猫と話をする変わり者の女の子について
その街では、猫と話そうなんて大人は一人たりともいやしなかった。
道に、塀に、木陰に、猫が寝ていようと起きていようと、
目もくれず、気にも留めずに通り過ぎる。
猫に話しかけるのなんてせいぜい小学生ぐらいの子供の間だけで、
学年が上がり、制服が代わり、大人になっていくにつれて、
猫のことなんて誰も気にしなくなる。
道端を歩いていても、寝転がっていても、それは全部風景とおなじ。
大人はみんな、生きる事に忙しいのだ。猫なんかに、構っている暇はない。
寝て、食って、昼寝するだけの、意味のない生き物なんかに。
けれども、そんな街にも、例外がいなかったわけじゃない。
だから、いつも猫と話していたその女の子は、きっと相当な変わり者だったんだろうと思う。
最初にその女の子に会ったのは、
確か蝉がやっと鳴き始めたぐらいの初夏の頃だった。
焼けるような太陽の日差しを避けて、
彼女はクスノキの中ぐらいの木陰にしゃがみ込んでいた。
白い夏服にミニスカートの制服姿で、いかにも学校帰りという姿の女の子は
地面に向かって熱心に何事か話しかけていた。
いや、よく見ると、女の子の背中に隠れるぐらいの何かがぴこぴこと動いている。
猫だ。女の子が話しかけていたのは、地面ではなく猫だった。
白と茶のぶち猫が、女の子を真っ直ぐ見上げて座っている。
それを見た時、俺はまた随分とおかしな女の子だなぁ、と眉をひそめた。
猫に話しかけるなんて、とてもまともじゃない。
地面のほうがまだマシだ。
猫と話すなんて、分別ある大人がしていい事ではない。
女の子は小柄だったが、どう見ても中学生から高校生だ。
最近は、小学生だって話しかけない子も多いというのに。
「へぇ、そうなの。最近は猫缶も味が落ちてきてるんだ」
話の内容に聞き耳を立てると、そんな言葉が聞こえてきた。
「それはあれだね、産地偽装だね、衛生管理のふゆきとどきって奴だね」
……猫缶に、産地などという表記があるのだろうか。
「私も最近もつ鍋が進まなくってさぁ。全くゆゆしき社会問題だよ」
それは単に夏バテしているだけだろう。
いやそれ以前に、夏にもつ鍋を食べるというのだから、やはり相当変わった女の子のようだ。
「本当、食の安全には気を付けて欲しいよね…ところでお兄さん、さっきから何かご用?」
人影の無い公園をうろつく不審者の如く茂みに隠れて立ち尽くしていると、
女の子が唐突にこっちを振り返ってそう言った。
なんだ、気付いていたのか。
仕方なく茂みから出ていき、女の子の前に右手のポリ袋を差し出した。
「……件の、産地偽装の猫缶を持ってきたんだがね」
そう、猫と話すなんて非常識だ。
だからといって、猫に構うこと自体に、何か問題があるわけではない。
缶詰の重さで垂れ下がった白いポリエチレンを見て、その女の子は驚いたように目を見開いた。
「うわ、本当だったんだ。ていうか、本当にいたんだ」
幽霊でも見たかのような顔をされた。失礼な。
「だって、今時わざわざ猫に猫缶買ってくる人なんて珍しいでしょ。一番安いやつだけど」
わーすごーいと、何に感動したのか女の子は拍手まで送ってきた。
まぁそれは珍しいだろう。というより、居なくて当然だ。
「猫なんて何の役にも立たないし、寝て食って昼寝するだけの生き物だろ。その方が普通だ」
えー、と不満気に睨んでくる女の子。
そんな顔をされても、本当なんだから仕方ない。
「じゃあ、なんでお兄さんは猫缶を買って来てるの?」
「……ただの暇潰しだよ」
どこか言い訳がましく聞こえた気もするが、きっと気のせいだ。
ぱき。
「ほーら、たーんとお食べー」
女の子はポリ袋を皿代わりに置いて、その上で猫缶をほぐした。
ぶち猫は待ってましたと言わんばかりに食らいつく。
先程まで言っていた不満が嘘のようだ。
勢い良くささみゼラチンをかみ砕いていくぶち猫を眺めていると、
女の子が通学かばんから何かをがさごそと取り出した。
「はい、この子の代わりにお礼。お兄さん、飲む?」
紅色の水筒に入った飲み物は、どうやらスポーツドリンクのようだ。
女子高生の水筒……なんて、そんな初心な年頃でもない。
「じゃあ、ありがたく」
一口飲むと、じりじりと焼かれていた体に水分が染み渡るようだった。
兄さん、兄さん。
ひと心地ついていると、背中から声がした。
振り返ると、三毛猫がいた。
俺の分はありますかね、兄さん。
三毛猫は、こちらを見据えて、そう喋った。
俺は聞こえなかったかのように目を逸らし、意味もなく空を見上げる。
「三つあるから、ちゃんと分けて食べてねー」
代わりに女の子が答え、三毛猫の方へポリ袋の皿を押した。
がつがつと音を立てるようにぶちと三毛猫が争って缶詰を食らうのを見ながら、
女の子はどこか不満そうに言った。
「お兄さんも、猫と喋るのは嫌なんだ」
「別に嫌なわけじゃない。この歳になって猫と喋るなんて、恥ずかしいことだろ」
ふぅん、そう。
女の子はますます不満気に口をとがらせる。
どうやら見た目だけでなく、中身も少し子供っぽいようだ。
しばらく黙って猫を見つめていた女の子は、ふと俺を見て言った。
「……ね、お兄さんって、いつもこの公園に来てるの?」
「いつもっていうか、暇な時だけだけどな」
「明日からは? 大学生なら、もう夏休みなんじゃない?」
「まぁ、そうだな」
「……じゃあ、明日から毎日ここに来て」
……うん?
俺が何か聞き違えたかと思って女の子の方を見ると、
女の子はたたみ掛けるように続けた。
「来週は私も猫缶買ってくるから、一緒にご飯あげよう。うちの近所の猫も呼んで来るから」
いやいや、何故そうなる。
折角の夏休みに、ぎっしりと予定を詰め込まれそうになった俺はあわてて止める。
けれども、俺の狼狽は意にもかえさず、決意を秘めた瞳で女の子は告げた。
「やっと見つけた猫を見てくれる大人なんだもん、私が責任をもってちゃんとした猫好きにしてみせる!」
なんて勝手な。どこからその責任は沸いて出たんだ。
しかしその剣幕と、元々暇を潰す以外にやる事も無かった夏を女子高生と過ごす、
という俗物めいた誘惑に負け、俺は思わず頷いてしまっていた。
「猫が減ってる?」
数日後。なんだかんだで毎日公園に来てしまっていた俺に、
相変わらず制服の女の子はそう言った。
「うん。今日近所の子を呼んで来ようとしたら、半分くらいいなくなってて……」
女の子は目に見えるほど落ち込んでいた。
ブランコに腰を下ろしてうつむき、膝の上に乗せた茶トラの頭を撫でている。
たかが一日猫がどこかへ行ったからといって、そこまで気にするものか?
「……変に考え込まなくても、普通に発情期とかじゃないのか?」
猫はときどき、旅に出るとも言うし。
「それは迷信! ……それに、幾らなんでも数が多すぎると思って」
「……まぁ、半分ともなるとな」
ちなみに、女の子が連れてくる近所の猫の数はおおよそ十二。
何の理由も無くいなくなるにしては、流石に違和感を覚える数字だ。
「他の子に聞いても何も知らないって言うし……ねぇ、あなたは?」
膝の上の茶トラに尋ねるが、茶トラは何も答えない。
柔らかい枕の上で揺られているうちに、熟睡してしまったようだ。
羨ましいやつめ。
はぁ、とため息を吐いて悩ましげに顔を上げる女の子。
会った時から元気な娘だったので、こんな風に憂鬱そうなのは珍しい。
二人で何をするでもなくクスノキの影で黙り込んでいると、
公園の入り口に小さな黒い影が見えた。
殺処分だ。
その影は言った。
あいつらは"ほけんじょ"の奴らに、殺処分されるんだよ。
入り口から入ってきた黒猫は、よたよたと、今にも倒れこみそうになりながらそう告げた。
女の子はびっくりして黒猫にかけ寄る。膝の上の茶トラは飛び退く。
「殺処分って、何それ、本当なの。どこで聞いたの」
黒猫は答える。
聞いたんじゃない、俺も出くわしたのさ。
俺のいた集会に突然奴らは現れて、
俺以外の猫をみんな掻っ攫っていった。
俺は命からがら逃げ出して、奴らの後を追ったんだ。
奴らはトラックに猫を入れたケージを積み込んでた。
荷台の中には、他にも数え切れないくらいの猫がいたよ。
トラックには"ほけんじょ"のマークが描いてあった。
……"ほけんじょ"が猫を連れて行くっていったら、殺処分だろ。
黒猫は、息を切らしながらも淡々と答えた。
どこか、何かを諦めているようにも見える。
「酷い、そんな、何でそんなこと」
女の子は、憤りを隠せない、というより本当に困惑しているように見えた。
自分が好きなものを、他人がそんなに簡単に壊してしまえるのが信じられなかったのかもしれない。
何で、か。さぁな。
別にたいした理由なんてないんじゃねぇの。
単に、役に立たなくて寝て飯を食って昼寝するだけの邪魔なものを、
そろそろ片付けようと思ったんだろ。
いい加減ここも潮時ってことだ。
俺は他のまだ残ってる猫共に声をかけて此処を出る。
あんたも、猫を見かけたらそう伝えてやってくれ。
「……捕まった猫を助けようとは、思わないの」
女の子が、声を絞り出すように言う。
黒猫は、呆れたように、あるいは疲れ果てたように応えた。
助けるって? "ほけんじょ"から猫共をか?
無理だね、なんたって俺らは役に立たない邪魔ものだ。
そんな有意義なことが出来るなら、そもそも駆除なんてされやしないさ。
俺に出来るのは、せいぜいこれ以上仲間を減らさないことだけだ。
「……っ」
女の子は、助けを求めるように俺を見る。
俺は目を逸らした。猫に話しかけられた時のように。
聞こえているのに、聞こえないふりをした。
「……もう、いいっ!」
女の子は髪をふり乱して、公園から走り出ていった。
一人で猫を助け出すつもりなのだろうか。
"ほけんじょ"は、大人の、それも正しい大人達の集団だというのに。
その姿をじっと見ていた黒猫も、ポリ袋の皿に残った猫缶を二、三口食べ、
水を少しだけ舐めてからどこかへと歩いていった。
街に残った猫たちに、此処を出るよう呼びかけに行ったのだろう。
俺は何もすることが無いので、シーソーの真ん中に腰掛けて、
クスノキの青い葉を眺めていた。
太陽が葉を透かして、葉脈を浮き出させている。
兄ちゃん、いいのか。あの娘を追わなくて。
今までずっと黙っていた茶トラが、突然俺に話しかけてきた。
少し動揺したが、俺は何食わぬ顔で、いつも通り目を逸らす。
あの女の子一人じゃ、猫なんて助けられるわけないぞ。
猫が殺されたら、あの子、きっと死んじまうぞ。
え? なんだよそれ、どういう事だ。
……いや、違う違う。猫が変なことを言うなんてよくあることだ。
無視無視、じゃなくて俺は何も聞いてない。
猫は俺の動揺を見抜いたのかどうなのか、平淡な口調で続ける。
聞いてないふりしてても構わん。
ちょっとの間だけ、そこで俺の話を無視しててくれ。
あんた、猫がどうして喋るか知ってるか?
……いや、そりゃ喋りたくなったからなんだろうが、
そうじゃなくて、なんでこんな四足歩行してる小動物が、
わざわざ人間と同じ言葉を使えるのかって話だよ。
まぁ、もったいぶるような話でもないから簡潔に言うとな、逆なんだよ。
猫が言葉を話せるんじゃない。猫なのに言葉を話せるようになったんじゃあ、ない。
"言葉を話せる"のに、猫なんだ。
わかるか? 猫は元々は、人間だったんだよ。
猫になる人間には、特徴がある。
いや、特徴が無いと言うべきかな。
自堕落だったり、無頓着だったり、無関心だったり、
とにかく、おおよそまともな人間って奴が持ってるものを無くしちまった奴が、猫になるんだ。
そう、何の役にも立たないし、寝て食って昼寝するだけの、意味のない人間がな。
俺もそうだ。
確か配管工だったか……もうよく覚えちゃいないが、
とにかく最初はまともに働いていた。
誰かの役に立って、寝て食って働いて汗を流す、健全で正常な人間だった。
でもいつだったか、不意にぱっ、とやる気が無くなっちまってな。
仕事を一日休んで、それからはもう駄目駄目だ。
一日中食って、飲んで、昼寝して……気付いたら、猫になってたよ。
ま、どうせ元から邪魔ものだからな。猫になったって、だぁれも気にしやしない。
むしろ堂々と昼日中に出歩ける分、健康的になったな。
ん? この話か?
まさか、大人は知らねぇよ。
奴らは猫の話なんか聞きゃあしねぇし、聞いても信じやしねぇだろ。
なんせ立派に働いて皆の役に立つ、猫とは正反対の、健全で正常な大人なんだからな。
んで、話は戻るがよ。
あの娘の。女の子の父親も、猫になったそうだ。
らしい、っていう通り、実際に会って確かめたわけじゃないそうなんだが、
どこぞの猫から風のうわさで流れて来たんだと。
あの娘の父親は風来人で、ふらふらっとどっかへ旅に出て、
たまにふらっと帰ってくるような男だったそうだ。
まぁ、猫の典型だな。
そんな親父でも、あの娘は結構懐いてたらしくてよ。
その話を小さい頃に猫に聞かされた時は大泣きしたそうだ。
小さい子供のうちは、猫の話も信じるからな。
それからあの娘は、いつも猫を見かけたら話しかけるようになったそうだ。
いなくなった父親を探すために、な。
ま、今となっちゃ、純粋に猫好きになったようにも見えるが。
そんなあの娘の前で猫共が殺処分なんぞされてみろ。
あの娘にとっちゃ、父親を二回殺されたようなもんだ。
死んじまうってのは大げさだがな、大いに傷つきはするだろうよ。
それこそ、生きる気力も無くなって、猫になっちまってもおかしくないぐらいにはな。
もう一度聞くぞ。
兄ちゃん、いいのか。追わなくて。
自分が後悔しねぇのなら、それでも別にいいけどよ。
……猫にはなるなよ、兄ちゃん。
猫がそう締めくくった瞬間、俺は公園を飛び出していた。
横目で見ると、長話を語り尽くした茶トラは、
役目は終わったとばかりに地面のポリ袋に顔をうずめていた。
目指す物もわからずに足を動かしていると、
ゴミ捨て場の横に白黒まだらの猫が横たわっていた。
一瞬だけ躊躇して、俺はその猫に話しかけた。
「白い制服を着た女の子、もしくは"ほけんじょ"のトラックを見なかったか?」
まだらは自分に話しかけた俺を見て、信じられないというように目を見開いた。
だが悪いが、今は驚いて貰っているような余裕はない。
「見たのか、見なかったのか、どっちなんだ」
苛々して俺は声を荒げる。
猫って奴は、どうでも良い時にはお喋りな癖に、こういう時にはどうして黙りやがる。
白黒まだらは、やっと我に返ったように口を開いて、
女の子とトラック? そんなもん知らな…いや、いや、待てよ。
そうだ、女の子は知らないが、トラックなら見た。
"ほけんじょ"の奴らの服が見えたんで、あわてて隠れたんだった。
トラックは向こうへ行っちまったけど…あんた、あいつらを追ってるのか?
危ねぇぞ。
最後まで言い終わる前に、俺は、
「ありがとよ、助かった」
と言ってその方向へ駆け出し、一度止まって振り返った。
「黒猫が残った猫に声をかけてこの街を出るってさ。あんたも急げ、捕まるなよ」
白黒まだらはまた目を見開いて、変わった奴だな、と言った気がした。
しばらく走ると、大型トラックの白い車体とエンジン音が聞こえてきた。
側面には、大きく目立つほけんじょのマークが描かれている。
トラックは都合良く近くに停車し、ドアを開けて数人の男が下りてきた。
猫用のケージを持った男達は、散り散りに走り去っていく。
その慣れた仕事ぶりに背筋が冷えるが、
黒猫が上手く伝えていてくれれば、これ以上猫が捕まることは無い筈だ。
時間がない。男達が戻ってくるまでが、恐らく最後のチャンスだ。
コンテナに掛かった留め具を手をもつれさせながらも押し上げ、その大きな扉を開く。
突然差し込んだ光に瞳孔を細め、中のケージに入れられた猫達は一斉に俺を見た。
お喋りな猫に口を挟まれる前に、手近なケージの留め金を外しながら言う。
「黒猫から伝言だ、あいつは残った猫達を連れてこの街を出るらしい。お前らも早く逃げろ!」
ケージから出た猫は我先にと道を駆け、さながら洪水のように毛並は街を去っていく。
しかし、積まれたケージは数十を越え、更に溢れる猫が邪魔をして思うように
留め金を外す事ができない。
くそ、このままじゃ間に合わない。
「お兄さん!」
焦りが水滴となって額を濡らし始めた時、猫の洪水を遡ってくる誰かの声が聞こえた。
猫をかき分けて進む女の子は、髪は乱れ、真っ白な制服には汗がにじんでいる。
彼女も、ここに来るまでに散々走り回ってきたのだろう。
「……もう。お兄さんって、天邪鬼なんだね」
トラックの荷台によじ登り、うず高く積まれたケージの留め金に指を掛けながら女の子は言う。
こんな切羽詰まった状況だというのに、彼女は笑っていた。
何がそんなに嬉しいんだろう? 猫を助け出せたことか?
それとも、俺が結局こうして猫を助けようとしていることか?
「お兄さんが本当は、ちゃんとした猫好きだったってわかったから、だよ」
猫に意味がない、なんて、本当は思ってないんでしょう?
女の子は、心底嬉しそうに笑って言う。
……さぁ、どうだろうな。
この数日で、君が宣言通りに俺を変えてしまったって気も、しないでもないけれど。
「……っこれで、最後!」
最後の数匹が解き放たれ、コンテナの中には積み上げられた空のケージだけとなった。
まだ男達は戻ってきていないが、騒ぎを聞きつければすぐにでも見つかってしまうだろう。
そうなる前に、早く俺達もここから逃げなければ。
荷台から飛び降り、女の子の手を取って地面に下ろす。
もう周りに猫の姿は無かった。
それを確認した後、急いでトラックから離れようと、して。
背後から聞こえたエンジン音に、心臓を鷲掴みにされたような衝撃が走った。
慌てて塀の影に女の子と隠れると、トラックの後ろから同じマークの、
同じトラックが姿を現した。
……そうだ。街中の猫を捕まえるのなら、トラックも一台なわけがないじゃないか。
唇を噛んで後悔する。
最初のトラックに居た猫の数から考えて、まだ他にトラックがいるとは考えにくいが
それでもまだ捕まった猫がいることに変わりはない。
数を減らすことはできたけど、全部の猫を助けることは出来なかったのか。
けれども。
ただ悔しがっている俺とは違い、女の子はまだ諦めてはいなかった。
「……お兄さん、見て。あのトラックの人達、ケージを調べようと降りてきてる。
今なら、あのコンテナの中にも入りこめるかも」
決意を秘めた瞳で彼女は言った。
無茶だ、できっこない、という言葉は、彼女の瞳に吸い込まれるように消えていった。
そうだ、どうせバレたらただじゃすまないなら、一匹でも多くの猫を逃がしてやろう。
そう覚悟を決めて、さん、に、いち、と今にも飛び出そうとした時に、
その音は聞こえてきた。
何かが地面を叩くような、たくさんの小さな足が、地面を走ってくるような音。
ケージを覗いていた男達が音に気付いて振り返った時には、
もう彼らは猫の洪水に飲み込まれていた。
全く、本当に馬鹿だな、お前らは。
洪水から外れて、一匹の猫が俺と女の子の前に歩いてきた。
猫は、黒猫だった。
「……まさか、助けに来てくれたのか?」
何の役にも立たなくて、寝て食って昼寝するだけの、意味のない生き物の筈の、猫が。
受けた恩を返す為に、団結して戻ってきた?
ま、あんたらは例外だからな。
こっちにとっても特別ってことだ。
黒猫は澄ました顔で言った。
「ほら、お兄さん早く! 今のうちに、コンテナの中の子たちを!」
女の子に急かされ、トラックの後ろに回る。
猫の洪水は俺達が通る時だけ左右に分かれ、通り道を作った。
「……よし。終わったよ、黒猫さん!みんな逃げて!」
もう一台のコンテナのケージも開け終え、女の子が猫達に向かって叫ぶ。
それを合図に、引き潮のように猫は一斉にやって来た方向へと走っていく。
黒猫が、周囲の猫に合図をして俺達が走る隙間を空けた。
「おい、これからどこに行くんだ?」
先導している黒猫に聞いた。
これだけの数の猫に囲まれて、どこかに隠れることは出来ないだろう。
しかし、向かっている先に街から出る道はない。
困惑する俺に、黒猫はついて来ればわかるとしか言わなかった。
俺達と猫は街を横断するように数分間走り続ける。
大人を敵に回した俺達に、逃げ場など無いと知りながらも。
やがて、ほとんど家もないような街外れの道で
黒猫は立ち止まった。
着いたぞ、ここだ。
そう言って、黒猫が指した先には、灰色の壁があるだけだった。
「……行き止まりじゃないか」
道を間違えたのかと訝しむ俺に、黒猫は、いいや、ここでいいんだ。
と落ち着き払って首を振った。
行き止まりの道には、地面の上、塀の上、壁の上、いたる所に様々な毛並の猫がいた。
きっとこの中に、ぶちや三毛猫や茶トラ、白黒まだらの姿もあるのだろう。
敷き詰められたように隙間無く行き止まりの道を埋める猫の姿は異様で、どこか絵画じみていた。
猫達はその全てが中心に立つ俺と女の子を見つめる。そして、やがて。
一斉に、にゃぁと鳴いた。
鳴き声の反響が消えるまでの刹那に、コンクリートの壁は消え去った。
塀も、地面も、空さえも消えて、気付くと俺達は、青々とした草原の中に立っていた。
街の影はどこにもなく、周りを取り囲む猫達と、地平線まで続く草の海だけが視界に広がる。
そこはどう見ても、人間の住む世界ではなかった。
猫は、猫になったその時から、この場所を知っている。
黒猫は、草の上に座って言った。
何の役にも立たない俺たちが、寝て、食って、昼寝して生きることを許された場所。
そういう風に、俺たちはここを知っている。
人間だった頃の未練がきれいさっぱり無くなって、
猫として生きることを決めた奴らが、ここに来るそうだ。
猫の秘密を知ってる人間だって、ここを知ってる奴はいない。
まさに、猫にとっての楽園ってものなんだろうよ。
目をつむり、首を伸ばして、黒猫は風を感じていた。
公園にいた時の、諦めと疲れの入り混じったような苦しさは
もうどこにも見えはしない。
「……じゃあ、私たちはここに来てよかったの?」
そう尋ねる女の子の髪も、静かな風に揺れていた。
言ったろ。あんたらは特別なのさ。
……仲間を助けてくれて、ありがとうな。
まさか、本当にやるとは思わなかった。
黒猫は、耳をぴんと立てて頭を下げた。
晴れ渡る青空の下、その黒は夜色の宝石みたいに綺麗だった。
「そんなこと。私は私が猫好きだから、そうしただけだよ」
お兄さんも。ね?
俺を見て言うが、それは違う。
好きなものの為に頑張ったりできるほど、俺は素直じゃない。
……それでも。
「……後悔したくなかっただけだ。猫なんかにはなりたくないからな」
天邪鬼だね、と女の子は言ったけれど。
俺はしっかりと、猫を見据えて言った。
目を逸らさずに。
聞こえた声に、答えた。
さて。
黒猫が、座り直して目を開いた。
なごり惜しいが、それじゃあサヨナラだ。
ここはあくまで猫の世界、人間がいていい場所じゃあない。
送り返してはやれるけれど、もう俺たちがそっちに行くこともないだろうな。
「……たまにだけ戻ってきたりは、出来ないの?」
女の子は、寂しそうに草を踏んだ。
本当は、無理だとわかっているんだろう。
……向こうにいる猫は、まだ人間に未練のある奴らだ。
あんたらみたいな変わり者の人間に出会っちまったからよ、
俺たちは、もう未練なんて消えちまったのさ。
じゃあな。
俺たちがこっちに来ても、向こうから猫がいなくなったわけじゃない。
違う猫に会った時には、また話しかけてやってくれ。
黒猫は、挨拶代わりにと尻尾を振った。
女の子は、挨拶代わりにその頭を撫でた。
「ねぇ、もしも私のお父さんに会ったら、忘れてないよって伝えてくれる?」
あぁ、約束する。
「……もし間違って猫になった時には、よろしく頼む」
はは、いいぜ。約束だ。
じゃあな、変わり者の人間共。
最後にあんたらの役に立てて、嬉しかったぜ。
黒猫が振りかぶり、合図をする。
同時に。
猫は一斉に、にゃぁと鳴いた。
それから結局、俺と女の子に大人達からの罰則が下されることは無く、
そして街で"ほけんじょ"の殺処分も行われることは無くなった。
何の役にも立たないと思っていた猫からの反撃に、
なにかしら思うところがあったのかは知らない。
何にせよ、今日もこの街では猫が道を歩いている。
「あ、お兄さん。ちょっと遅刻だよー」
女の子が猫缶を広げ、数匹の猫に囲まれていた。
俺がポリ袋から猫缶を取り出すと、後ろについてきた
猫達も手を伸ばして要求してくる。
「……ほら、缶で舌切るなよ」
近付いてくる猫を手で制しながら、ポリ袋の上に中身を開けた。
「あはは。お兄さんも、ちゃんと猫と話せるようになったねぇ」
女の子は、嬉しそうに笑った。
猫には意味がないと言うけれど、
人間にだって意味があるのかはわからない。
相変わらず大人達は猫の話を聞かないし、
自分だっていつ猫になるかわかりはしない。
そんな場所で「変わり者」でいることに、果たしてどんな意味があるのだろう。
……それでも。
変わり者の俺達は、きっと意味があるだろう猫の声に、
耳を傾けながら生きていく。