三章 小説を味わおう(前)
「どこが出口なのか全然分からないな」
迷路のような狭い道。いくつもの分かれ道を過ぎて、大通くんが呟いた。
「あ、やっぱり分かってなかったんだ……」
「え、何が?」
「だって大通くん、先頭切って歩くから、何か自信あるのかと思って」
「ただ単に止まりたくないだけだよ。追われてるかもしれないんだから」
「それはそうだけど……」
「あ、でも、何かアイデアあるなら言ってほしい。俺だけの考えで突っ走ると、そのうち失敗するだろうから」
「……へえ」
「なに、へえ――って」
「意外……。大通くんはいつも自分に自信がありそうだったから。今日の国語でも――」
「俺はただ俺の思ってることを言ってるだけ。正しいか間違ってるかの自信は無い」
「でもそんな風に見えない。何でみんなが違うことを考えてる中で、あんな風にものが言えるの?」
「あんな風?」
「みんなの反感を買うような……正反対の意見」
「その方が、物事の正しさを測れるから」
「正しさを測る?」
私が問うと、大通くんは歩く速度を緩めずに語りを続けた。
「サンヘドリンって知ってる?」
「なにそれ」
「今から二千年くらい前、ユダヤって地域にあった、裁判所とか議会みたいなものだよ。要するに偉い人が集まって物事を決める場所」
「うん」
「そこではさ、全員一致は無効なんだ」
「え? どういうこと?」
「そのままの意味だよ。たとえば学芸会の劇で白雪姫をやりましょう、ってなった時に、クラスのみんなが賛成だったとする。その時、サンヘドリン式の解釈なら、その結果は無効になるんだよ」
「なんで? 全員一致なんでしょ? 反対が無いんでしょ?」
「そう、反対が無い、それが一番まずいことなんだ」
大通くんは何を言っているんだろう。
頭がこんがらがる。でも、今日の国語の時間みたいに、私の胸は何故か高鳴っていた。
「人間は絶対に間違える、っていうのが、この考え方の前提にあるんだよ。人間は完璧じゃない、不完全だ、だから必ず間違えている」
「うん」
「そうすると、だ。みんなが一つの意見に賛成しているって状態は危険なんだよ。みんながみんな、間違っているかもしれないってことなんだから」
「なんか屁理屈っぽい」
「でもさ、その中に一人、反対意見があったらどう?」
「どうって?」
「賛成意見と反対意見を比べることができるだろ? 違う意見と比較すれば、自分たちが選ぼうとしている意見が、まだマシだってことが分かる。『比較的』正しいってことが分かる」
それを把握するために、反対意見は必要なんだ。大通くんはそう言った。
「白雪姫の他に、シンデレラっていう選択肢もあるぞ、っていう?」
「そうそう。それで比べたときに、白雪姫の方がモブじゃない登場人物が多いから、クラスのみんなが活躍しやすいぞ、とかさ。それで白雪姫の方が少しはマシだって分かる」
なるほど。まあ一理くらいはあるかもしれない。
「サンヘドリン式の解釈では、『全員一致』は興奮か偏見、もしくは外部からの圧力以外にはありえない、ってことになってる」
「それも極端すぎない?」
「俺もそう思う。でも、みんながみんな同じ考えって気持ち悪くない? 国語でもさ、遠足に行って楽しかったです、また行きたいです――って、みんな似たような作文書いてさ」
俺は違った、と大通くんは吐き捨てるように言う。
「車で行けば早いのに、って俺はずっと思ってた。みんなで歩いてる最中、ずっと思ってたよ。毎週体育の授業があるのに、なんでわざわざここで無理して歩かなくちゃいけないんだって。時間の無駄じゃないかって。ちっとも楽しくないなって」
「それ、作文に書いたの?」
「四年生の頃、前の学校でね。そしたら書き直させられたんだ。『もっと楽しかったことあるでしょう? それを書きなさい』って先生に言われて――バカみたいだ」
感想に「正解」がある。それはどこの学校でも一緒らしい。
思ったことを書きましょう、考えたことを書きましょう、自分の言葉で書きましょう。
素直な気持ちを何でも書けばいいんだよ、と先生は言うけれど。
素直で正直な気持ちなんて書ける訳ない。先生に私の頭の中を覗かれたくなんてない。何より、本当に素直で正直なことを書いたら、先生はどんな顔をするだろうか。
去年の運動会で、紅組のココちゃんがリレーで走っていた時、転んだ白組のランナーを待って、観客から拍手喝采を貰っていたけれど。
あんなの、勝負を馬鹿にしている。選手宣誓で「スポーツマンシップにのっとり」なんて言っていたのに、あれはスポーツマンシップに思いっきり反した行動のはずだ。あの行動にあるのは、相手に対する尊敬ではなく、哀れみと同情でしかない。自分があの転んだアンカーだったら、どんなに惨めだっただろう。
そんなことを作文に書いて、本当にいいの? 先生はそんな素直な私の感想を、どう受け止めるの? それをクラスで音読させられた私は、その後の学校生活をまともに送ることができるの?
「そういう担任が率いてる教室だから、当然、そこにいるみんなも、作文にどことなく正解があるって分かる。全員一致で『楽しかったです』『またやりたいです』――教室の圧力だよ」
大通くんの話が続く。
教室の圧力――その言葉に、私の胸が貫かれる。
大通くんはさっき、全員一致は外部からの圧力のせいだ、と言っていた。
教室の圧力、グループの圧力――私はココちゃんの顔を思い出していた。
私はいつもココちゃんの意向に沿った言葉を使う。ココちゃんの機嫌を損ねないような文章を頭の中で練って、一言一句間違わないよう唇を動かす。
教室の中で、学校からの帰り道で、休日の街中で――。
私は正解を探している。
毎日毎日、自分がのけ者にならないための正解を。
対して大通くんは、そんな正解は探していないのだろう。むしろ、不正解を求めている。
みんなと違うものは何か。みんなが見落としているものは何か。
それがたとえ、みんなから反感を買うようなものであっても――。
そんな彼の行動は、自己中心的にも思える。でも、私のお腹の奥底で、満たされない空腹のような何かが、大通くんのような言動を欲しがっているのも確かだった。グルグルと、腹痛なのか空腹なのか分からない重低音が私の体の中で響いている。
「そういうことがあったからさ、それ以来、よく図書室に行くようになったんだ」
大通くんは言う。
「悔しかったんだ。俺は絶対間違ってないって思ったから。だから、クラスの人間にも、先生にも、誰にも負けないくらい色んなことを調べて、知って、考えてやろうと思った。作文で教師の感想を押し付けることが、どんなに時代遅れであほくさいことかっていうのを、また作文で書いてやろうと思った」
変人だ。間違いなく、大通くんは変人だ。
普通は諦める。これが学校の作法なんだなって理解する。納得した振りをする。
でも大通くんは違うんだろう。常に世の中を疑って掛かっている。たとえみんなが選んだ「正解」であっても、違うことは違うと言ってしまう。
この前、社会体験でやった稚魚の放流でも、大通くんは「これで本当に魚が増えているのか」と言って、皆からひんしゅくを買っていた。みんなが「お魚増えるよ。良かったね。良いことしたね」とまとめようとしている中で、「全部そこのカモメに食べられてるじゃないか」と言う人間。それが本当に正しいのか問い掛ける人間。
「国語の授業の、そういう納得いかない気持ち。江藤さんなら、分かるんじゃない?」
大通くんが私に尋ねてきた。
「どうして?」
「雰囲気かな。満島さんとかといる時も、江藤さんはどこか一歩引いてる感じがあるから」
「うそ」
心臓の端っこをキュッと摘ままれたような気持ちになった。大通くんの観察力に驚いたというよりかは――もしもそんな私の態度がココちゃんにも気付かれてしまっているならマズイ、という気分。
「あ、気に障ったなら謝るよ。あくまで俺がそう見えたっていうだけで、何も根拠無いし」
大通くんは、私が怒ったと思ったらしい。
「でも、だから今日、江藤さんに質問したっていうのもあるんだ」
「え?」
「『ごん狐』のさ。『ごんが栗を持って来た』って言われて、江藤さんは信じるか――って、俺聞いただろ? クラスの他の人たちは怪しかったけど、江藤さんは俺と似たような読み解き方をしてくれるんじゃないかなって思ってさ。……急に質問して悪かったね」
「別に……」
私はそれだけしか答えられなかった。帰り道でのみーちゃんやココちゃんからの裁判を思い出すと、素直に「いいよ」とは言えなかった。
私の「別に」の言葉の後に何か続くと思ったのか、はたまた話題が無くなったのか、大通くんは何も喋らなかった。そうして、数十秒の沈黙が訪れたその時、前を歩く大通くんの足が止まった。
「どうしたの?」
「何かいる……気がする」
大通くんは静かに答えた。
「何か?」
「聞こえたんだ。ペタペタって、やけに軽い音」
暗闇に目が慣れてきたけれど、所詮は慣れたというだけだ。数メートル先がはっきり見えるほどの光は無い。ただ壁に手を当てながら進む今の私たちには、目よりも耳の方が頼りになるのかもしれない。
私たちはしゃがんで息を殺した。得体のしれない何かをやり過ごすために。
けれど――。
私にも聞こえた。ペタペタ、ヒタヒタ――裸足の子供が走るような音。でも、もっと軽やかで無邪気。
そしてそれは、どんどん近付いてくる。
「ややや、お客さんだね、コンコン」
やけに眠たそうなのっぺりした声。それは、しゃがんだ私の足元から聞こえた。同時に、私の足首をフワフワモフモフとした感触がすり抜ける。
「ぎゃっ」
「うわっ、どうした江藤さん」
「い、いまっ、足に……!」
「ややや、驚かせてしまったね、コンコン」
またさっきの声。今度は、大通くんの前から聞こえた。
空中に浮かぶ青白い炎。辺りをユラユラと照らしたそれは、声の正体を明らかにした。
「キツネ?」
私と大通くんの声が重なった。私たち目の前に座っていたのは、一匹のキツネだ。
「ややや、ようやくボクのことが見えたみたいだね。ヒトの目ってのは不便だ、コンコン」
「喋ってる……キツネ……」
思わず呟いた。信じられない光景だったけれど、すでにこの数十分の出来事からしてすでに信じられないことの連続だったので、私は悲鳴を上げたり、頬をつねって夢を確かめてみたりするようなことはしなかった。
「ややや、キツネが喋ると奇妙かい? でもボクは、人の言葉が分かるキツネなんだよ、コンコン」
「……お前も教科書の一味か?」
大通くんは眉をひそめて言った。呆気に取られている私と違い、大通くんはすでに警戒態勢に入っているらしい。
「ややや、そうかと聞かれればそうだと言えるし、そうでもないとも言えるな」
「どういう意味だ?」
「確かにボクは教科書の中の存在だ。じゃなければ、喋るキツネなんておかしいからね。けれど『教科書の一味』という言い方にはちょっと引っかかる」
「なに?」
「一味、というのは仲間、とかそういう意味だろう? キミはボクが、一体誰の仲間だと思っているのかな?」
「この地下にいる奴らだよ。語部とか、高史とかいう、頭のおかしい奴らだ」
「ややや、コンコン。やっぱりそうか、でもねキミぃ、ボクは誰かの味方だったり、誰かの敵だったりすることはないんだよ。何せキツネだからね、コンコン」
「はあ?」
「みんながみんな、国語だ教育だ、ってことに関心がある訳じゃない。ボクはたまたま教科書の小説、なんてものに選ばれたけど、ボクが頼み込んだ訳でもないしね」
キツネはお腹を見せて、ペロン、と仰向けに倒れこんだ。尻尾をフリフリと振って、無邪気さを見せている。
「どう思う、江藤さん」
「えっ……、悪い感じはしないから、信じてもいいんじゃないかな?」
大通くんの問いに答える。すると、キツネはさらに尻尾を振って声を上げた。
「ややや、話の分かるお嬢さん。そうだね、やっぱり命あるもの、誰かを信じるってことを忘れちゃあいけない。きっと教科書とやらも、そう教えるんだろう?」
一言余計なキツネだったが、その分、どこか憎めない。
「あなたの名前って、ごん?」
「ややや、そんな名前を知ってるなんて、いやはやお嬢さん、ツウだね? 何を隠そう、確かにこのボクこそが、かの有名なごん狐、コンコン」
やはりそうだ。教科書に載っているキツネと言えば、私にはごん狐のイメージが強い。
「時にお嬢さん、キミはどうしてこんなところをプラプラ歩いているんだい」
「私たち、外に出たいんだけど」
「外? っていうのは、上のことかい?」
「上っていうか、まあ地上?」
「なるほどなるほど、それくらいなら案内しても差し支えない。ボクについてくるかい?」
「出口が分かるの?」
「そりゃあまあ、キミたちよりかはね」
どうしよう、と私は大通くんを見る。もっとも、どうしようも何も、私たちにはこのキツネくらいしか、今頼れるものはない。
「分かった、頼むよ」
大通くんが頷きながら言う。どうやら大通くんも私と同じ結論に達したようだ。
「ややや、それじゃあどうぞこちらへ、コンコン」
キツネは嬉しそうにぴょんと飛び跳ねると、そのまま私たちの先頭を切って歩き出す。
「ねえ、さっきから浮いてるその火の玉って何?」
「これは狐火ってやつだね」
「キツネビ?」
「ボクみたいなのが使う灯りさ。キミたちが使う電灯みたいなものだね」
「どういう仕組み?」
「仕組みなんて分かるものかね。キミは自分たちが使ってる電灯とやらの仕組みを知ってるのかい?」
何だか煙に巻かれているような受け答えだ。それでも、私は電灯の仕組みなんて分かるはずもないから何も言い返さない。
「さっきからコンコンコンコン言ってるそれは何だ?」
今度は大通くんが尋ねた。
「これはオノマトペってやつだね。別にボクも言いたかないけど、国語教育には必要らしいからね。ここにいるうち、いつの間にか口癖になっちまったよね、コンコン」
「オノマトペ?」と私。
「擬音語とか擬態語とかいうやつだね。鳴き声を文字に仕立て上げたものだ。本当に『コンコン』なんてバカみたいな鳴き方をする狐はいないけど、まあコンコン、といえばボクらの鳴き声ってことになってるから、ボクもコンコン言ってやってる。いやはや滑稽だ」
「あなた、いつからここにいるの?」
「ややや、いつから? いつからだったかな。いつの間にか教科書の中にいて、いつの間にかここで暮らしていたっけ」
「ずっとここに閉じ込められてるの?」
「閉じ込められてる? 物騒だなあ。別に悪いところじゃないさ」
「うそ」
「本当さ。ボクら物語の中の存在ってのは、読まれてこそ存在できるからね」
「どういうこと?」
「読まれない物語は存在していないのと同じってことさ。教科書の中にいれば、毎年、毎日、どこかの誰かがボクらを読んでいる。そうしてボクらは、昔から今まで、人々の記憶に残っていった。逆に誰からも読まれなくなったらそれは、死んでるのとおんなじだね」
「それは極端じゃない?」
「極端なんかじゃないさ。人々に読まれるために生まれたのに、誰からも読まれなくなったらそれは、死んでるってことじゃないかな」
分かるような分からないような話だった。
「あれ? そもそもごん狐って、最後に銃で撃たれるよな? どうしてお前は今こうしてピンピンしてるんだ?」
大通くんが首を傾げた。言われてみればそうだ。
「物語の中で生きようが死のうが、今ここにいるボクとは何の関係もないね。ボクらは誰かに読まれる度に、物語中で何度も生きたり死んだりする。生死はボクらにとっては始点と終点じゃなく、日常行事の通過点さ」
「なるほど……」
大通くんはアゴに手を当てて頷いているが、何がどう『なるほど』だったのか、私にはよく分からない。まあいい。今ここでキツネが歩いて喋っているということだけが、今私にとって重要なことだ。この子についていけば無事地上に出られる。それだけでいい。
――そのはずなんだけど。
「あなたは悲しくないの?」
私は、どうしても気になってしまう。
「ややや、何がかな? コンコン」
「最後に、兵十に撃たれちゃうこと」
「ははあ、なるほど、実に国語教育的な問いだねえ、コンコン」
キツネはケケケと笑う。
「ボクにとって、それは嬉しいことでも悲しいことでも何でもない。そんなことはボクの存在にとって何の関係もない」
「え?」
「それは物語の中で明らかにされていないことだろう? そこを解釈するのが読者の役目じゃあないか。キミらの仕事をボクに回さないでくれ。労働基準監督署が飛んでくるぞ」
「でも、あなただって感情はあるでしょ?」
「キミがあの物語を読んでそう思ったんならそうなんだろうさ。ボクがどう感じたかっていうのは、あくまでキミたち読者の解釈でしかないんだな」
私は授業での大通くんの言葉を思い出す。確か彼も似たようなことを言っていた。
「キミらには目と心と口があるじゃないか。読んで解釈して伝えるためのさ。それをサボってしまうのは、読者として死んでいるも同然なんじゃないかな」
「別にサボってる訳じゃないけど」
「ややや、そうかい、失敬失敬。まあ、あれだ。ボクは読まれるために存在してるし、キミらは読むために存在している。ただそれだけの話ってことだね」
そうして、キツネが話をまとめた直後だった。
「さあさ、もうすぐ地上だね、コンコン」
足元を見れば、散乱した段ボール。適当に投げ入れられたような原稿用紙の束。赤字で添えられる「要指導」の文字。見覚えがある光景。
地下に入ってきてすぐ、こんな不気味なものを見た気がする。
入口に戻ってきた――?
私が一抹の不安を覚えたその時だった。
「下校時間は過ぎているぞ」
張りつめた声。聞き覚えのある声。私たちの目の前に立ちはだかる声。
語部先生だった。
「オオドオリに……江藤……? 我がクラスから素行不良の児童が二人も? 学級崩壊の前兆? 義務教育の破綻? 道徳の限界? なんという、なんという……!」
語部先生は目を血走らせ、ワナワナと震えていた。
「おい! 何で語部がいるんだ! 騙したな!?」
大通くんがキツネをにらみつける。
「ややや、騙した? 人聞きの悪い。ボクは地上に案内すると言っただけだろうに。その先に誰がいようが、知ったこっちゃない。何せキツネだからね」
「ふざけんな!」
「ややや、案内してもらってお礼の一つも言えないのかい。こりゃあ道徳教育も地に落ちけりってやつだね。くわばらくわばら」
「……あなたも、先生たちの味方だったの?」
今にも震えそうな自分の脚をさすりながら、私は問う。
「さっきも言ったけど、ボクは教育だ何だに興味は無いよ。誰の味方でも敵でもない。ボクは読まれるために存在する。それだけの話だね」
直後、どこからかシュシュシュッ、と切れ味鋭い音が響いた。
「ちょっ――なにこれ!?」
この一瞬の間で、私の体が白い縄でグルグル巻きにされていた。見れば、大通くんも私と同じように拘束されている。
やけに粘つくこの感触――地下に来てすぐ、大通くんの腕を縛っていたのもこれだったと思い出す。
「それはクモの糸だ」と語部先生。
「クモの糸?」
「罪人を救おうとしたお釈迦様の慈悲の心――しかし、君たちがその心から道徳を忘れ去ってしまった時、この糸から救いは消える。きっと地獄へと誘う糸となろう」
語部先生は天に向かって言葉を発していた。
私もその視線の先を見ると、天井に、大人二人分ほどの大きさはある巨大なクモが張り付いていた。その大グモは、物言わず私たちをジッと見つめている。
「芥川龍之介か……」
大通くんが呟く。そう言えば、芥川龍之介の小説に「蜘蛛の糸」という話があった気がする。いつだったか先生が、「中学の教科書に載っている」と雑談をしていた。
「オオドオリ! 江藤! 怖いだろうが安心してほしい。先生は自分のクラスから落ちこぼれを出すようなことはしない。君たちがお釈迦様から見捨てられようとも、先生は君たちを更生させてみせる。よりよい人間へと導いてみせる」
先生は一体何を言っているのだろう。唯一私に分かるのは、自分が今どうしようもなくピンチであるということだけだ。
「俺たちをどうする気だ」
大通くんが語部先生を睨む。
「オオドオリ、先生には敬語だぞ」
「お前なんか教師でも何でもないだろ」
「ああ、口が減らない。心に闇を抱えてしまったんだね。現代の病理。子供は悪くないのです、悪いのは彼らを取り巻く社会なのです。カウンセリングが先か、道徳教育が先か」
「何がカウンセリングだ。こんな体罰じみたことしやがって」
「体罰などしない。体罰は絶対悪。学校教育法にも禁止されているおぞましき手段」
「じゃあこの縄は何だ!」
大通くんが追及すると、語部先生は急に感情を失ったかのような声で、まるで録音していたかのように語り出した。
「興奮状態にある児童を一時的に拘束することで、冷静さを獲得させます。そのうえで教員と話し合い、心の発育を促すのです。我が校において、不適切な指導はありませんでした。市及び県教育委員会においても、教育の一環としての指導法には柔軟な対応を――」
つらつらと続いていく事務的な言葉。不祥事を起こした学校の先生が、記者会見で話しているかのようだ。
「狂ってる……」
私と大通くんの声がダブる。
そして――。
「では、カウンセリングを始めよう。まずは過去との対話から」
先生の優しくも気味の悪い声。
直後、私の体を青白い電流のような光が駆け巡った。