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序章 国語を尊重しよう

 六年一組の教室の地下。もう出入り口は塞がれていて、後戻りはできない。不安を胃の奥底に閉じ込めて、暗く狭い通路を歩いていくと、ぼんやりとした明かりが見えてきた。


「さあ、もう一度だ。元気よく、君の名前を教えてくれ」


 明かりの方から聞こえてきたのは、私のクラスの担任、語部かたりべ先生の声だった。いつもの優しい口調。でも今は、この「非日常」の空間で響く「日常」的な声が、何だかとても不気味に思えた。


大通おおみち……あざな


 それは、まぎれもない大通くんの声。やっぱり、大通くんはここにいたんだ。

 でも、どうしてこんなところに? 先生と何を?

 そんな疑問が頭によぎった瞬間だった。


「違う!」


 さっきとは打って変わって激しい先生の声。


「違う違う違う違う違あああああう!」

「うわあああああああ!」


 今度は大通くんの叫び声も聞こえた。私は足音を立てないようにゆっくりと進む。すると、だんだんと通路が広くなっていき、壁の右手側には鉄格子が見え始めた。

 床には段ボール箱が散らばっていて、箱の中には「遠足について」や「学芸会のこと」などというタイトルが付いた、手書きの原稿用紙がびっしりと詰まっている。だけどそのどれにも、赤字で「要指導」「道徳欠如」「社会不適合」などの文字が書き込まれている。

 明かりが漏れる鉄格子。私はその手前まで行き、身を柱の陰に隠しながら、少しずつ顔を出した。鉄格子の向こうで何が行われているのか――。

 そこは、教室だった。けれど、普通ではない。広さは五畳ほどしかなく、ベッドが三つ入るかどうかというくらいの大きさだ。

 壁には黒板が掛けられており、その前には先生が立っている。そしてその先生と相対して、机と椅子が一組。そこに座っている人こそ、大通くんだった。


 ――なに……これ……。


 大通くんは椅子の背に両腕を回されて、紐で括りつけられている。そしてその前に立つ先生。眼鏡の奥の目を血走らせて大通くんを睨み、手には真っ黒な表紙の本を持っていた。

 その本には、白い太字で『学習指導要領「生きる力」』というタイトルが書かれている。


 一体何なの、これ……。


「お前の名前はオオミチ・アザナではない! オオドオリ・ジ! 何度言えば分かる!」

「違う! 俺は大通おおみちあざなだ!」

「常用外! 常用外! ジョーヨーガイ! それは教科書に載っていない『常用外』の読み方だろう! 小学六年生のお前はまだ『通る』という漢字に『ミチ』などという読みは使ってはいけない! 『字』という漢字に『アザナ』という読みを用いてはならない!」

「ふざけるな! 常用外が何だってんだ! 常用漢字がそんなに偉いのか!」

「先生には、敬語ぉ!」


 先生がそう叫び、握り拳で黒板を叩いた瞬間、大通くんの体に青い電流が走った。大通くんの呻き声が響く。


「お前はこの学習指導要領を何だと思っている! お前たちのこれまで・これからの学校生活の基本理念が全てここに記されているのだ!」


 先生が、手に持っていた『生きる力』を、大通くんの顔に突き付ける。


「学習指導要領は、我らが教祖、文部科学省様のお導きだ! これは教典だ! 敬え! 敬うのだ!」


 おかしい。おかしい。こんなのおかしい。


「学習指導要領第二章・第一節・第一――目標:言葉による見方・考え方を働かせ、言語活動を通して、国語で正確に理解し適切に表現する資質・能力を次のとおり育成することを目指す」


 手の中の『生きる力』の文章を読み上げるや否や、先生は顔を赤らめ、背筋を震わせた。言葉が続く。


「(1)日常生活に必要な国語について、その特質を理解し適切に使うことができるようにする――できているか? オオドオリ?」


 大通くんは答えない。


「(2)日常生活における人との関わりの中で伝え合う力を高め、思考力や想像力を養う――これはどうだ? オオドオリ? 君は人の心を想像できるか? 気持ちが分かるか?」


 やはり大通くんは答えない。そして――。


「(3)言葉がもつよさを認識するとともに、言語感覚を養い、国語の大切さを自覚し、国語を尊重してその能力の向上を図る態度を養う――ああ……素晴らしい」


 よだれを垂らしながら身震いする先生。……狂ってる。


「分かったかぁ……? オオドオリくぅん……。国語を尊重する態度ぉ、なあ、国語を尊重する態度だぞぉ? 君はぁ、尊重しているかぁ? 国語の大切さをぉ――」

「……知るかよ」


 大通くんの吐き捨てるような言葉の刹那、先生はその顔から一気に表情を消した。そして黒板を叩く。特大の電流のような、青白い光が大通くんを襲った。


「オオドオリィィィ! 国語を尊重しろとぉぉぉ! 言ったはずだがぁぁぁ!?」


 バタッという音と共に、大通くんは机に突っ伏した。途端に先生が表情を変える。いつの間にかその目には涙が浮かんでいた。


「ああああ……文科省様……これが教育の痛みなのですね……。一人の生徒を教え導くのがこんなにも、ええ、こんなにも痛みを伴うことだとは……。良いでしょう、彼の痛みは私の痛み。全て私が引き受けましょう。だって私は、教師なのですから」


 先生は独り言を呟くと、今度は「学習指導要領第二章・第一節・第二――各学年の目標及び内容……」などと口を動かし、また黒い本を読み始めた。

 私の額から汗が止まらない。全身の下着がぐっしょりと湿っていた。大きくなる心臓の鼓動。もしかしたら先生に聞こえてしまうのではないかというくらい、ドクッ、ドクッと鳴り止まない。

 何が起きてるの?

 教育の痛み? 教師? こんなの狂師きょうしだ。おかしい。おかしい。


「ああ、もう下校時間だ。生徒の健やかな未来のために見回りをせねば」


 先生は時計を見ると、こちらに歩いてきた。

 まずい。見つかってしまう。

 私が慌てる間にも、先生は無表情で言葉を口ずさんでいる。


「下校時間を過ぎても学校に生徒がいますか? それは何故ですか? 家に帰りたがらないのですか? 家庭環境に問題があるのですか? 不良の溜まり場に行っていませんか? 家庭訪問はしましたか? 三者面談が必要ですか? 教頭を交えた方が良いですか?」


 まるでロボットのように無感情で言葉を繰り返す先生。そしてその間にも、鉄格子を出て、どんどんこちらへと近付いていた。


 マズい、マズいマズいマズい……!


 その時、私の頭の中に、気持ち悪い声が響く。


 ――さあ、この状況を表す四字熟語を答えなさい。


 はい、「絶体絶命」です。

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