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三章 小説を味わおう(後)

 * * * * *



 ――教室。

 女の先生が黒板の前に立っている。

 小畑先生――四年生と五年生の時に担任だった女の人。四十代くらいの真面目な先生。


「教室は間違うところです。間違いを笑ってはいけません。バカにしてはいけません。間違いながら、正解を探し出すところです」


 笑って、先生は言った。


「みなさん、分かりましたか?」


 先生の確認の言葉。その直後、ワンテンポ置いて、一斉に聞こえる「ハイ」という合唱。

 周りを見ると、六年生よりも、少し小さい人ばかり。席に着いたみんなが、目の前の小畑先生を見ていた。


「それじゃあ、『ごん狐』の内容をみんなで確認していきましょう」


 先生の指示に従って教科書をひらく私。その手もまた、みんなと同じように少し小さい。

 ごん狐――四年生の授業。そうだ、ここは二年前の学校だ。四年生の教室、四年生の国語。こんな授業を受けていた。


「じゃあ、さっちゃん。ごんが死んで、さっちゃんはどう思ったかな?」と先生。


「悲しい感じ。本当に死ななくちゃいけなかったのかなって思います」

「なるほど。みなさん、どうですか?」


 一息の間。そして――。


『いいでーす』


 クラスの中で、数人が大きな声で合唱する。「感想」の答え合わせ。クラスが今、さっちゃんの感想を正解だと認めた。

 小畑先生の問い掛けは続く。


「たけしくんは、どう?」

「兵十はせっかちだと思った。もうちょっとごんが何をしてるか確かめればよかった」

『いいでーす』


 問い掛け、返答、そして合唱が続く。

 四年生の国語。いいです。いいです。いいです。


「それじゃあ真名ちゃんはどう思いましたか?」


 小畑先生が微笑みながら私に聞いた。私は自分の感想を答える。


「ごんは――」


 一瞬、私の声が止まった。

 でも大丈夫。これは「感想」だから。間違いなんて無い。

 もし間違いがあったとしても、教室は間違える場所だから、きっと大丈夫。


「ごんは、撃たれてもしょうがないです」


 沈黙。一秒、二秒、三秒待っても、『いいです』はやってこない。


「今までさんざん村人に迷惑を掛けてきたんだし、また悪さをしにきたんだって思われても、仕方ないと思うし――」


 それに、そもそも――。


「みんなはごんが『死んだ』って言うけど、ごんが死んだかどうか、文章に書いてないのでそれも分からないと思います。文章から分かるのは、ごんが倒れたってことだけで――」


 何の反応も無い。

 私の声は尻すぼみになって、やがて消えた。自分が何かとんでもない間違いを犯したであろうことを、無言の圧力の中で感じる。


 教室中の視線。無音の警報。

 異常。非常。

 胸が鳴る。汗が湧く。


「そっか……みんなはどうかな?」


 先生がやるせない笑顔で、クラスに問う。


『ダメでーす』


 合唱。私の「感想」は不正解。


『どう見てもごんは死んでると思います』

『ごんが死んでるか生きてるかは大して関係ないと思います』

『銃で撃たれて倒れたら普通死ぬと思います』


 洪水のように溢れる、クラス中の否定の合唱。言葉の津波が私の心臓を飲み込んでいく。


 教室は間違えるところです。ダメです。恥ずかしくありません。ダメです。間違いながら正解を探していきましょう。ダメです。バカにしてはいけません。ダメです。


 嘘です。


 教室は間違えると、とても恥ずかしいところです。いいです。みんながバカにするところです。いいです。間違えた人をみんなで吊るし上げるところです。いいです。正解から外れた人間を制裁するところです。いいです。真名ちゃんは「感想」を間違えました。いいです。真名ちゃんは恥をかかなければいけません。いいです。


 誰が喋っている訳でもないのに、私の頭の中に勝手に響く言葉。

 視線を動かせず、私はずっと教科書を見つめる。頬から顎に伝った汗が滴る。


「真名ちゃん?」


 先生の声。顔を上げる。


「――っ!」


 声にならなかった。

 先生はいつの間にか、私の席のすぐ目の前にいた。

 それだけではない。

 クラスのみんなが、私のことを間近で取り囲んでいる。無表情で立ったみんなが、三百六十度の全方位から私を視線で射抜いている。


「みなさん、どうですか?」


 先生が問う。

 みんなの口が、一斉に動く。

 やだ。

 やだ、やだ、やだやだやだやだ。やめ――。


『ダメでーす!』



 * * * * *



「いやっ!」


 それは、私の叫び声だった。

 椅子に座っている私。

 顔は、プールに入った直後のように濡れていて、汗特有のべたつきがあった。

 目の前には、一人掛けの机。

 腕が自由に動かない。

 椅子の背もたれの後ろで、両腕が縛られている。


「今の――」

「カウンセリングは終わったか?」


 私の声を遮ったのは、語部かたりべ先生だった。

 私の席から二、三メートルしか離れていない教卓の前で、ジッと私の顔を見据えている。


「君の過去の体験を基に作った、カウンセリングプログラムだ」

「カウンセリング……?」

「オオドオリに何を吹き込まれたのかは分からない。けれど、君はそのままでいい。あえて不正解を探すような真似はするな。教室の中で、みんなが納得する正解を探そう」

「何を言って――」

「もう間違えるのは嫌だろう? みんなから指をさされるのは嫌だろう?」


 先生のその言葉に、心臓がドクッと鳴った。

 紙やすりが心臓を覆い、ザリザリと表面を削られるような感覚。

 ダメです、ダメです――と、私の頭の中でみんなの声が響いた。


「教室で、今までどおりみんなと上手くやりたいだろう? 満島たちと、仲良くやっていきたいだろう?」


 満島みつしまこころ――ココちゃん。その顔が、声が、私の頭の中を埋め尽くす。

 ココちゃんを中心とする人間関係の中で、私は正解を探していかなければ――。


「うるせえよ、バカ」


 隣から聞こえてきた声。それは、私の頭の中のココちゃんを一瞬にして消し去った。


「――大通おおみちくん?」


 今まで気づかなかったけど、私のすぐ右隣りの席には、大通くんがいた。私と同じように腕を縛られ、椅子に座らされ、今も時折、青い光が体を走っているのが見える。


「……オオドオリ、まだお前のカウンセリングは終わっていないはずだが?」

「カウンセリングも道徳教育も要らない。物事の良い悪いの判断くらい自分でできる」

「なんでもできるつもりになっているだけだ。お前は教室の和を乱すことしかしていない」

「自分の意見を言って乱れる程度のクラスなら、そんなもん、さっさと壊れた方が良い。間違ってるって思いながらみんなの考えに合わせるなんて、バカみたいだ」


 その言葉を聞いて、先生は大きく溜息を吐いた。


「オオドオリ、先生はな、お前自身のためを思って言っているんだ。教育愛としてだ。クラスの中で摩擦無く、円滑な社会的関係を築いていく――それが、お前たちの学ぶべき集団行動というものだろう」

「話にならない」

「そのとおり。しかし、だからと言って先生は教育をやめることは無い。話の通じない子供に対しても、平等に、公平に指導する。それが教師だからだ。お前への教育も決して諦めない。先生はお前を見捨てない。必ずクラスに馴染める。だから頑張れ! 頑張ろう!」


 先生は涙を流し始めた。私たちの体の自由を奪っておきながら、こちらを励ましている。おぞましい冷や汗が私の背中を伝っていた。


「クラス運営というのは、得てして難しいものだ。小畑先生も、クラス運営に苦慮し、努力し、しかしその想いは児童に伝わること無く、心を病み、休職という選択を余儀なくされてしまった――ああ! 小畑先生! あなたの志は私が引き継ぎましょう! ああ!」


 先生が相も変わらず涙を流し、胸に手を当てたその時だ。

 狭い廊下から、ズズズ……と何かを引きずる音がした。

 先ほど、私たちを天井から見つめていた大グモが歩く――その後ろには、クモがお尻から出した糸で、グルグル巻きにされた一人の女子。


「宇野さん!?」


 思わず声が出た。


「江藤さんに……大通くん……?」


 横倒しになったまま引きずられる宇野さんは、こちらを見るや否や目を大きく広げた。


「宇野……さっき図書室で会った時に『下校しなさい』と言っただろう……何故まだ帰っていない……帰りたくないのか? 家庭環境に問題があるのか?」

「先生……?」


 宇野さんは信じられないものを見るような目で、語部先生を見上げている。


「下校時間を過ぎても、そして、先生からそれを指摘されてもなお帰らない……指導かカウンセリングが必要だ。……うむ、ご苦労様」


 先生は大グモを見つめて会釈をした。すると、クモはお尻から糸をプツンと切り離し、簀巻きの宇野さんをその場に残して去った。


「思えば宇野、君も以前からクラスに馴染もうとしない。それは何故だ。それが君の個性なんだろうか。クラスメイトと手を取り合うことを拒否する姿勢を、個性と呼んで良いものだろうか。それは特別の教科である『道徳』の学習指導要領に反しないだろうか。『個性』とはもっと、公共の福祉に適合するような意味合いで用いられるべきではなかったか」


 先生は意味の分からないことをブツブツ言うと、さっきよりも大粒の涙を流した。そして――。


「小畑先生は被害者だ」


 そんなことを言い出した。

 さっきも少し話に出てきた小畑先生。それは去年、私と宇野さんがいたクラスを「途中まで」担任していた女の先生だ。あの読書登山を企画した――。


「何で……小畑先生の話なんて……」


 宇野さんは振り絞るような声で言う。


「しらばっくれるな宇野。小畑先生は君に潰されたんだ」

「何を……!」


 突然の先生による指摘に、宇野さんが言葉を詰まらせた。


「どうすれば児童は本を読む? 読書の習慣をどうやって付ければ良い? 皆が読書の素晴らしさを知るにはどのような方法が必要か……小畑先生は苦悩していた。君たちへの教育に対して真摯であったが故、思い悩んでいたのだ」

「だから……何だっていうんです……」

「子供たちに読書の素晴らしさを――そうして生まれたのが読書登山だったはずだ。みんなの読書意欲を引き出す素晴らしいアイディア――それを君はどうした?」

「どうも何も……ちゃんとあたしもやってました」

「違う。君は破壊しようとしたんだ。律儀に本を読むふりをして、その実、小畑先生のアイディアをボロボロに壊した。結果、クラスの交友関係にまでヒビが入った」


 その瞬間、宇野さんは顔をしかめた。先生から目を背けて、顔から数センチほどの地べたに視線を移している。

 そして私は、宇野さんが去年何をしたかを思い出す。宇野さんの欄に貼られたおびただしい数の登山シール。表も裏も文字で埋め尽くされた読書感想カード。


 宇野さんは間違いなく読書登山を遂行していた。

 小畑先生が示したルールに従って、どこまでもルールどおりに、愚直に。

 けれど、他のクラスメイトとは圧倒的な差を付けて。ルールなんて全く関係ないほどに、誰が一番かなんて口にするのもバカらしいほどに。

 そして、クラスは宇野さんを排除した。

 異物だったから。


 宇野さんは目立ちたがり屋です。いいです。宇野さんはみんなと仲良くする気がありません。いいです。本を読むことしか能がありません。いいです。宇野さんは図書室にいるカビ臭い女です。いいです。


 私の頭の中に声がまとわりつく。誰も喋っていないはずなのに。誰かの声がこだまする。大勢のクラスメイト。脳にへばりついて、そのシワに深く入りこもうとしてくる黒い声。


 ――もしかしたら、そのとおりなのかもしれない。


 いいです。

 だって宇野さんのやり方はおかしいもん。

 いいです。

 どうしてそんなにみんなの注目を浴びるようなことをして。

 不器用で無礼な態度とその行動。

 クラスから浮いて当然の――。


「違う!」


 叫んだのは、地面に倒れている宇野さんだった。


「あたしはクラスを壊そうとしてなんかない! あたしはただ、自分を曲げたくなかった! それだけ!」

「なんだと……?」


 先生が首を傾げた。


「あたしはただ本が好きなだけだもの! あの時も、ただ本を読んでいたかっただけ! それだけで良かった! 何かしようなんて思ってなかった! それなのに、私のそんな平穏をぶち壊そうとしてきたのは、小畑先生の方だった!」

「おい、ご休職なさっている小畑先生を悪く言うな。君は教師を敬う気持ちが無いのか? 社会不適合者か?」

「うるさい! 何が読書登山だって言うの!? 読書で競争して何だって言うの!? あんなの、女子にとっては、満島さんの顔色を伺うだけの企画じゃないの!」


 満島心――つまり、ココちゃんのことだ。


「なんと……! ついにクラスメイトに暴言まで吐くのか君は……! ああ、道徳の指導が必要だ、ああ……」

「先生は何も分かってない! ううん! 気づいてるくせに知らないふりをしてる!」

「なに……?」

「満島さんよりも飛びぬけないこと。満島さんよりも上にならないこと。満島さんよりも目立たないこと――あのクラスの女子はそうやって過ごしてる! 自分が目立てば、必ず何か言われるから! 満島さんのグループが怖いから!」

「何を言う。確かに満島は少し負けず嫌いなところがあるが、品行方正で、学業も素行もともに問題ない児童であり――」

「嘘! 絶対に先生は知ってる! クラスの雰囲気を満島さんがコントロールしてることも! あの人の発言が、クラスから除け者を生み出すことも!」

「除け者? まるでイジメのようなことを言う。我が校においてイジメはありませんでした。我がクラスにおいても、児童は皆、互いを思いやり、互いを尊重し、それぞれの個性を受け入れ、かつ切磋琢磨しようと日々健やかな共同生活を目指しているところであります。保護者の皆様におかれましては、無用の心配を抱きませぬよう――」

「そんなマニュアルはやめてよ!」


 感情を失って機械的に喋りだした先生を、宇野さんは一喝した。


「読書登山なんて、あんなの普通にやったらあたしが一番になるに決まってる! それを、満島さんの目を気にして、わざとページ数を少なく申告して、満島さんが一番になるように調整して――? そんなことをして自分を偽るのは嫌!」


 宇野さんは地べたから鋭く先生を睨む。


「本を読まなかったら漢字の書き取りなんていうペナルティまで付けて、クラス全員に参加を強制してきて……だからやってあげたの! あたしが全力で! 真っ向勝負で! 何の意味もない競争に! こんなバカな企画今すぐやめろ――って、あたしがダントツの一番を取ることで分からせてあげたんじゃない!」


 ――ああ、そうか。

 あれは宇野さんの抗議だったんだ。

 ただ普通に本を読んでいたかった宇野さんの。

 競争をしたかった訳でも、誰かに注目されたかった訳でもない宇野さんの、抗議。

 教育という名目で、宇野さんから平穏を奪った――小畑先生への抗議。


「『分からせてあげた』――だと? 宇野ぉ! お前は教師になったつもりかぁ!? 教員免許も持っていないくせにぃぃ!」


 突如、先生が目を血走らせて震えた。宇野さんの言葉が、先生の中の触れてはいけないものに触れてしまったらしい。


「教師がそんなに偉いの!? じゃあ休職なんて言って勝手に休まないでよ! 自分が立てた企画を放り出して逃げないでよ! カビ臭いって言われて、つま弾きにされて――あたしはそれに耐えて学校に来たのに、投げっ放しで勝手にいなくならないでよ!」


 教師らしいことの一つもしてよ――と。宇野さんは唇を震わせていた。


「黙れ! 黙れ黙れ黙れ黙れ!」


 先生が叫ぶ。その顔はいつの間にか真っ赤に血が巡り、息は荒く興奮していた。


「貴様! 今のは教育批評だな!? 現場の苦しみも知らぬ評論家風情、コメンテーターとかいう奴らが大好きな! きょぉいくひひょう! 宇野ぉ、貴様、何様のつもりだ!? 第一種教員免許状はおろか二種免許状も備えていない分際で!」


 ガッ、ガッ、と荒い足音を立てて、先生は廊下へと向かう。宇野さんが倒れているすぐそばまで――。


「小畑先生の案は素晴らしいものだった! 読書感想カードを用いることでクラス内での交流を深めようとなさっていた! 競争心を芽生えさせることで、読書に対する児童の動機を与えようとなさっていた! 児童の自主性を生み出そうとなさっていた! 教典『学習指導要領』の教えのままに――! 小畑先生は貴様のせいで休職なさったのだ!」

「それが押し付けだっていってるんでしょ!」


 宇野さんの怒号。

 その時だ。宇野さんの腰の辺りが、急に光り出した。


「ぐっ、何だ!?」


 腰の辺りから現れた眩しい光。それは、宇野さんを縛り付けていたクモの糸を溶かすように解いていく。

 先生が光に目を背けている隙に、体が自由になった宇野さんは、光の在りかへ手をやった。それは、スカートのポケットの中。


「これ……」


 怪訝な声を上げながら、宇野さんはそれを取り出していた。一冊の文庫本。『新見南吉童話集』だった。


「やった!」


 突如、私の横で大通くんが叫んだ。光に照らされた室内で、大通くんの自由を奪っていた糸もまた解けていたのだ。そして、私の糸も。


「逃げよう! 江藤さん! 宇野さんも!」


 大通くんが走って脱出を試みる。宇野さん、私がそれに続いた。けれど――。


「逃がすか!」


 私の腕が後ろに強く引かれた。先生が、私の手首をしっかりと握って離さない。それに気付いた大通くんと宇野さんが、振り返って止まる。


「江藤さん!」


 二人の声が私を呼んだ。そして、大通くんが宇野さんの手から文庫本を掴み取ると、その光を先生へと向ける。


「甘い!」


 先生は私を掴む手とは反対の手で、スーツのポケットから本を取り出した。それは例の教典――『学習指導要領「生きる力」』。

 その表紙と同じく黒い光が、大通くんの手から飛ぶ文庫本の光とぶつかり、稲妻のような閃光が弾け飛んだ。大通くんと宇野さんは、その衝撃で激しく尻もちをついている。


「くそっ! 何だこれ!? 一体何がどうなってんだ!?」


 大通くんが唇を噛む。どうやら彼自身、その文庫本の光の仕組みが分かっているようでは無さそうだった。とっさに先生の目を眩ませようとしただけだったのだろう。


「ちっ! 『小説』を持ち込んでくるとは……! 宇野めぇ……!」


 先生はそう言って、唇を噛み締めていた。憎々し気に、大通くんの持つ『新見南吉童話集』を睨んでいる。


「先生! もうやめて下さい! どうしてこんなことするんです!? どうして私たちがこんな目に合わなくちゃいけないんですか!?」


 私はたまらず叫んだ。先生に掴まれる右手首が痛い。そして何より、この荒唐無稽な空間に生理的な嫌気が募っていた。


「ははあ、なるほどなるほど、何かと思えば『小説』だったのか、コンコン」

「あなた……キツネ!?」


 廊下に散乱した段ボール。原稿用紙で埋もれたその一角から、突如、黄色い獣が現れた。


「『教科書』と『小説』は光と影。互いに互いを潰し合う、最凶最悪の相性だからね。道理で蜘蛛の糸が溶けちまう訳だ、コンコン」

「余計なことを言うな!」


 先生の怒りの声が響く。でも、キツネは何も気にしていない様子。


「ややや、余計かどうかはボクが決めることだね。ボクは君の味方でも、彼らの味方でもない。退屈なこの地下で、面白いものが見られればそれでいいのさ」


 キツネは咳払いをして続ける。


「『教科書』ってのは、予め想定されている答えを、子供に答えさせるためのものさ。だから小説っていうのは、教科書に載った時点で小説じゃなくなる。『小説』から『国語』になるんだな。そして『国語』になった瞬間、そこには教師が想定する解釈が正解として組み込まれる」


 でも小説は違う。キツネはそう言った。


「本来、『小説』ってのは読者の多様な解釈を楽しむためのものでさ。だから『小説』ってのは、今までに無い新しい読み方を提案する遊びなのさ。つまり『小説』は、根拠さえあれば、それを喜劇として読もうが悲劇として読もうが、それでいいことになる。『国語』と違ってね」


 そこまで言われて、私はピンと来た。教科書の「ごん狐」は、今までの授業で感じたように、ぼんやりとした正解が確かにあった。

 ココちゃんが言うような、優しい、道徳的な教訓。相互理解の重要性を私たちに伝える名作。教室の空気は、そんな、学校的で、国語的で、道徳的な解釈に満ちていた。


 でも、私が借りていた、そして宇野さんが借りようとしていた『新見南吉童話集』の中の「ごん狐」の空気は、もっと開放的だった。

 大通くんが披露したような――教室でみんなから非難された「絶対に分かり合えない世界がある」という解釈さえも、きちんと受け止めてくれる――そんな自由な空気。

 他人の顔色を伺う必要の無い、空気を読む必要の無い、私が感じた私の世界。

 思えば、そんな世界に浸れるからこそ、私は読書が好きだったんじゃなかったっけ。そして宇野さんも、大通くんもきっと――。


「江藤さんを放せ!」


 大通くんの声がした。続いて、先生の声。


「先生に話す時は敬語を使えと言っただろう! 馬鹿者! いい加減にしないと、思想矯正を施すぞ!?」

「思想矯正……!?」

「そうだ! 今までのカウンセリングとは桁違い! 強制的に貴様らの思想を教育する機能! それが思想矯正だ!」


 先生は、右手に持った教典を私の頭へと近付ける。


「あらゆる手段を用いても教育不可な児童に許される最終指導――それが思想矯正。この教典の光を脳に伝えることで、貴様たちはすこぶる道徳的・社会的な人間へ生まれ変わる」

「ふざけるな!」

「それはこっちのセリフだオオドオリぃ! 貴様が妙な動きをすれば、連帯責任で、まずこの児童から思想矯正してやってもいいんだぞ!?」

「ひっ!?」


 私の頭に近付く教典。思わず恐怖の声が漏れた。同時に、大通くんの動きも止まる。


「まずその『小説』を地面に置け、オオドオリ」

「その前に――」

「さっさとしろぉ! そして両手を挙げるんだ! 宇野もぉ!」


 大通くんの反論を許さない先生。そんな先生の言葉に、大通くんと宇野さんは何も言わずに従った。

 私は横目で、すぐそばの段ボール箱にいるキツネを見たが、キツネはただ寝転んでこちらを眺めているだけだ。本当に、どちらの味方をする気も無いらしい。


「さあ、次は江藤、きみだ」

「え?」

「君はこの二人と違い、非常に模範的な児童だった。本来であればカウンセリングも必要なかったはずだ。そこで、試験を行う」

「試験――? って、どういう――?」


 私の疑問に答えず、先生は相変わらず私の手首を固めたまま、機械のように語り出した。


「問一 あなたは、オオドオリと宇野という二人の反社会的な児童に対して、どのような思いを抱いていますか。『正しい感想』を述べなさい」


 寒気がした。


「先生、それは――」

「今は試験中です。質問には答えません。繰り返します。質問には答えません。友達との私語も禁止します。問一の『正しい感想』を述べなさい。『正しい感想』を述べなさい」


 先生の乾いた声。

 地下に入る前、教室で見た黒板を思い出す。

 正しい感想。

 それが何を意味しているのか、分からない訳、ない。

 瞬間、さっきのカウンセリングの記憶が脳を突き抜ける。

 ダメです、ダメです、ダメです――。

 正しくなければ、ダメです。


「オオドオリくんと宇野さんは……あまり他のクラスメイトに心をひらこうとしません」


 私は、決して間違えないように言葉を紡ぐ。ゆっくりと、一言一句確認しながら。


「二人とも、クラスの人たちとは違うことをします。反感を買うような考えを口にしたり、行動したりします。だから、クラスの人たちから嫌われるのも、ある意味当然です」


 自分を守るための言葉。周囲から求められた正解。私はそれを続ける。

 すると、先生は満足気に、次の質問を投げ掛けてきた。


「問二 そんな彼らを、あなたは否定しますか、肯定しますか。理由を含めて述べなさい」


 先生に掴まれた手首に、さらに握力が加わった。

 大通くんと宇野さんが私を見る。目が合う。私は目を逸らした。何も感じないように。何も考えないように。


「否定します。二人とも、不器用過ぎるからです。人との距離の測り方が苦手で、わざわざ嫌悪感を持たれるようなやり方をするのは、学校で生活していく上で悲し過ぎます」


 目を逸らした先で、キツネと目が合った。

 キツネは、これまでと何ら変わりない、飄々とした顔だ。呆れたり、悲しんだり、喜んだりすることもなく、ただ黙って私の目を見ている。

 その時――。ふと、キツネの言葉を思い出した。


『キミらには目と心と口があるじゃないか。読んで解釈して伝えるためのさ。それをサボってしまうのは、読者として死んでいるも同然なんじゃないかな』


 使えるものがあるのに使わないのは、死んでしまっているのと同じ。

 やれるのにやらないのは、死んでしまっているのと同じ。

 私が今ここにいるのに、私が私の言葉を使わないなら、私は今、死んでいるのと――。


 ――同じ?


 そんなことない。そんなこと――。

 でも。

 思えば、私は何もしていない。

 この地下で、私の前を歩いていたのはずっと大通くんだった。

 高史くんとのディスカッションで、道を示してくれたのも大通くんだった。

 先生のやり方がおかしいと言葉に出したのも、大通くんであり、宇野さんだった。


 私は――?


 私が考えていること、思っていることって、何?

 そんなこともいちいち自問自答しないといけない私。

 自分の考えさえも、分からなくなっている私。

 自分の言葉もまともに使えない私。

 生きている。けど、死んでいる。

 生きている死体。

 それが私です。

 いいです。

 いいです?


「――いいはず、ないです」


 私の声。

 震えていた。

 喉が。唇が。まぶたが。

 咄嗟に出ていた私の小さな震え声は、この地下教室によく響いた。


「大通くんも宇野さんも、確かに極端です。私にはついていけない部分がたくさんあります。だからクラスからハブられるんだろうなって思うこともよくありました」


 ――でも、でも。


「でも、そんなこととは関係ないけど、全然関係ないけど、大通くんがココちゃんの感想をぶった斬ったり、宇野さんが先生のことを批判している言葉は、凄く清々しかったです」


 心臓がドンッ、ドンッ、と脈打つ。胸の内側から拳を打ち付けられているみたいで、痛いほどだ。

 でもこれは、今まで死んでいた私の心臓が動き出した証拠。


「貴様、今、何と言った?」


 先生の言葉。私は無視して答えを続けた。


「私は、大通くんや宇野さんみたいに孤立してまで自分を貫きたいとは思えません。でも、全員一致じゃないからと言って、大通くんたちみたいな『違う人』を排除する教室のやり方に賛成したいとも思えません」

「やめないか! 先生が作ったクラスを否定するんじゃない!」

「どうしてこんな息苦しい教室なんだろう。どうしてもっと良い方向に変わらないんだろうって思ってたけど、そんなの当たり前でした。そう思ってる私が、黙ってたんですから」

「やめろ! 思想矯正するぞ!」

「そうやって、力ずくで誰かを変えようなんていうのが一番おこがましいんです。誰とでも分かり合える訳じゃないんです。他人が勝手に変わる訳ないんです。何かを変えようと思ったら、まず変わらなくちゃいけないのは自分だったんです」


 だから――。


「だから私は、もう黙りません。もう、死んでいたくないから」

「黙れ!」


 その時、先生は右腕を振りかぶり、教典を私めがけて振り下ろした。「江藤さん――」と、大通くんの声が聞こえた気がした。


 ――ああ、思想矯正って、どうなるんだろう。


 私が私でいられなくなるんだろうか。

 今、やっと決心した私の心も、また教室に従順な正解へと変えられてしまうのだろうか。

 もっと早く、気付ければ良かったな――。


「ややや、黙るのは勿体ない」


 聞こえたのは、あの、飄々とした声。

 その瞬間だった。

 段ボール箱から姿を消したキツネが、私の目の前に飛び込んでいる。そして、頭上にあった先生の手を、黄色い尻尾で弾き飛ばした。


「ぐわっ!」


 先生の手から教典が落ちる。同時に、私もその左手から解き放たれた。


「チャンスだ!」


 大通くんが、『新見南吉童話集』をその手に構える。光り出す本。


「ちぃっ!」


 先生は慌てて教典を拾おうとした。だが――。


「こんなものっ!」


 それより先に、私が教典を手に取り、明後日の方向へと放り投げた。


「貴様っ! 国語の学習指導要領をっ! 文科省様の教えをっ!」


 先生の憎々し気な叫び。しかし私たちは、意に介さない。


 ――何が「学習指導要領」だ。何が「生きる力」だ。


 私たちの考えを叩き潰してきた国語。個性を叩き潰してきた国語。正解という名の金槌で、私たち不正解を叩き潰してきた国語。私を生きる死体にしてきた国語。

 私と大通くん、宇野さん、誰ともなく叫び返す。


「そんな国語、叩き潰してやる!」


 三人の声が重なった。そして――。

 大通くんの手の中の文庫本から出た光が、先生を一気に貫く。


「うわ――うわああああ!」


 青い光を一身に浴びた先生の叫びが、地下を満たす。そして、その数秒後、先生の姿は綺麗に消えていた。


「先生……?」


 私は地面を見渡した。すると、さっきまで先生がいた場所に、破れた二枚の紙が落ちているのが見えた。

 小学校教諭一種免許状――と書かれた紙だ。元はA4サイズの一枚だったのだろうが、真ん中あたりからビリビリに裂けている。


「江藤さん! 大丈夫!?」


 大通くんと宇野さんが駆け寄ってきた。私にも、そして二人にもケガはないことが分かり、みんなでフウッと安堵の息を吐いた。


「語部は?」と大通くん。


「分かんない。でもこれ……」


 私は二枚に破れた免許状を見せる。そこには確かに、語部先生の氏名が書かれていた。


「どういうことだ?」


 大通くんはキツネに問い掛けた。


「さてね。ボクもこんなことは初めてだからね。まあ、死んじゃいないだろうさ。ただ単に、『国語』が『小説』に負けたっていうことなんだろうね」


 キツネはよく分からないことを言った。さすがの大通くんも、今回ばかりはキツネの言葉の真意を察してはいないらしく、首を傾げている。


「あの、あなた、どうして助けてくれたの?」


 私はキツネに聞いた。


「ややや、助けた? どういうことだい、コンコン」

「先生の手から教典を落としてくれたでしょ?」

「何も君を助けた訳じゃない。ボクは単に新しいものが見たかっただけさ。変化を知りたかっただけさね、コンコン」

「変化?」

「教科書に来てずいぶん経つけどね。そう言えばボクも、昔は『国語』じゃなくて『小説』だったなと、そう思い出したのさ」

「私の質問とそれと、どういう関係があるの?」

「君がサボらない読者に変わろうとしていたからね。そんな新しい読者がこの先、ボクや小説を、そして周りの世界をどう解釈していくか――黙らせてしまうのは勿体ない」


 それは、少しは私に期待してくれたということなのだろうか。そんな新たな疑問を感じていると、やや離れた方角から、何か重たいものがゴゴゴと動く音がした。


「上からだったな……。あっ、もしかして――」


 大通くんが気付いたのと、キツネが割り込んだのがほぼ同時だった。


「出入口がひらいたね、コンコン」

「出入口? ってことは、私たち、ようやく帰れるの?」


 そう分かると、私の体にどっと疲れがのしかかってきた。思わず尻もちをついてしまいそうになる。

 そうして、私と大通くんと宇野さんの三人、地上に向けて歩き出す――が。


「あなたも来る?」


 私は振り向いて、その場から動かないキツネに尋ねた。


「ややや、どうしてそんなことを聞くんだい」

「自分が『小説』だった頃を思い出した、って言ってたから」

「んん?」

「いつまでも教科書の中にいる必要は無いんじゃない? 決められた正解しか無い世界に居続けること、無いんじゃない?」


 私がそう言うと、お喋りなキツネの言葉が、ずいぶん長く止まった。


「……や、遠慮しとくよ」

「何で?」


 キツネは後ろをチラリと見た。その視線の先には、二つの影。

 大グモと、高史くんだった。けれど、二人とも、もうこちらに敵意は無いようで、黙って動かず、キツネを見ていた。


「ボクも彼らも、一応プライドができちまったんだね。自分は長年『国語』としてやってきた、っていう安いプライドがね」

「でもあなた、国語や教育には興味ないって――」

「君たちみたいな児童がいれば、ボクもこのままここに居られる。『教科書は絶対じゃない、教科書が示す以外の正解がある』って、君たちが叫んでくれれば」


 キツネはくるりと身を翻し、私たちとは逆方向に――クモたちのいる方へと歩みを進める。そして、振り返りながら――、


「ボクらを、そしてこの世の中を、誰よりも面白く読み解いてくれ。新鮮な解釈をいっぱいしてくれ。古い正解なんて叩き潰してくれ。期待してるよ、読者さん」


 そう言い残すと、すぐにキツネたちの姿は消えてしまった。


「さ、俺たちも行こう」


 大通くんの言葉。


「でも……」


 私はキツネたちが気がかりで、すぐには頷けない。そんな私に、大通くんは言う。


「キツネたちの正解を、俺たちが勝手に決めたらダメだろ」

「え?」

「あいつらはあいつらで、教科書としてのプライドがあるって言ってた。ここに残るべきか出ていくべきか、あいつらの正解は、あいつらにしか分からないよ」


 ああ、そうか。

 それが、分かり合えない人を尊重するってことなんだ。私の正解は私が決めるし、キツネの正解はキツネが決める。

 誰とでも分かり合える訳じゃない。私はさっき、それが分かったはず。


「そうだね。行こっか」


 今度は私の言葉。そして私たち三人、顔を見合わせて頷いた。

 出入り口から漏れる地上の光は、文庫本の光によく似ていた。

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