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キョショクのシキ  作者: 藍染三月
第二章
12/27

拒食の色7

「ねぇ、志弦も、何か教えてよ。本当のあんたのこと。嫌じゃなければ、だけど」


 気抜けしたような外貌を浮かべてしまった僕は、懊悩を紅茶で流し込む。話したくないと思うものは、一つも思い当たらない。海馬を巡ろうと試みても、僕にはそれが許されない。思議の後に苦り笑う。


「話したいけど、話せることがないよ」

「なにそれ。じゃああれは? 絶対に彼女を殺してやらない、って言ってたの、あれ、なに?」


 一弾指の間、気道が見えない膜で覆われる。聖が聞いたというその言葉は、恐らく無意識下で溢れてしまったものだ。言った覚えはないけれど、思考した記憶はある。僕は口唇の端を軽く持ち上げた。それがとても引き攣った笑みになっていることは、視認せずとも分かった。


「聞いてたんだ?」

「……聞こえちゃったのよ」


 鏡を前にしているみたいだ。聖の申し訳なさそうな顔ばせが、僕に付けられた仮面の綻びを物語る。申し訳ないという想いが、僕の目顔にも映し出される。


「僕は、本当は色野志弦じゃないんだ」

「……えっと?」

「この体の持ち主が色野志弦、僕が『彼女』と呼んだ子。物を食べられないのは、僕が食べたくないからじゃなくて、『彼女』が拒んでるからだと、僕は思ってる」

「……あんたは、いつからあんたなの?」


 瞼を開けた時のことは、はっきりと覚えていない。ただ朧げな意識の中で、僕を心配そうに覗き込んでいるのが両親であることと、僕が色野志弦ではないことを脳に記していた。

 透明な硝子に息を吹きかけて、水蒸気で白んだそこへ何度も文字を書くような感覚だった。情報を書き留める度に消えていき、僕のことも周囲のこともすぐ分からなくなる。玻瓈の向こうの何かが、この身体に恐怖を覚えさせる。そんな中で、ひたすら反芻しながら『彼女』を待っていた。

 今では自分のことも周囲のことも分かっているし、分からなくなることもない。『彼女』を待ち続けていることに、変わりもない。僕が目覚めた、雪の舞うあの日から。


「中学三年の時、かな。なにかあって、『彼女』とこの体は意識を失っていたんだ。目覚めたら僕が表に出ていて、『彼女』はいつまで経っても僕と代わろうとしなかった。多分、眠りについているんだ思う。僕が『彼女』の代わりに目覚める前のことは、あまり覚えてない」

「よく、分からないけど……そのカノジョは、もう目覚めないのよね?」


 瞑目したまま目覚めてくれないのではないか、なんて思いはいつでも僕の中にあった。けれどもそれは受け入れがたいことで、否定し続けていたいことだった。突かれた不安が泡のようにせり上がってきて僕は唾を呑み込む。やけに、苦々しい味だった。


「その可能性も、あるけど」

「……ねぇ、今のあなたが本当のあなたなんじゃない?」


 長調の音色みたいな疑問符が、暗然となりかけていた空気の中で奔星のように煌めく。彼女は一体何色の絵具を持っているのだろう。幾つもの情感で綾どられる面差しに、こちらの心まで緩められていく。それが心地良くて、笑声を吹き零してしまった。


「それはないと思うよ?」

「わ、笑わないでよ。私馬鹿だから今の話あんまり理解すら出来てないし、難しくて分かんないし。でもさっき見た映画で言ってたじゃない。性格が変わっても、記憶がなくても、キミはキミだーって。偽物なんかじゃなくて、別人なんかじゃなくて、それも本物のキミなんだって」

「……本物の、僕……」

「そう考えたら志弦は、少しでも楽に……ならない、かな。待たなくて、良くなるでしょ。だってあんたも本物なんだから。いなくなったカノジョも本物だったかもしれないけど。蝶がサナギの殻を置いてって一人で羽ばたいてく感じ、じゃないの? カノジョは多分サナギだったのよ! 蝶の成長とか私よく分からないけど」

「聖って、面白いこと言うよね」


 待たなければならないのだと、ずっと思っていた。それが僕の役目なのだと、思い込んでいた。『彼女』の為に生きることが僕の存在理由──その心が揺さぶられる。僕が色野志弦である可能性は、考えたことがなかった。この身体はどこを取っても、他人のモノのようだったのだ。男である僕が、この身体を持って生まれたなんてありえない。これを僕の身体ものだと証すのは、まだ僕には出来そうになかった。

 そういえば、なにかで聞いたことがある。蝶は、再生の象徴らしい。もし僕が蝶であるのなら、もし『彼女』が目覚めないのなら、僕は己の足で進むことを、許されるのかもしれない。だけれどこの姿では、僕らしくなど生きられそうにない。

 自身が本物であれば良いという希求と、偽物であって欲しい想いの狭間で、僕は振り子のように揺れていた。


「ちょっと、面白いことってなによ。真面目に考えてやってんのに馬鹿にしてるの?」


 頬を膨らませる聖に、朗色を向けて首を振る。紅茶のグラスを軽く傾けた。音を立てていた氷は、もう溶けてしまっていた。


「してない。少しだけ、心が軽くなったような、気がする」

「そ? なら良いんだけど」

「……君に、自分らしさを探せみたいなこと言ったけど、僕こそ自分のことちゃんと見なきゃいけないね」


 自分のことが分からないのは当たり前だと思っていたが、聖の言うように僕は僕だ。ハリボテでしかない僕には何もないと思っていた。だけど、今ここにいる僕は確かに息衝いていて、僕を構成しているものがあるはずだった。それを、見つけたい。記憶を覆う硝子の向こうか、幾何学模様を明滅させる闇の中か、そのどちらかに、きっと答えは折り重なっている。

 舌に絡ませた紅茶は水分を多く孕んでいて、その冷たさが僕を冷静にさせる。置いたグラスの底に透っている机の木目が、雫で濡れていた。視点を持ち上げると、聖がいちごミルクを飲み終えていた。


「動き始めるのはいつからでも良いんでしょ? だから私と一緒に始めるの、自分探し」

「うん。僕のことも、『彼女』のことも、もっと、考えてみる」

「悩んだら相談してよ? 友達なんだから」

「ありがと。……そろそろ帰ろうか、紅茶なくなったし」

「そうね、行こっ」


 一緒に、と持ちかけられたことが嬉しい。友達という単語を噛みしめた。独りじゃないことを教えてくれる彼女が、眩しく思える。何も見えない暗がりを照らしてくれる、暖かな燭光。

 戸を抜けて店外に出た僕は、斜陽に眼を細めた。聖の虹彩は陽光よりも眩しくて暖かいのだなと、ぼんやりと考えていた。

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