばれて、たたらを踏む。
振り向かなくても分かっていた。それでもゆっくりと、追いかけてきていたルーカスを、振り向く。
「ごめん」
そう一言、呟くように。
いつもまっすぐ前を向いている眼差しはどことなく揺らぎ、曇った表情。何かを堪えているような、それは、罪悪感?
そんな顔をするなら、辛そうに謝るくらいなら、さっさとさよならを告げてくれればいいのに。
責め立てるような思いが湧き上がる。
……なのに自分からはどうしてか、言い出せなくて。




