第九章
もうあんな出会いはないと思ったんだが。僕は妙な星の下に生まれたらしい。
「あの時は秋良相手にテンパってたなあ…全然喋ってくれないし」
秋良は一度笑うと、無愛想で悪うございましたとぷいっと明後日の方向を向いてしまった。ごめんごめんと謝るとこちらに向き直る。
「なあ、秋良、僕が気づかなきゃいけない事ってなんだ?すげえ重要な事なのか?」
『うん、とっても』秋良はシンキングタイムなしで即答する。教えてくれよと僕が言う前に、『でもそれは私が言ったら意味ないから』と釘を刺してくる。
「僕は誰かに教えてもらわなきゃいつまでも気づかなさそうなんだがな…」
自分に呆れながら本心を吐露する。
『きっとね。でも教えるにしても私じゃないし、それは今ではないと思う』秋良が確信めいた雰囲気で書いていくので、僕はそれ以上は踏み込まなかった。計算済み、なのかもしれない。
「わかったよ秋良、ありがとな」
わずかな空白の後にチャイムが鳴る。二年生は五時限目の後はホームルームだ。秋良は小さな手を振ると、最後にメモ帳を開く。
『また遊んでください。楽しかったです』僕も嬉しくなってああと答える。遊びとは少し違う気はするが。
小さく笑って秋良は三年校舎とは逆側に走っていく。小さな体が小さくなって、とうとう見えなくなると、僕はとりあえず溜息を一つ。
さて、残り一時間強どうしようか?相方が去ってしまったのでここから先はひどく寂しい戦いになりそうだ。
とりあえずはここでしゃがんだまま一時間待つわけにも、教室に戻ってあれこれするわけにもいかないので、僕はとりあえずは体育館の横の舞踏場を避けて、体育館校舎をぶらついてみることにした。万が一他の先生に見つかったって適当な言い訳が通るし、この時間は同級生がいるわけもない、最悪倉庫からバスケットボールの一つでも引っ張り出して遊んでいれば一時間潰すくらいわけないだろう。
人気の無い体育館を一人で歩く。かつんかつんと響き渡る靴音がどこか豪勢だ。
たったったったった…小さな歩幅と小まめな息遣い。男子のものとは程遠い。近づいてくる。どんどんどんどん…
こんな時間に?僕は近付くより早く後ろを振り返る。体操服姿の三好だった。やはり体力がないのか、肩で息をしてへたっている。
「お前、何やってんだこんなところで」
「こっちのセリフだよ!ああ、じゃなかった長谷くん!こっち誰も来てない?」
えらく緊迫した様子だ。あの三好が無駄口の一つも叩かずにいきなり本題だなんて何かあったのだろうか?
「いや、誰もいないよ?ていうか、いるわけないだろ」
僕が言っても説得力はないのだが、誰かがいてはおかしいのだ。
分かった。ありがと。と返すと、三好は元来た方向を引き返していった。
僕は気にせず階段を上がる。
カツン…カツン…ようやくついた入り口から覗き込んで中を窺う。
よし、誰もいないことを確認してから、境界線を飛び越えるように軽く飛んで中に入った。少し落ち着かないこの広さも、貸し切りだと思うと少し得意げになってしまう。
最奥の舞台右上に設置された大時計で常に時間も確認できる。
体育倉庫の扉に手を掛けようとしたところで自分の手を見て顔をしかめる。外で秋良を手伝っていたので少し汚れている。このままだと外遊びから帰ってゲーム機に突進する子供のようなので手を洗っておくとしよう。
陽光が窓いっぱいに差し込んで充満する暖かな光は蜃気楼のような魅力がある。
こんな時間で、こんな場所で、こんな格好でなければ寝そべって昼寝でもしていたいくらいだ。気だるげに首元に手を当ててコキコキと鳴らす。
生ぬるい水道水に手を浸しても、あまり眠気は取れそうにない。
仕方なく、引きずるようにだるい体を体育館まで再び運ぶ。
暖かい日だ。少し前まで涼しいというよりは肌寒いと表現するのが妥当だったが、今日は二段階ほど気温調節をすっ飛ばして温かい。
真冬をこらえて、寒さの残る春を準備運動ととらえて慣らした体には少しつらい。それなりの運動さえすれば、それなりに汗をかきそうだ。
窓は閉まっている。籠った熱気が全身をユラユラと這いずり回るようだ。
ハッハッハッ――
気温に適応することなく締め切った窓、薄暗い廊下、籠った熱気…突然に、全て一緒なようでどこか違う場所に移されたような気分だ。
僕が気付くことなく、僕の環境という水槽を、似て異なるものに取り換えられたようだ。
ハッハッハ――
なんて、普段からの運動不足と、出不精な生活習慣が祟っての結果だろうが…日常を壊されていく主人公なんてのは、案外こんなものなのかもしれない。
ハッハッハ…
体育館前の階段に差し掛かった僕は、何気なく視界をずらした。先ほど、僕にあった三好は、元の三好だろうか、無事に帰れただろうか?なんて、考えながら――
タンッ……
圧縮された靴音は、石榑に鶴嘴を打ち込むように甲高く響いた。三半規管を蹂躙するそれは、単なる音色以上のものを含んでいた。
おとぎ話、童話、絵画、絵本、漫画、映画、アニメ、神話、ゲーム、妄想、夢現、幻、およそ、思いつくだけのこれらをひっくり返せばいともたやすく見つけられるそれ。
僕は初めてだった。
目が見開く。やる気のない半開きの瞼がここまで重力に逆らうのは珍しい。
時が止まったようだった。あの瞬間、およそ時間という時間、事象という事象が物語の輪郭を刻む前置きでしかないと告げられたような衝撃とともに、激しく時を刻み始めた歯車達がまたぴたりと止まってしまうのではないか?そう思わせるほどの衝撃を受ける。
僕はお姫様と出会った。
様々な面を持つ青、穢れない純粋さも、突き抜けるような爽やかさも、闇に沈んだような儚さも、全て余すことなく取り入れられたドレス。
ターコイズ、ネイビー、ダーク…それらが打ち消しあうこともなく混在した青のドレス。
およそ、僕の知りうる限りの人間のほとんどが、そのドレスを身にまとったところで付け焼刃、記念、その場限りの、一日限りの夢にしか映らないそれを、そいつはおとぎ話から舞い降りたお姫様のように着こなしていた。
塗り潰したように統一された純白の肌は肩を大きく出しても日焼け一つ見当たらず、ほっそりとした両の手はダークブルーの衣服と相まってより華奢で儚げなものとかしている。
細い腰元はコルセットで無理矢理作った雰囲気もなく上から下へ流れるようだ。
そして、自然の作る色彩をはみ出した、青のバラ。幻想的なそれを髪飾りとしてしまえばほとんどの人間が装飾品に負けてしまうであろうそれを、負かすでもなく、食うでもなく、それが黒の長髪に収まって当然と思わせるようだ。
先ほどまで切らしていた息をぴたりと止め、向かい合う彼女も息を止めていた。
お互いに止まった時の中で、僕は何を求めるでもなく中空に指先を伸ばした。月の輝きを手中に収められぬように、それはとても届かぬものと知りながら。
放心状態で止まっていた僕は正気を取り戻す。伸ばしていた手を慌てて引っ込めて、問いかけた。分かり切った問いを。近くにあるのだと思いたかったのかもしれない。
「時岡、さん?」
どうしたの?とかそんなことは野暮な僕でも聞く必要性を感じなかったので聞かない。
時岡さんがドレスの裾を細い指でつまむように握ってスッと持ち上げる。
映画でしか見たことがないが、貴婦人があいさつをする際の可愛らしい会釈、だ…?お上品に裾を持ち上げたと思いきや、波のように、翼のようにばさりとはためくドレス、隠された足元が視界に現れた途端、まっすぐに僕の顔面目掛けて襲い掛かる。
「どわああああああ?!!」
驚きすぎてアドレナリンが異常分泌したのか瞬きの間に僕は身を引き槍の一突きのような蹴りを眉間に受けることなく紙一重で回避する。
「何すんだ!いきなり!!?危ないだろうが!!」
理屈抜きで今の蹴りは間違いなくやばい。あんな豪奢なドレスを身に纏っているので全力には届かないんだろうがそう考えても顔面に食らえば意識が飛ぶレベルでやばい。
鉄面皮を保ったままドレスの裾を掴みあげて追撃を仕掛けてくる。僕は向かい合う事無く明後日の方向を向いて逃げる。
「待て待て待て待て待て!!!!!やばいっていきなり!」
「見たからには消えてもらうわ」
お前は国家機密の取引現場を盗み見した一般人を始末にかかる掃除屋か!と長ったらしい突込みを素直にしていたら舌を噛みそうだ。いつもの僕なら迷わず突っ込んでいただろうがこの状況でいつも通りな奴はいないだろ。不動心なんて無理だ!やはり剣道を齧ったところで強くなれない!そもそも参加してないが!
「問題ないわ長谷君、側頭部をポコリと小突かせていただけばあら不思議、光さんの恥ずかしい姿と一緒に前後三十分ほどの記憶が消えるから!だから止まりなさいな」
裾をあげて僕の全力ダッシュと同等の走りの時岡さんは目が笑っていない。いや、鉄面皮は相変わらずなんだけど、ここで変に笑っていても絶対逃げるんだけれど、少なくとも人の記憶を荒治療どころか専門家と正しい指導なしでのショック治療を行おうなんてときに無表情な奴は絶対やばい!泣いてても不自然に笑ってても逃げるけど!!
「んなもん信じられるかぁ!!そんなコントロールできるわけねえだろ!」
そもそも側頭部をポコリといった女は間違いなく先ほど僕の眉間めがけてライダー並みのキック、それでは二輪車にまたがる奴は全員凄まじい蹴りを放つことになってしまうので某改造された人間並みのキックをかましてきたやつの言うことは間違いなくウソ!
消そうとしている!記憶のみの抹消が不可能ならば僕ごとやろうとしている!
「今なら特別前後三十分で許してあげるから!」
「信用できねえ上にそれ以上があるのかよ!!」
「止まらぬというのならば、おむつが必要なおつむにして差し上げるわ!」
「逆巻きすぎだろうがあ!!貴重な青春の一ページどころか僕の人生の起承転結丸ごとかっさらう気かぁ!」
「優しくするから止まりなさい!」
「荒治療に優しくもなにもねえよ!」
歯医者かお前は!手を上げたところで優しくなりもしないのは知ってんだよ!
止まれない止まれない!息を飲んで見とれている場合ではなかった!だが後悔しても仕方ない上に先ほどまでの自分を責める気なんてないさ。
だってしょうがないよ!星の数ほどある物語の中にだって見目麗しいお姫様が死神だなんて落ちはそうそうないだろう!
限界が近い。もっと走り込みでもしとくんだった…足がもつれ、無様に廊下に転げる。走り込みするほど活動的だったら、こんなことにもなってないなあそういや。
壁にもたれ掛かって僕は手を上げた。手を上げるだけで全身の血液が不足しているのが如実にわかる。心臓が痛い。呼吸するだけで喉が押し潰される。
「もう逃げないのかしら?ご協力感謝するわ」
追いかけっこを楽しんでる雰囲気じゃないなあ。
「おかげでショックを与えるだけで済みそうね」
「お願いですから半身不随だけは勘弁してください…てか、だいたい――」
「人生で一番の恥ずべき姿を見られたんだもの、きっちり――」
「どこが恥ずかしいんだよ」
何気なく放った一言に、時岡さんは閉口する。そんな爆弾発言をしただろうか?
「別に、なにもおかしくなんか、ないだろ」
荒れた呼吸のせいで途切れ途切れだ。喋れるだけよくやってる。
「いいえ、こんなのおかしいわ。穴があったら住み着くわ」
すごい適応能力だな。僕にはそんな根性ないよ。
「だからさ、どこがおかしいんだよ。そんなにきれいなのに」
「馬鹿にするのね。嫌味は嫌いよ」
「そんな余裕ないよ。誰が見ても笑おうったって笑えやしないよ。僕なんて、見とれて立ち止まっちゃったくらいだしな。すげえきれいだよ」
酸素不足かはたまた早鐘を突く心臓により血液の供給過多なのか、いつになく、よく回る口だ。僕は女の子相手にこんな言葉、一度だって言えたことはないというのに。
時岡さんは閉口している。なんだよ、許してくれる気にでもなったのか?そりゃあないか…ちょっと頑固者っぽいしなあ。
ガクッとうなだれて下がった視線の隅にスッと差し出された指先。藍色の手袋で覆われても細い指先。一瞬、なにがなんだかだが、僕は視線を上げると、控えめに手を取った。
ぐっと引き上げてくれる時岡さんは無表情のままだが、不思議とこれから物騒なことをしようだなんて考えているようには見えない。
立ち上がってパンパンと埃を払う。一応時岡さんはドレスだから少しだけ離れて。
「許してくれんのか?…悪いことしたつもりはないけど」
「何言ってるのよ。全く許してないわ。もっと酷な仕打ちをしようかと…」
いっ?!思わず声が出てしまう。安らかな雰囲気を漂わせといてそれは卑怯だ。
「責任を取ってもらうのよ。どうにも、恥ずかしがる必要がない、というようだから」
なんだ。そんなことか。そうでなければやっぱ処刑なのかよ。
指先に絡みつく、細い感触に、僕は落ち着かない。相手によっては問題ないんだろうが、普通の高校生がドレス姿の女の子の手を引くなんてまずありえないんじゃないだろうか?
この状況自体は強制に近いんだけど、少し、距離が近くなったような気がした。
三好のように磁石のようにくっついてくるタイプか、秋良のように控えめでシンパシーを感じあうタイプでもなければ、僕は人との距離を詰められない。
それこそ、このくらいどたばたと騒がしくて、イベントだらけでなければ無理なんだ。
時岡さんいわく、今更押し付けられた役割は断れるものでもないし、かといって心の準備ができず、思わず逃走、そして、準備ができる前に全てを知ってしまった僕を抹殺…という流れらしい。つっこむ気力もないよ。
先ほどの階段に差し掛かったところで、時岡さんを引く手に抵抗が掛かった。
振り返ると、まっすぐに体育館を見据えている。
何も言わずに、今度は時岡さんが僕の手を引いていく。コツコツと前を行く足音で気付いたが、ヒールだ。つまり今は僕の方が背が低い…
「体育館なんて入ってどうするんだよ」
「気まぐれに、踊ってみたくなっただけ」
僕の手を引いたまま体育館の中央へ向かっていく。
「え、ちょっ、待ってって、マジで!僕踊れないんだよ」
いっちょ前に踊れたところでドレス姿の美少女とジャージ姿で体育シューズなんて格好なんだから断るに決まっている。
さっきまで見られただけで恥ずかしがってたやつが、踊るなんて進化し過ぎだ。信じてもらったのはありがたいが、そこまで妄信されてもなあ。




