恋のバミューダ
図書館は静まりかえっていた。 エアコンから流れる冷涼な風が、室内の空気 を回しているのが肌で感じられる程に。
本棚の影に、きもい奴がいた。 彼の名前は斎藤 拓哉。とてもきもい奴だ。 何が気持ち悪いって、もう存在が気持ち悪 い。
(それは言い過ぎだろ……)
彼は今、ストーキングの真っ最中だった。
「……」
彼が見張っていたのは、同じ二年生の伊東 由梨という女生徒だった。 彼女は内気な性格をしていて、一人で本を読 んでいる時でさえ、小動物のように身をちぢこ ませていた。
(やるぞ……今日こそやるぞ……)
レイプする気なのだろうか。
(告白だよちくしょう……)
(やるんだ斎藤拓哉……お前はやれば出 来る子だ……)
「……」
(今退いたらただのストーカーだぞ……勇 気を出せ……)
「……」
(あ……!)
由梨は本を閉じ、椅子から立ち上がった。 本棚から半身を出していた拓哉は、慌てて 体を戻す。
拓哉の目の前を通り、本を棚に戻す。 机の上に置いてあったバッグを手に取り、颯 爽とその場から歩いていった。 失敗だった。
「……はあ」
失敗だった。
(二回も言わなくても……)
時計を見ると、もう七時近かった。閉校の時 間である。 外を見ると、太陽の名残が青く残っているだ けで、とても暗い。
(……帰るか)
これで通算27回目の、告白失敗である。 彼に明日はあるのか。いや無い。
***斎藤拓哉***
次の日、拓哉はいつも以上に暗い顔で学校 へ登校していた。 電車から降りた時も、校門をくぐった時も、 教室に入り席に座った時も、ずっと俯いたまま であった。
「生きる気力無くした……」
「何で?」
ぼそっと呟いた一人言に、誰かが反応する。 振り返ると、満面の笑みの、親友がいた。
「元気無いね」
「ありませんが、何か?」
彼の名前は加藤 信治。成績は優秀。運動神経 は良く、性格も良い。 拓哉と正反対の人間だった。月とすっぽん である。 カメムシと神である。
「サイフでも落としたのか?」
「ふ……落としたのはチャンスさ」
「意味不明ー」
「うるせえ」
チャイムが鳴る。HRが始まる。 拓哉の変わらない一日が、始まる。
時は巡り御昼時。
「信治今日もパンなの?」
「ああ。母さんが作ってくれなく て」
「両親が共働きだもんな。ぷすすー」
「むっかー」
屋上のタンクの傍で、二人は昼食を取ってい た。 影にいるので、照りつける太陽は回避してい る。 むしろ外にいる分、風が心地よく、教室で食 べるより快適だから、彼らはいつも屋上で食べ る。
「それで……何があったんだよ」
「え?」
「誤魔化すなよ。何か、あったんだろ?」
心配そうに拓哉をのぞき込むイケメン。
「……」
言葉を詰まらせるブサメン。
「良かったら相談に乗るよ。いや、 悩みっていうのは人に言うだけで効果があるも んだし。 お前さえ良ければ、言って欲しい んだけど」
「……」
恋をしているということを、知られたくな かった。 親友である、信治にさえである。
「えっと……」
おこがましいと思っていた。自分が、恋をし ているという事が。 恋なんて別次元のところで生きている自分 が、口にしてはいけない事だと考えていた。
「なあ」
信治の視線が拓哉を射貫く。 目が合うと、男にしては長い睫がぴくりと動 いた。 女の子より綺麗な目だよね、とクラスの女子 が信治に言ったのを、拓哉は聴いた事が ある。
強い目力に、口が動く。
「あの、あれ、2組の……」
「え?」
「いや、えっと……」
名前を隠そうと思った。 もし名前を出せば、信治はきっと協力し ようとしてくる。 拓哉はそれが嫌だった。
「実はだな……」
長い間隠していた秘密を話すのは、隠してい た時間の千分の一もかからなかった。
「……そうか」
「……ああ」
「……誰?」
「い、いや……それは……すまん」
「あははは。言えばいいのに」
「いいじゃねえか別に」
「そうかあ……拓哉もそういう年頃 かあ」
親戚のおじさんのような発言が、年不相応で おかしく響いた。
「まあ、長い目でやっていこうよ」
拓哉の中ではとても重い話だったのが、信治はあっけらかんとしていた。 こいつはもてるから、色恋沙汰は日常茶飯事 なんだな、と拓哉は考えた。
「お前はどうなんだよ」
「え?」
「だから」
「あー……恋?」
「してるかって事」
「あー……」
今度言葉を詰まらせたのは、信治だ。
「それは……」
「……うん、まあ」
「ああ、してんだ……へえ……」
「何その反応」
「付き合ってるんだろ」
「ち、違うよ!」
信治は声を荒げる。 恥ずかしいのか、顔が真っ赤だ。
「……俺も、片思いだよ」
信治がそう言い終わるのと同時にチャイムが鳴る。昼休みが終わった。
ーーーーーー
(相談するっていうのは、気が楽になってい いな)
電車に揺られ、帰宅している拓哉は、朝よ り心が軽くなったのを感じていた。
(もっと早く相談してれば良かったな……)
どうして隠し続けていたんだろうと、今更に なって悔やんでいる。 もし告白して、フラれた時、その時由梨の事 を、信治に言おう。 そして慰めて貰い、カラオケを奢って貰っ て、あわよくば女友達を紹介してもらおう。
(フヒヒ)
拓哉の愚かな思考が、頭の中で猛スピード で渦を作っていた。
そんなことを考えながら1日を過ごし、そして放課後。
(今日はいける気がする)
今日も拓哉は本棚の間に隠れ、本と本の隙 間から、彼女を見つめている。
「……」
拓哉のストーキングによって、由梨の一週 間の行動パターンはばれていた。 火曜日と金曜日、そして時々水曜日に、図書 室に本を読みに来る。 今日は水曜日である。駄目元で図書室に行っ たら、彼女がいたのだ。
(いくぞ……いくぞ……いくぞ……!)
高まる心臓の鼓動が、空調の音に混じって聞 こえてくるようだった。 拓哉は意を決して、座っている彼女の席の 対面に向かっていった。
***伊東 由梨***
本は好き。現実に無い世界で、現実に無い物 語が、私を迎えてくれるから。 友達はあんまりいない。だから、よく図書室 に、本を読みに行く。
(……)
最近ハマっているのは、ロシア産の恋愛小説 だった。 詩的な文体で、純愛をする男と女の物語。 紆余曲折はあるし、切ない終わり方をする時 はあるけれど、必ず二人は、燃えるような恋を する。
(はあ……)
恋がしたかった。ううん、少し違う。恋愛感 情は、ある。 ただ、私には小説のような恋は出来ない。 まるで世界が違う。小説と、現実くらい。
私がブロンドの髪で、心に傷を負った花売り の娘なら、貴族が私に恋をしてくれるだろう か。 私が貧しい家の出身で、傷つけられながらも 健気に働く家政婦なら、ある日ロッカーに恋文 が入れられるのだろうか。
(……はあ……)
考えるのも馬鹿らしい。私は由梨。暗くてダ サい、何一つ取り柄の無い女子高生。 それが、私。現実の、私。
「……?」
「……」
ふと顔を見上げると、目の前に男の子がい た。 本を読むわけでもなく、ただそこに座ってい る。何だろ、この人。
一瞬だけ目があったように感じたけど、たぶ ん気のせいだろう。 私は椅子に座り直し、再び活字に目を落とし た。
「あ……の……」
「?」
声が聞こえる。話しかけられた? そんなはずは無かった。だって、彼は私の知 らない人だもん。
「……え?」
「……」
そっと顔を上げると、ばっちりと目があっ た。 大変だ、この人、私に話しかけてる……!
「い、いい、い……」
「は、へ……は、い?」
「い、今、大丈夫ですか?」
「え……ああ……はい、たぶん……」
「そ、そ、それは良かった」
「あ、はあ……」
彼はとても慌てていた。私も慌てていた。 かみ合わない会話が続く。
「ちょ、い、あ……」
「……」
図書室にいた人たちが、私たちをちらちらと 見てくるのがわかる。 恥ずかしい。本当に、何なの、この人。
「ちょっと、話したい、事がありまするの で、ここを、出よう、出ません、かい?」
「?」
「……」
それだけ言って、彼は俯いてしまった。 話したい事がある、ここを出よう、と彼は 言った。 どういう事?
「ここで、話して下さい」
やっとまともに喋れた。 でも、彼は依然パニック状態だ。
「こ、こじゃあ、駄目です。駄目、なんで すけど」
「……」
所々声が裏返っている。
「……」
言葉じゃ無理だと悟ったのか、彼は立ち上が り、手招きした。 私は少し躊躇ったけど、周りのみんなの視線 が痛かったので、彼の後ろについていく事にし た。
「……」
「……」
窓から夕陽が差し込む廊下は、幻想的で綺麗 だった。 彼は図書室から出ると、真っ直ぐ歩いていっ た。 私は後ろをついていく。
外から、テニス部がボールを打つ音が聞こえ た。 ぱこん。ぱこん。不規則に、時折、リズミカ ルに。
「……」
彼は歩きながら、窓の方を見ていた。夕陽が 彼の横顔に反射している。 顔に浮かんだ冷や汗が、つぶつぶの水の玉を 作っていた。
彼は、斎藤 拓哉と名乗った。 その名前は、私が彼をふる前に聞いた。
***加藤 信治***
学校は正直つまらない。勉強が出来ない訳 じゃない。運動が出来ない訳じゃない。 友達がいない訳でもないし、第二次性徴の訳 の分からない反抗心が芽生えている訳でもな い。
(……)
そもそも集団が嫌いだ。人間が嫌い、という のもある。 どいつもこいつも、つまらない人間ばかりな んだ。
「!」
それでも、中には面白い奴がいる。 今にも死にそうな顔で席に座っている、俺の たった一人の親友だ。
「よ」
「……おう」
声が掠れている。目の下に隈がある。 以前にもこんな時があった。その時こいつ は、徹夜でネットゲームをしていたらしい。
「今度は何のゲームなんだ?」
「あれだよあれ……人生ってゲーム」
「何だよそれ」
「ふられた」
「……?」
フラレタ。拓哉の中で 反復する。 それが徐々に意味を持ち出し、頭が理解し始 める頃、もう一度拓哉は言った。
「……ふられた……」
「……拓哉」
「……」
声も上げず、静かに泣き出した。 ここで騒げば、周りの人間が気がついてしま う。 そうなれば拓哉は、恥をさらす事になる。
「……」
俺はそっとポケットティッシュを差し出し た。
ティッシュを使って涙を拭い、勢いよく鼻を 噛むと、いつもの拓哉の顔に戻っていた。 目の下の隈は、依然痛々しかったけれど。
「……」
「……また、昼にな」
目の端で、教師が教室に入ってきたのが見え た。
「ああ」
拓哉の返事を聞いてから、周りの人間がそ うしているように、俺は自分の席へ戻っていっ た。
***斎藤 拓哉***
斎藤拓哉の精神的疲労は今最高潮を越した 所だった。 瞬間的に与えられたショックは山を下るよう に収まっていった。 それでも、拓哉の心に深い傷を残したのは 確かだった。
「信治……」
「何?」
いつもの屋上、いつものタンクの影、いつも の空、いつもの風。 いつもと違う、拓哉の疲れた顔。いつもと 違う、信治の優しい顔。
「俺なんでモテないんだろ……」
拓哉の呟きは風にのって辺りに散った。
「拓哉」
いつものぶっきらぼうなしゃべり方と違い、 優しい口調だった。
「お前がふられたのは、もてないと か、そういうせいじゃない」
「……」
「いやそもそも、お前が悪い訳じゃ ない」
「……」
「運が悪かったんだよ。ただ、それ だけだ。だから……あんまり考えすぎるな」
拓哉の気持ちをいたわった言葉だった。 しかし拓哉は、考えざるを得なかった。
『好きな人がいるから』彼女はそう言ったの だ。 どうしようも無かった。拓哉は、頑張って としか言えなかった。
「運も実力のほにゃらららら……」
「その言葉は使い時が違う」
「俺が不細工でネクラでネトゲオタだからだ よきっと」
「拓哉を不細工だと思った事は無 い」
「イケメンのお前は良いよな。顔で得してる よ。生まれた時点で俺はロスタイムなんだよ」
信治の言葉を無視して、ひたすらネガ ティブに愚痴る。 生まれた時点でロスタイムとはどういう意味 なのだろうか。 アホなのだろうか。死ぬのだろうか。
(しなねえよちくしょう……)
「まあ、だから……」
「……?」
二人の会話は、屋上の扉が開かれた事で中断 した。
「……」
「……」
二人の女生徒が、開いた扉から顔だけを出し て、きょろきょろと周りを見渡している。 影に隠れている二人は見えにくいようだ。
「……!」
女の内の一人が、拓哉たちを見つけると、 顔をほころばせた。 もう一人の女と、何かひそひそ話をしてい る。
二人は押し問答をしながら、信治たちに近 づいていった。 視線は信治に固定されていて、まるで拓哉は見えていない。
「えっと、信治君、今ちょっと良 い?」
背が低く、肌を小麦色に焼かせた女生徒が 言った。
「私たちにぃ、ついてきてくんない?」
言葉を後押しするように、茶髪で長身の女が 続ける。
「いいけど……」
信治はちらっと拓哉を見た。 拓哉はあさっての方向を向いて、唇を尖ら せている。
「いってら」
怒ったような口調で拓哉は言った。 信治は渋々といった感じで立ち上がり、 二人についていった。
「いいねえいいねえ。モテるねえ」
三人が屋上から消えると、途端に拓哉は喋 り始める。
「モテると大変だよねー。おちおち昼飯もく えねえよねー。 あー良かったモテなくて。だって今日 の弁当超うめえもん。 マジ母ちゃんグッジョブだよ本当に」
乾いた風が吹く。拓哉の鼻をくすぐる。
「モテてえなあ……」
誰もいない屋上に、それは寂しく響いた。
***伊東由梨***
初めて入ったカラオケ屋は、想像していたよ りも華やかだった。 もっとゴミゴミして、汚い感じの店だと思っ ていたから安心した。
「何番?」
「五番。そこの部屋」
二人の背中についていき、部屋に入る。 くの字に曲がったソファーの真ん中に二人は 座った。 私はソファーの端に座り、天井の淡い蛍光灯 の光をぼおっと見ていた。
「ハイカラ入れるよー」
「ハイカラって何?」
「ハイ・アンド・マイティ・カラー」
初めて聞いたバンドだ。 インディーズってやつかな。
「由梨ちゃん」
「?」
「歌う……歌える?」
歌う?から、歌える?に変わったのは、私が カラオケが初めてなのを川本 知佳が知っている からだ。 私は黙って首を振った。知佳は小さく頷 いて、前に向き直った。
「いっきーまーす!」
ノリの良いメロディが体をくすぐる。 こんなにうるさい場所が、ボーリング場以外 にもあったのを初めて知った。
「……」
それでも、耳を塞ぎたくなるような轟音は、 徐々に意識の外へ飛んでいった。 私の頭の中に反射する声が、井上 優花の歌声をか き消していく。
『ごめん。俺、好きな人いるから』大好き だった人の……いや、今でも大好きな人の声。 鉄パイプで殴られたような衝撃を与えた、私 の初めての告白にして、初めての失恋は、心に 重い荷物を残していた。
***加藤信治***
後ろから声をかけられて、俺は立ち止まっ た。 部室棟の壁にもたれかかっていたそいつに は、見覚えがあった。
「あのさ、ちょーっと聞きたい事あるん だけどさ、良い?」
「もうすぐ練習始まるから」
サッカーのユニフォームに着替えている俺 は、急いでいるという事を表す為足踏みをし た。
「時間は取らないからさー」
のんびりとした口調に、ねばっこいしつこさ を感じた。 俺は諦めて、足踏みをやめた。
「何?」
「私覚えてるよね?」
「覚えてるよ。貞子さんと一緒に居 た子だろ」
「うん、そう。それでさ、この前言って た事なんだけど」
「……」
「好きな人いるって言ってたじゃん? あれさ、誰?」
マスコミにでもなったつもりか。 女っていうのはどうしてこうも余計な事をし たがるんだ。
「別に誰でもいいだろ」
「そういう訳にはいかないじゃん」
「どうして」
「だってさ信治君、由梨を傷つけた 訳じゃん?」
「……」
「セキニンを取る必要があると思わな い?」
「……」
「だからさ、教えてよ。あの子も踏ん切 りつかないじゃん」
「俺が由梨さんを傷つけたというの は、合ってると思う。 でもそれとこれとは別だ。別問題 だ。 俺が誰を好きになろうと、他の人 間には関係が無い。 話す必要は無いだろう」
思わず声を荒げてしまったが、女は平然とし た顔でいる。
「それってさー、卑怯だよ」
「ひ、卑怯?」
「嘘なんでしょ? 好きな人がいると か」
「嘘じゃない」
この女めんどくさいぞ。
「じゃあ言ってよ」
「だから……」
「嘘じゃなかったら言えるよね?」
「俺の気持ちはどうなるんだ?」
「誰にも言わないから! ね!?」
「由梨さんにも言わないのか?」
少し意地悪な質問をしてみる。
「うん」
相変わらずのにやけた顔で女は言った。 大変だ。こいつ頭悪い。
「じゃあ……それはただのお前の好奇 心じゃないか」
「そうだけど?」
馬鹿らしい。俺は取り合うのを辞めて、歩き 出した。 背中から甘ったるい声が聞こえても、決して 振り返る事はしなかった。
***斎藤拓哉***
今日も今日とて、拓哉は図書室にいて、本 棚の影に隠れ、由梨を見つめていた。 時折彼女が憂いのため息をつく度に、拓哉 も同じようにため息をついた。
(何かあったのかな……)
いつも彼女を追っていた拓哉には、彼女の 心中を容易に察する事が出来た。 流石は生粋のストーカーである。
(一言多いんだよ……)
ふられてから、自分を冷静に見つめ直す機会 のあった拓哉は、以前よりも冷静だった。 いつかの告白のように時間をかける事無く、 彼女の傍に向かって歩いていく。
「あの……」
「……あ」
「どうも……拓哉です……」
「あ……どうも……」
「座っても……」
「ど……どうぞ……」
おずおずと、彼女の対面に腰を下ろす。 二人とも相手に目が合わせられないでいる。
「……」
「……」
「こ……!」
「え?」
「この間は……ごめんなさい……突然あんな 事言っちゃって……」
「あー……いや……別に……」
お互い俯きながらの、しどろもどろの会話が 始まった。
「それ……」
「……」
「何の本ですか?」
「外国の、本です」
「ど、どんな……」
「えっと……魔法とか、使える……ファン タジー系の」
「……そうですか」
「はい……」
「……」
「……」
「あの」
「あの……あ」
「あ、先にどうぞ」
「い、いや由梨さんから……」
「私は良いですから……」
「……」
「……」
図書室の空気が一段と重くなったように二人 は感じた。 エアコンの音が、いつもより大きく聞こえる ようだった。
「……いつもは、そういうの読んでないで すよね?」
「え?」
「恋愛ものとか、多いような……」
「……何で知ってるんですか」
「!?」
「確かに、恋愛小説よく読んでましたけ ど……」
「……」
拓哉は墓穴を掘った。
「……ごめんなさい」
とりあえず謝ってしまった。 こういう所が拓哉が拓哉である所以だ。
「見てたんですか?」
「はい……」
「どうして……」
「ち、違うんです。本当は声をかけたく て……。 でも声をかけようとしている内に、 帰っちゃうから、結局声をかけられなくて……。 何か話題でもあれば声をかけられるか なと思って、読んでる本とか調べて……それ で……」
終わりにいくにつれて、拓哉の声はしぼん でいった。 よくよく考えれば、訴えられたら10、0で負け そうなストーかーっぷりである。
「……」
しかし由梨は、拓哉を冷静に見つめてい た。 彼の言葉が、嬉しくさえあった。空気のよう な存在だと思っていた自分を、彼は見ていてく れた、と。
「好きだから……ごめんなさい」
「……謝らなくても良いです。拓哉さ ん」
「!」
由梨が初めて、拓哉の名前を呼んだ瞬間 だった。 名前を呼ばれて嬉しかったのは、初経 験だった。
「……」
「あの……それで、今日はどうしたんです か?」
「どうしたって……」
「何か用があって、私に話しかけたんじゃ ……」
「あ、ああ……用っていうか……何か、暗そう な顔してたから、心配で……」
「生まれつきですよ」
「違いますよ! 由梨さんは暗いんじゃな くて、大人しいというか、奥ゆかしいんです」
「……」
「……ごめんなさい」
もはや何の謝罪かわからない、拓哉の‘ごめ んなさい’だ。
「ちょっと、嫌な事があって……」
「え!?」
「……」
「な、な、何が、あったんですか?」
「えっと……うーんと……」
「よ、良かったら相談にのりますよ。な、 悩みっていうのは、誰かに話すだけでも、効果 があるんです」
何処かで聞いたような台詞だ。
「……」
由梨は唇に指を当てて、しばし考え込んだ。
***伊東由梨***
話していいものか悩んだ。 だって目の前の拓哉さんは、私がふった相 手なんだから。
彼をこれ以上傷つけたく無かった。 けれど、彼に慰めて欲しいという想いもあっ た。
「嫌なら、話さなくても良いですよ」
彼の言葉は、私の心にすぅーっと染みこんで くる。 とても真摯な気持ちを感じて、嬉しくなる。
「失恋しちゃって、私」
とうとう我慢しきれなくなって、私は話して しまった。
「……」
「!?」
拓哉さんの目が見開き、写真に撮られた絵 のようにぴくりとも動かなくなった。 私が告白を断ったときと、同じ顔だ。
「ご、ごめんなさい……無神経な事言っ ちゃって……ごめんなさい」
私がそう言うと、どこかに飛んでいた拓哉 さんの意識は、あっという間に戻ってきた。 ショックよりも、目の前の私が謝っている事 の方が、彼にとっては重大だったらしい。
「い、いや……いいんです……でも、信じら れない……」
「?」
「由梨さんをふる男がこの世にいるなん て……」
真顔でそう言った。五万といると思うよ、と 返せない程真剣な顔だった。
「誰ですか、そいつ」
「え?」
拓哉さんの表情に怒りが籠もっている。
「同じ学年ですか?」
「拓哉さん?」
「……あ」
「あの……私はもう大丈夫なので、気に しなくて良いですよ」
「ご、ごめんなさい……」
「謝ってばかりですね」
「ごめんなさい……あ……」
「あははははは」
自分が居るのが図書室という事も忘れて、声 を出して笑ってしまう。
「あ、あははは……?」
どうして私が笑っているのか、拓哉さんは わかっていないみたい。 私にもよくわからない。それでも、おかして くたまんない。
「駄目ですよ。謝っちゃ」
「ごめ……はい」
「ふられた同士なんですし、もっと楽にし ましょう?」
「そ、そうですね」
言ってから、この言葉は自分が言っちゃ駄目 な言葉なんじゃないかと思って、少し慌てた。 でも拓哉さんは気にしていないみたいだ。
「それにしても、本当に信じられない」
「何がですか?」
「由梨さんをふった奴ですよ。頭おかしいん じゃないですか?」
「私の好きな人馬鹿にしないで下さい」
「だ、だってー」
「ふふふ。まあ、元々期待してなかった し」
「そんなに凄い奴なんだ」
「うん。勉強もスポーツも出来る、私とは 絶対釣り合わないような人」
「ふーん……」
「今考えれば、もし付き合えてもすぐに別 れちゃっただろうなー」
「そんな事無いでしょ」
「色々と急がしそうだし、構ってくれない かも」
「生徒会の奴ら?」
「ううん。サッカー部のエースだから。土 日とか無いんだよね、サッカー部って」
「……!」
「?」
拓哉さんが、また写真の中の人間になっ た。
***加藤信治***
その日は、朝から拓哉はおかしかった。
「よ」
「……おう」
由梨さんにふられてから、立ち直ったと思っ ていた。 しかし、目の下の隈が復活している。
「どうした?」
「別に」
顔に生気は無い訳では無い。 でも、暗い影が覆っているように見えた。
昼休みに、いつものように拓哉を誘って、 屋上に行こうとした。 ところが、肩を叩こうとした俺を振り返っ て、拓哉の方から屋上に行こうと言ってき た。 何かがおかしい。拓哉と並んで屋上への階 段を上がっている最中、ずっと警戒していた。
「あー良い天気だ。なあ?」
屋上に出ると、拓哉らしくない明るい声で 話しかけられた。 やはりおかしい。
「なあ、お前……」
俺の声を無視して、拓哉はいつものタンク では無く、鉄柵の方へ歩いていった。
背の低い鉄柵の向こうには、肌色のグラウン ドが広がっている。 拓哉はくるりと振り返り、背中を鉄柵に預 けて、俺を睨んだ。 そう、睨んだんだ。拓哉が、俺を。
「お前さあ、最近どう」
「どうって……」
「何か良い事あった?」
まるで叱られているような感覚を覚える。 拓哉はとても強気だった。表情に影以外 の、激しい感情を感じた。
「どうしたんだよお前。ちょっと怖 いぞ」
「……何も無いんだ」
「無いよ。別に」
「じゃあ悪い事はあったか?」
質問の意図がわからない。 俺は同じように答えるしかなかった。
「別に、何も無かった」
「変わった事は何一つ無い?」
「ああ」
「ふざけんな!!」
拓哉の大声を、初めて聞いた。
***伊東由梨***
「斎藤?」
「うん……4組の」
「ああ……はいはい。あの人ね」
「その人がどうかしたの?」
「知ってるなら、どんな人か教えて貰おう と思って」
ざわめく教室の喧噪に、声が消されそうにな る。 昼食を食べるだけなのに、どうしてこんなに うるさいのかな。 カラオケをしている訳でも無いのに。
「うっそ! 由梨ちゃんて意外と恋多き 女だったり!?」
ああ、こういう人がいるからうるさいのか。
「別に、そういうのじゃ無いって」
「じゃあ何?」
「最近図書室で知り合って……相談とか 乗って貰って……」
「それで恋心が芽生えちゃった訳ね?」
「違うってば。ただ、その、昨日ね、様 子がおかしかったの」
「何それ」
「信治君の事をね、ちらっと言っ ちゃったんだ」
「え?」
「何か、怒ってるみたいだった。信治 君と仲悪いのかなって思って。 でも本人には聞けないし、二人は噂 好きだから、何か知ってるかなって……」
「何て言ったの!? 信治君の名前を 出したの!?」
「ふられたっていう事を言ったよ。あ、で も名前は出してない。 サッカー部のエースとしか……」
「うわーうわーちょっとやばいかもよそ れ」
「何で?」
「だって斎藤君って、確か由梨ちゃんが ふった人でしょ?」
「うん……えっ!?」
「そうなの!? きゃーきゃー青春!」
「な、ななな、なん、なんで……」
何で知ってるの!?
「吹奏楽部の子が、放課後に二人が話して るのを見たって言ってたから」
「……」
知佳の情報網を甘く見ていた。
「誰にも言わないでね!?」
「ごめん」
謝っちゃった……言ってるよこの子……。
「で、でも大丈夫。超仲の良い子しか知 らないし。 ていうかぶっちゃけ、由梨ちゃんと 斎藤君の組み合わせじゃあんまりサプライズ無 いから」
「はーいはーいそれは良かったです」
「あ……てかさ、何がやばいの?」
「やばいの、マジで」
「何がー?」
「だって、信治君と斎藤君、超仲が 良いのよ」
「……え?」
仲が悪いと思ってたんだけど……逆?
「それで……どうして……」
「ニブチン! 二人は親友同士なの! かたっぽが好きな人が、もうかたっ ぽにふられてたら、そりゃあやばいでしょ!」
「…………やばい!」
「でしょ!? でしょ!?」
「ど、どうしよう……!」
「どうするもこうするも……どうしよう か……」
「喧嘩になったりするの?」
「たぶん……よくわからないけど」
「信治君ってさ、昼休みにいっつも 屋上にいるんだよね?」
「う、うん」
「この前信治君を呼びに行った時 さ、もう一人いたよね?」
「……あ」
「その人が斎藤君じゃないの?」
「あーあーそうだったかも!」
「え、何? 何?」
「二人はいつものように屋上に行き、そ して熱く拳で語り合う……」
「うわっちゃー超青春だね」
「どういう事?」
「ていうかさ、ついさっきも見たんだよ ね」
「?」
「信治君が、背の低い男の子と一緒 に屋上に行くの。 ひょっとして今頃、屋上が血み どろになってたりして」
その時、外から鈍い金属音が聞こえた。結構 大きな音だった。 一瞬だけ部屋が静かになったが、またすぐに 喧噪に包まれた。
「由梨……」
「ごめん!」
私はお弁当をそのままにして、走り出した。 ここは三階。でも、音はすぐ外から聞こえた みたいだった。 あれは屋上からの音なんだ。 屋上で、何かが起こってるんだ。
(信治君……拓哉さん……)
胸騒ぎがした。 優花の言葉が、冗談とは思えなくなってき た。
***斎藤拓哉***
「ぐうううう……」
拓哉は泣いていた。殴った拳は痛かった。 けれどそれ以上に、胸の奥が痛かった。
「……拓哉、ごめん」
「うるせえ……うるせえバーカ! バー カ!」
「ごめん……黙っているのが、お前の 為だと思って」
「うるせんだてめえ! もう一発殴られ てえのか!」
「……ごめん」
信治の事は、親友だと思っていた。 無論、今でもそう思っている。だからこそ、 辛かった。 溜まった暗い感情が、一番の友達に向かって 爆発しているのが、拓哉は辛かった。
「なんでふった!?」
「好きな人がいたんだ」
「別に付き合ってやっても良かったん じゃねえのか!」
「由梨さんは、きっとそう考えな かったんだろ」
「うるせえ!……うるせえんだよちくしょ う!」
自分が理不尽な事をしているのを、拓哉は ちゃんとわかっていた。 それでも自分を止められなかった。誰かを好 きになるという気持ちのベクトルが、今は全て 憎しみに変わっていた。
「誰だよ!」
「え……?」
「好きな人って……誰だよ」
「……」
屋上のドアが、開いた。 拓哉は構わず続けた。
「誰だよ! 誰だ!!!」
怒りが爆発して、頭の中で花火が飛び交って るみたいだった。 拓哉は胸ぐらを掴んで、そのまま押し倒そ うとした。 信治は抵抗する。二人はもつれ合う。
「やめて!」
由梨の悲鳴が響いた。 拓哉には、どこか遠く、全く別の世界から 届いた声のように聞こえた。
「誰なんだよ!」
「お前だよ」
その瞬間、屋上にいた三人はぴたりと制止し た。 まるで屋上の風景が、写真になったようだっ た。
***斎藤拓哉*加藤信治*伊東由梨***
「……」
「……」
「……」
三人はグラウンドを向いて、鉄柵にもたれて いる。 とっくに昼休みは終わっていた。それでも三 人は、そこを動こうとしなかった。
誰も喋り出さず、誰も目を合わせず、時だけ が過ぎていく。 全員が似たような虚脱感を感じていた。
「なあ……」
「……」
「……」
「同じ事聞いて悪いんだけど、友達として好 きって意味じゃないよな」
「お前に恋してるって意味だよ。常 に抱きしめたい衝動に駆られている」
「そこまで聞いてねえよ……」
拓哉がため息をつく。 それが感染したかように、他の二人も長いた め息をはき出した。
「三人とも、失恋したって事……だよね」
「そうなるな」
「……何でこんな事になったんだろ」
「恋愛に壁なんて無いさ。 人間同士が出会えば、本能が疼い て、自然とそういう感情が芽生えるもんだ」
「お前何でそんなに冷静なんだよ」
「いや、とても慌てている。慌てす ぎて、逆に冷静になってるんだよ」
「ヘリコプターのプロペラみたいに?」
「ああ……早すぎて遅く見える、みたい な?」
「そうそう。そんな感じ」
「……」
「……」
「……」
今度のため息は、三人同時だった。
「……出会わなかったら良かったな、俺たち」
「……どうして」
信治が声を絞り出す。
「そうだね……」
「だから、どうしてだよ!」
信治が声を張り上げる、グラウンドの真ん中まで届きそうな声で。
「こんな微妙な関係にならなくて済んだじゃ ん」
「微妙か……確かに微妙かもしれない な」
信治は空を仰いだ。 今日は、憎らしいほどの晴天だった。
「でもさ、よくよく考えれば、恋を してふられただけだろ。俺たちってさ」
「……」
「……」
「良いじゃん。恋が出来たんだか ら。俺は良いと思ってる。 拓哉に会えて良かった。お前に 出会わなかったら、俺は恋を知らなかった」
「や、やめろ気持ち悪いから」
「……そうだね」
「由梨さん……?」
「私、信治君に会えて良かった。それ と……」
「……」
「拓哉君にも、会えたから」
「……」
「……拓哉は」
「はいはいはいはい。俺も良かったって 思ってるよ。 最高に可愛い女の子と、最高に気持ち 悪いイケメンに出会えたもんな。 恋が出来たし、親友も出来たし、最高 だ。最高に最低だ」
「ははははは。照れるなよ」
「うるせえ」
「俺たちは……ほら……あれだよ……あ れ」
「何だよ」
「船とか、飛行機とか沈む謎の海 域……何だっけ」
「バミューダ?」
由梨が呟く、信治がそれだと言わんばかりに話す。
「そうそう。バミューダトライアン グル」
「……何言ってんのお前」
「俺たちは、言ってみれば三角関係 だろ?」
「普通の三角よりよっぽど綺麗でわかりやす くて気持ちの悪い三角だな」
「しつこいなーお前。 で、俺たちは知らず知らずのうち に、バミューダトライアングルを作ってたって 事だよ」
「ああ……」
「それなのに、船を出してしまっ た。自分たちで作ったバミューダ海域に。 そして仲良く沈没、と。中々面白 い構図だよな」
「全然面白くねー」
「ちぇ」
「私は面白いと思うなー。そういう発想」
「だよな。俺も良い例えだと思った、由梨さん素敵」
「……まあ、その、何だ。 新大陸を見つけようとしてだな、 俺たちは船を出そうとした訳であって……」
「めんどくせえなあお前……はっきり言え よ」
「……わかった。はっきり言うよ」
鉄柵に預けていた体を起こして、信治は 屋上の真ん中まで歩いていった。 呆ける二人を振り返り、肺一杯に息を吸う。
「拓哉! お前が好きだ!」
「は、はあ!?」
「大好きだ! 結婚してくれ!」
「む、無理! 法律的に!」
「……」
今度は由梨が、鉄柵から離れる。 手をメガホン代わりにして、口に当てる。
「信治君! 大好き! 一目見た時 から! 今まで! ずっとずっと! 好きでし た!」
「すまーん! 俺は拓哉が好きなん だ! 愛してるんだ!」
「ば、馬鹿! みんなに聞こえるだろ! 大体それもう終わった事だろ!?」
「終わっちゃなんかいない! 俺の 愛はエンドレス! 地平線まで轟くぜ!」
「意味不明過ぎる! お前意味不明過ぎ る!」
「これからも好きです! きっと、ずっ と!」
「オーケイ由梨! その調子だ!」
(何なんだこいつら……ちくしょう……ちく しょう……)
沈んだはずの船が、再び動き始める。 拓哉を残して、光と空気を求めて。
「おまえらいい加減にしろよ! 俺だっ て……俺だって……」
「……」
「……」
空は憎らしいほど晴天だった。 今は愛おしいほど晴天である。
「俺、斎藤拓哉は――」
魔の海域、バミューダトライアングルは、そ の効力を無くそうとしていた。 沈み合った船が、お互いを支え合って、海上 を目指し始めたのだから。
お互いが、お互いの灯台となって。