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一章 感想を発表しよう(前)

 私が「ごん狐」を読んだのは二年前――小学四年生の国語の授業だった。


 お城とか、お殿様とかいう単語があったから、多分江戸時代くらいのお話だったと思う。

 一人ぼっちで暮らしていた小狐のごんは、日頃から人にいたずらばかりしていた。そんなある日、兵十ひょうじゅうという男が川で魚を獲っていたところに、ごんはいたずらをして、その魚を全て逃がしてしまう。


 それから十日くらいして、ごんは兵十のお母さんのお葬式があることを知った。そこで「兵十のおっかあは、床についていて、うなぎが食べたいと言ったにちがいない」とか「わしがいたずらをして、うなぎをとって来てしまった。だから兵十は、おっ母にうなぎを食べさせることができなかった。そのままおっ母は、死んじゃったにちがいない」などと考え、「あんないたずらをしなけりゃよかった」と後悔していた。


 ごんは、近くにいた鰯売りから鰯を盗んで、その鰯を兵十の家へと放り込んだ。自分と同じく一人ぼっちになった兵十への償いとして、「まず一つ、いいことをした」と思った。

 けれどそのせいで、兵十が鰯売りから盗っ人扱いされて殴られてしまう。ごんはしまったと思い、今度は家の物置の入り口に、そっと栗を置いていった。次の日も、その次の日も栗を置き、さらにその次の日には松茸も置いていった。


 兵十は、それがごんの仕業とは知らない。不思議なことがあるものだと百姓の加助かすけに相談すると、加助は「神さまのしわざ」だと言った。それを聞いていたごんは「おれにはお礼をいわないで、神さまにお礼をいうんじゃア、おれは、引き合わないなあ」と不満に思ったけれど、それでもあくる日、栗を持って兵十の家へと足を運んでいた。


 ごんは家の裏口からこっそり中へと入った。だけどその時、兵十は物置からごんの姿を見てしまった。「こないだうなぎをぬすみやがったあのごん狐めが、またいたずらをしに来たな」と、兵十は火縄銃を手に取り、家から出てこようとしたごんを撃った。

 倒れたごんのもとに兵十が駆け寄ると、土間に置いてある栗が目に入った。そこで兵十は「ごん、おいだったのか。いつも栗をくれたのは」と驚きを口にする。ぐったりと目を瞑ったまま頷くごんに対して兵十は、持っていた火縄銃を落とすのだった。



 ――後味の良くないお話だ。四年生の時もそう思ったし、六年生になった今でもそれは変わらない。

 四年生の時の授業では、「ごんがかわいそう」とか「二人がきちんと会って話していればこうならなかった」とか、そういう感想が多かった。何もごんを殺すことは無い。それが、教室に漂っていた空気の全てだった。

 そんな国語の授業から二年が経って、また「ごん狐」なんていう小説がクラスで話に持ち上がったのは、ココちゃんの読書感想文が原因だった。


 つい二週間前に終わりを告げた春休み――私たち元五年生には読書感想文という宿題があった。本当なら、夏休みのような長い休みで出される課題だったけれど、六年生で新しく私たちの担任になるらしかった語部先生が、終業式前に強く勧めてきたのだ。


「好きな本でいいぞ。ライトノベルとかでもいいから」


 まだ三十歳前で比較的若い語部かたりべ先生の言葉に、クラスのみんなはホッとしていた。


「新学期になったら、みんなの感想文を印刷する。みんなで読み合って、誰のが良かったか投票してグランプリを決めよう」


 だから真面目に書いてくれよ――と、先生は念を押していた。

 そして新学期になって、先生の言うとおり投票が行われて、いちばん票を集めたのが満島みつしまこころ――通称ココちゃんだった。


 ココちゃんはクラスの女子の中では、いちばん強いグループにいる。

 強いって言い方は少し変だろうか。何というか、ココちゃんが喋れば、みんないつの間にか耳を傾けて静かになる。かと言って、いつも前に出てズイズイ来るタイプではない。みんなで何か話し合う時も、要所で言葉少なに発言するだけ。


 たとえば、去年の学芸会の劇を決める時だ。


「誰も知らないお話より、みんなが知ってるものの方が、観てる人にも分かり易いと思う」

「たとえば白雪姫とかでもいいかな」

「全部の配役、男女逆にするだけでも面白くなるんじゃない?」

「ところどころにダンスとか入れれば、派手になるし見せ場にもなるよね」


 ココちゃんが喋った意見は、四十五分間でこの四つだけだった。

 だけど最終的には、この意見が全部採用された。ココちゃんは七人の小人の一人として役に加わり、白雪姫の死に小人が驚くシーンで、数年前からスクールで習っている得意のダンスを目一杯披露していた。


 つまり、策略家なのだ。

 白雪姫や、魔女や、鏡や王子――そんな目立った役じゃなくて、他に何人もいる小人のうちの一人。目立ちたがりだ何だと陰口を叩かれることは無い。

 得意のダンスにしても、そもそも体育の授業として年に何時間かダンスがあるから、建前としては「自分だけじゃなくてクラスの全生徒が当然できること」なのだ。

 出る杭は打たれるという言葉がある。でもココちゃんは絶対に出る杭にはならない。けれど実質的にクラスの空気を支配しているのは他ならないココちゃんだ。


 私なんかよりも目が大きくて、輪郭がシュッとしてて、髪がツヤツヤで、去年くらいから少しずつ大人びた体型になってきているココちゃん。もちろん笑顔も可愛い。けれどココちゃんの瞳には、見ている物の奥底を観察するような――実験動物を見る科学者みたいな冷たさがあり、私は時々寒気を感じていた。


 そんなココちゃんが読書感想文の題材に選んだのが「ごん狐」だ。

 とても上手だった。

 文章が、という意味じゃない。本の選び方が、という意味だ。

 先生はライトノベルでもいいと言っていたけれど、実際にそれを選んでくる人はほとんどいなかった。みんな、学校の図書室にある、何となく「良い話」が書いてありそうな、なるべく薄い本を選んで、当たり障りのない感想を書いていた。


 もっとも、日頃から作文や感想文が苦手な子もそれなりにいて、そういう人たちが書いてきた感想文は、その大半をあらすじが占めていて、感想などほとんど無かった。しかもそのあらすじにしろ、どういう話だったのかきちんと分かるものは数えるほどしか無い。


 一方で、馬鹿正直に自分の好きな小説(でもクラスのみんなにはほとんど知名度の無いもの)を上下巻、二冊まるまる読んで真面目に感想を書いてきた人もいた。丁寧なあらすじを付け、本を読んで自分がどう思ったのかを書き綴っていた。


 それでも、ココちゃんの読書感想文には敵わない。

 何故なら、みんな「ごん狐」を読んだことがあるからだ。

 なにせ、授業で一度やったのだ。みんな、「ごん狐」という物語を知っている。それは何より強い。


 たとえば、学校の行き帰りや給食の時間で友達と話す時、会話が弾むのは「互いに知っていること」だ。昨日見たテレビ、新しく発売したマンガ、ファッション雑誌に載っていた服のコーデ……とにかく、お互いがすでに目を通していれば何でもいい。


「昨日のアレ見た?」「見た~、マジ凄かったよね?」

「でもアレってソレじゃなくて実はコレだったんだって!」

「うっそ、マジ? 超ヤバイんだけど!」


 具体的なことは何も言ってないけれど、大体こんな感じになる。お互いが知っていることなら、会話が始まって二秒でテンションが上がる。

 つまり、そういうことだ。みんなの共感を得るなら、みんなが知っているものを持ち出すのが一番強い。たとえ単に「ヤバかった」という一言を聞くにしても、それがすでに自分の見知っているものなら「どこがヤバかったと思った?」くらいの興味は湧く。


 そういう意味で、ココちゃんは上手くて、そして、強かったのだ。本人は「新しく本を読む時間が無かったんだー」なんて笑っていたけれど、そこに計算が無かったとは思えない――というのは、さすがに私、性格悪過ぎるだろうか。

 まあ私の性格は置いといて、とにかく、クラスのグランプリに輝いた感想文はココちゃんのものだった。そして――、


「もう一度、『ごん狐』を読み直してみようか」


 語部先生がそう言ったのは、つい先週のことだ。


「みんなも二年前より本を読む力が付いてきてるんじゃないかな? 四年生の時に読んだお話を、今度は六年生の国語の授業として、もう少し丁寧に読んでみよう」


 誰も反対はしなかった。というより、別に国語の授業で何をしようが、誰も何も興味が無いといった感じだった。

 私はと言えば、始業式に六年生用の教科書を手に入れ、それから二週間ですでに国語の教科書の中の小説は全て読み終えていた。教科書の表紙には「新しい国語」などというタイトルが付けられていたが、すでに私の中では新しくも何でもなくなっていたのだ。

 なので、私も別に授業で何をしようがどうでもよかった。物語が読めればそれだけで幸せな私にとって、授業での解説というのは、お刺身の横の細切りの大根と似たような――あっても無くてもどうでもよいものだったのだ。


『「ごん狐」の作者の新美南吉は、生まれた頃から母親が病気がちで、南吉が四歳の頃に彼女はとうとう亡くなってしまいます。八歳の時には、亡くなった母親の祖母のもとに養子に出され、寂しい時期を過ごすことになりました。この子供の頃の寂しさが、「ごん狐」に出てくるごんの「ひとりぼっち」という境遇に重ねられているのだと思いました。ごんはきっと、兵十と友達になりたかったのだと思います』


 これは、ココちゃんが書いた感想文の一節だ。

 そして春休みが明け、六年生に進級して二週間ほどが経った今日、これをもとにして語部先生は国語の授業を始めた。


「作者の存在を絡めるっていうのは面白い読み方だ。満島さんはごんと作者を重ねて――つまり、ごんが作者の分身であるかのように思った。そうだね?」


 語部先生の問い掛けに対し、私の前の席に座るココちゃんが小さく頷く。


「満島さんは『ごんが兵十と友達になりたかった』と読んだ。つまり、この物語は『ごんが一人ぼっちの寂しさから抜け出そうとする話だった』と――そういうことかな?」

「そうです。でも、ごんは撃たれて死んじゃったから、もっと話し合いが必要だったと思います。人が分かり合って一緒に過ごしていくためには、話し合うことが必要なんだっていうのが、作者の言いたかったことなんだって思いました」

「あ、今の聞いて思ったんですけど」


 ココちゃんの隣から声がした。川崎美里(みさと)――みーちゃん。クラスの席だけでなく、登下校も休み時間も、常にココちゃんの隣にいるみーちゃん。普段の会話でも授業でも、ココちゃんの言葉を補強する。だから今日も――、


「兵十が最後、ごんが持ってきた栗に気付きますけど、そのおかげで、ほんの少しだけでも、ごんは救われてたと思います。自分のしてきたことが、無駄じゃなかったんだっていう風に。だから、話し合うことはもちろん大事で、その上で、たとえ話し合えなくてもお互いに思いやることはできるんだ、っていうメッセージもあると思います」

「なるほどな、最後のシーンにもきちんと作者の意図があったっていうことか」


 語部先生は顎に手を当てて笑顔を見せた。すると今度は、みーちゃんの前の席から他の男子の声が上がった。


「でもさ、作者の意図って言うなら、何もごんのこと殺さなくてもよくね? 兵十がごんの手当てして、二人で仲良く暮らしました、でもいいじゃん」


 すると、今度はまた別の女子の声。そして、教室のあちこちで意見が飛び交う。


「それだと都合良過ぎるでしょ? 最終的に話し合いの重要さを伝えるんなら、話し合えなかったから死んじゃった、ってした方がより伝わるし」

「ごんは友達が欲しかったけど、そのための手段が間違ってた?」

「寂しいからいたずらするっていうのはあったと思う。好きな相手にいたずらする奴いるだろ。田島とか」

「何でおれが出てくるんだよ」

「アンタこの前、二組の果穂かほちゃん泣かしてたでしょ」

「関係ねーし」

「あるし」

「ごんは兵十と仲良くなりたかったけど、田島みたいにひねくれたいたずらをしたんだ。で、鰻を逃がすっていういたずらが運悪く、兵十の母親の死んだタイミングと重なった」

「でも母親がうなぎ食いたがってたっていうのは、ごんの思い込みだろ。少なくとも兵十はそんなこと一度も言ってない。ごんのいたずらが母親の死に関係してたかどうかなんて分からねーよ」

「だから話し合いが重要だったんだよ。ごんが勝手に思い悩んだ結果、毎日栗を持っていくことになったんだ。ごんがもっと早く面と向かって兵十に謝っていれば、実は逃がしたうなぎは母親の死とは関係無かったんだ、っていう話もできてたかもしれない」


 ――理想的な授業、なのかもしれない。ところどころで先生が意見をまとめてはいるけど、四年生の時とは違って、教室に声が満ちている。

 でも、新鮮かと言えばそんなことは無い。何となく、正解があるのが分かるからだ。どんなことを言えばいいか。どんな見方をすれば、国語の授業という場に受け入れられるか。

 私だけじゃない。きっとみんなも分かっている。

 話し合いが大切。暴力は良くない。分かり合うことは尊い。死は儚い。平和は美しい。作者は平和を望んでいます。


 ――本当に?


 私はこの物語を読んでそう感じた? みんなはそう読めた? 火縄銃で殺された小狐は、そんな「やさしい世界」の象徴でしかないの?


江藤えとうさんは、どう思う?」


 先生が私の名字を呼んだ。

 私はどう思う?


「私は――」


 そんなの、決まっている。


「――作者はごんが死ぬっていう結末を選ぶことで、読者に対話の大切さを強く伝えようとしたんだと思います」


 流れに乗った。この授業の流れに。みんなが何となく感じている正解の波に。

 それは、一種のマナーであり、ルールであり――。小学校に入学して五年以上が過ぎ、その時間の中で私が学んだ、教室での作法だった。


「なるほど、それじゃあ大通おおみちくんにも聞いてみよう。どうかな?」


 先生が指したのは、転校してきて間もない男子――大通(あざな)だった。


 異物。

 それは、この六年一組という集合体が、彼に下していた評価だ。

 今年の春、県外からやって来たという彼は、教室の最後列の席で、今も何を考えているのかよく分からない無表情を貫いている。

 転校初日から、人との会話は必要最小限に済ませ、昼休みや放課後は毎日と言っていいくらい図書室にこもっていた。遊びに誘われても「本が読みたい」という理由で断っている姿を、何度か私も見た。そしてこの二週間で、彼に話し掛ける人もいなくなった。


 だけど大通くんは、そんな周囲の反応など全く気にしていないように見える。

 いつも落ち着き払った様子で、常に真っ直ぐ前を見据えている。体の線は細めなのに、その佇まいは、太い芯で心も体も一本ドスンと貫いているようだ。

 数少ない会話の様子にしても、物静かな口調ではあるが、ハッキリと周囲に通る声で話す。安定感のある瞳で相手を捉え、穏やかな声色で対応していた。


 それでも、この六年一組にしてみれば、結局彼は新参者だ。いつまでも誘いを断り、周囲と打ち解けようとしないその姿勢は、やはりクラスメイトからすれば面白くなかったと思う。それこそ、クラスの中で大通くんへの陰口が始まった時も、ココちゃんがツボを押さえたタイミングで「本人が関わりたくないなら別に構わなくていいんじゃない?」と、クラスぐるみでの無視を肯定する姿勢を見せていた。

 ココちゃんの言葉は建前で言えば、『みんなちがってみんないい』『多様性の尊重』という、まさしく国語の授業が見せつけてくるテーマを貫いたものだったけれど、要は異物と邪魔者の排除だ。


 だから今、先生が大通くんに問い掛けたこの瞬間、教室は不自然に静まり返った。この「異物」の一挙手一投足を見つめて、隙あらば笑ってやろうというクラスの団結だ。もちろん私はそれに逆らわない。だってこれが、教室という空間での作法なのだから。


 そして、静寂の中、大通くんは答えた。

 これまでと何ら変わらず、芯の通った声で、教室中に聞こえるようにハッキリと。


「ごんは死んで当たり前だったと思います」


 五秒間の、空白の。そして――。

 教室がざわめいた。それはきっと、誰の演技でもない。最前列の子も、前の席のココちゃんも、そして私も、みんなが一斉に振り返り、大通くんをその目に捉えようとしていた。


「俺、みんなの話を聞いててよく分からなかったところがあるんですけど、どうして『ごんと兵十が話し合える』っていうことが前提になってるんですか?」

「……どういうことかな?」


 先生が唾をごくりと飲んで尋ねた。


「ごんは人の言葉が分かるっていう前提は良いんです。実際に物語の中で、ごんは人の会話を聞いて内容を理解してるし、最後の兵十の言葉にも頷いてる訳ですから」


 でもその逆は成り立たない。大通くんはそう言った。


「人間が狐の言葉を理解する描写なんてどこにも無いんです。ごんが人の言葉を口に出して話す描写なんてどこにも無いし、兵十が狐の鳴き声を言葉として理解するシーンも無い。つまりこの物語の世界では、『ごんは人の言葉が分かるけど、人はごんの言葉が分からない』っていう前提がある」


 そもそもごんが人に伝わる言葉を話せたなら、とっくに兵十にその想いを告げているはずじゃないか。そんなようなことを大通くんは言う。


「『人と動物が話し合えない世界』っていう前提があるのに、ごんと兵十が話し合えていれば――なんていう意見はそもそもズレてると思うんです。陸上競技の100m走で、自動車に乗っていれば勝ってた、なんていう意見がズレてるのと同じことで」


 ズレてる。


 みんなが、今まで積み上げて、まとめあげて、先生が導いてきた、何となくみんなが感じ取っていた恐らくの正解を――。


 ズレてる――と。


 大通くんはそう言った。言い切った。

 とてつもなく大きくて、とてつもなく重い、得体のしれない何か。私はそれで頭を思い切り殴られたような感覚だった。同時に、胸の中を、冷たくて勢いの良い風が吹き抜けていくかのようにも感じた。


「なに言ってんだあいつ」「ズレてるって何?」「偉そうに」「意味分かんないんだけど」


 ボソボソと、周囲から呟きが漏れていた。けれどそれは、大通くんの言葉を止めるには、意志も知性も足りていない。


「だから、俺の考えっていうのはみんなと真逆で、『この世の中には、生きてるうちは互いに絶対に分かり合えないことがある』っていうのが一つのテーマだって思うんです」


 ドキドキした。国語の授業でこんなに胸が高鳴ったことなんて無い。だって大通くんの主張するそれは、希望なんてまるで無い、絶望そのものだ。

 そんな後ろ向きな答えが、この教室という空間で、解答として出てくるなんて――。


「ごんは、本当は兵十に自分の姿を見つけてほしかったんじゃないかって思うんです。だって、狐って夜行性なのに、わざわざ日の出てる時間帯に兵十の家に行って栗を置いていってる。本当に見つかりたくなかったら、夜中、兵十が寝てる時に行くと思いません?」


 教室のどこからも反論が聞こえてこない。そもそも私もみんなも、狐が夜行性かどうかなんて考えていなかったんだと思う。


「『栗は神さまのおかげだ』っていう結論で落ち着いた兵十に対して、ごんは不満に思ってた。自分がやってるんだっていうことを知ってほしかった。だからこそ、もしかしたら無意識だったのかもしれないけど、ごんはあえて見つかり易い時間を選んだ」


 ごんはよく村に出入りしてたし、だとすれば、兵十が銃を持っていることも知っていたかもしれない。いたずらばかりしていた自分が狙われる可能性があることも考えていたかもしれない。それでもごんは、昼間に栗を置いていった。

 大通くんのそんな解説を聞くうち、彼がさっき「ごんは死んで当たり前」と言った意味が少し分かったような気がした。


「ごんは人に言葉を伝えることはできない。でもどうにかして兵十に償いの気持ちを伝えたかった。けれど、ごんの姿を見た兵十が真っ先に取った行動は、ごんへの理解じゃなくて、ごんを始末することだった。『生きているうちは互いに絶対に分かり合えないことがある』――そんなテーマが、この物語を貫いているんじゃないですか」

「――でも」


 大通くんの言葉に続けて声を出した女子。ココちゃんだった。


「最後、兵十は気付いたでしょ。ごんが栗を持って来てくれたんだって。ごんは死んじゃったけど、最終的に分かり合ってる。絶対に分かり合えないことがあるとか言って、そんなの、変わったこと言いたいだけの目立ちたがりにしか聞こえないんだけど」


 ココちゃんは、目も声も冷たかった。だけど、クラスのみんなはその冷気のおかげで、自分たちが「異物」に対してどういう態度でいるべきか思い出したようだった。

 クラス男子も女子もみんな、先ほどまでの驚愕と冷や汗から抜け出して、攻撃的な視線を大通くんに向けていた。だけど――。


「俺はね、『生きてるうちは』って言ったんだよ。『死んでから分かり合えない』とは言ってない。ちゃんと聞いてた?」


 大通くんはあっけらかんと、ココちゃんに向けて言い放った。


「でも、ちょうどいいから言っておくと、俺がこの話でいちばん救いが無いなって思ったのはそこなんだ。ごんが死んだあと、きっと兵十は村人から賞賛されるだろ? 今まで村でいたずらばかりしていた狐を殺したんだからさ」


 私はもうココちゃんの顔なんて見ていなかった。ただひたすら、喋る大通くんを見つめていた。


「そんな中でさ、兵十が『ごんは、栗を毎日俺の家に持って来てくれた』って言ったところで、誰が信じると思う?」

「は?」


 トゲのあるココちゃんの一音が響いた。でも大通くんはものともしない。


「たとえばさ、俺が一週間前に母親を亡くして落ち込んでて、数日前には『うちの魚を万引きしただろ』って因縁付けてきた店員にボコボコにされてて、それでいきなり狐を銃で撃ったと思いきや、『こいつは今まで俺に栗を運んでくれてたんだ』なんて言い出したらどう? えーと……江藤さん」


 急に名前を呼ばれ、私は頭が真っ白になった。けれど瞳は、相変わらず大通くんから離れられず、汗の一滴も出てこない。私はすでに彼の話に引き込まれていた。


「どうって……」

「その状況で俺の言うこと信じられる? 不幸続きでついに頭おかしくなったな、とか思わない?」

「それは…………思う、かも」

「そうだろ? つまりさ、この物語の後の兵十に待っているのは、『たとえ言葉が通じても分かり合えないであろう村人たち』なんだよ。兵十はごんを殺しながら、やっとごんと分かり合うんだけれど、その先にあるのは『ごんを殺したことに対する、村人たちからの賞賛』だ。皮肉だろ? 狐とは死んだ瞬間に分かり合って、けれど生きている村人たちとは分かり合えない。自分の気持ちなど伝わらない。話も信じてもらえない」


 ココちゃんは言葉を失っていた。ココちゃんだけじゃない。他の人も、私も、何も喋れない。数分前、大通くんが先生に問い掛けられた時とはまるで違う種類の静けさだった。


「もしもこれが『分かり合うことの大切さを伝える物語だ』っていうなら、そもそもこの小説の書き方自体が間違ってるって俺は思います。それを伝えるなら、狐と人との意思疎通の前提がもっと練られているべきだ」


 それは批評だった。大通くんは「国語」に喧嘩を売ったのだ。


「大通、もういいか?」


 先生が汗たっぷりの顔をこすって尋ねていた。いつの間にか「くん」付けもしていない。


「まだあるんですけど」

「いや、もう――」

「これは俺の好き嫌いの話になるかもしれないんですけど、『作者はこう考えていた』っていう言い方は責任転嫁じゃないですか?」

「なにっ……」

「小説を読む時に、作者の存在なんて関係ないと思いませんか? たとえば新美南吉がまだ生きてて、『これは絶望の物語として書いた』って言えば、先生やみんなはそれを受け入れるんですか? みんな、今の今まで『分かり合うことの大切さを伝える物語だ』って散々言ってたのに、作者が言ってるならそう読むしかない、って受け入れるんですか?」


 それは違うでしょ――と、大通くんは教室を見渡し、まるで自分が教師となって授業をしているかのように言葉を紡いでいく。


「結局、俺たち読者が勝手に作者像を想定してるだけでしょう。みんなの言う『作者がこう考えていた』っていうのは、他でもない、『自分自身がこう読み解いた』っていう意味と何ら変わりがない。自分の意見を『作者』っていう隠れ蓑に包み込んでるだけだ」

「それ、あたしが間違ってるってこと!?」


 ココちゃんが声を荒げた。こんな姿は珍しい。


「間違ってるなんて言ってない。重要なのは作者の考えなんかじゃなくて、俺たち読者がどう読んだかってことで――」

「じゃあ言うけど、あんたの読み方おかしい! おかしいって! 絶対に分かり合えないとかなにそれ!? カッコつけて世の中斜めに見ようとしてるだけでしょ!」

「俺はその結論に根拠を示しただろ。物語の時間帯とか、狐の習性とか、登場人物の気持ちとか。それにさ――」


 大通くんは一瞬、フッと笑った。それは誰かをバカにしている訳じゃなくて、何というか、世の中を諦めたような空虚な笑みだ。


「俺が最初に発言した時の空気や、今こうして説明してる時のみんなの顔――。世の中絶対に分かり合えないことがあるっていう俺の意見、あながち間違ってないだろ?」

「やめろ!」


 それは、先生の怒鳴り声だった。


「もういいと言っただろ! やめろ!」


 先生の額には青い血管が浮き上がっていた。いつも温厚だから、こんな姿を見せることは滅多にない。細い眼鏡の鼻当ての近くは、レンズが白く曇っていた。

 チャイムが鳴った。六時間目の国語が終わる。教室の空気はカチカチに強張っていて、誰かが動く度に透明な空気がピキピキと割れていくようだった。

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