第六章
人生における転機だとか、特異点なんて言うのは、僕には何の縁もない言葉だと思っていた。これからもそんな刺激と出会うこともなく終わっていくのだろうと信じていただけに、ここ最近の僕のなんでもない日常の壊れっぷりというのは、凄まじく実感してしまう。
遊びでバイトを休むことになるなんて、自分でも未だに驚きを隠しきれない。そんな普通の、当たり前の男子高校生みたいなこと…
僕はやめたつもりだったから…
「長谷くーん!!おっはよー!!」
待ち合わせのバス停でバスに乗ることなく僕を待っていた三好がこちらに手を振る。あまり考えたことはなかったが、あまり乗客のいないバス停で女子高生が乗りもしないでベンチに座っていたらそこそこ運転手は紛らわしそうだ。
上機嫌で駆け寄ってくる三好を声もかけずに通り過ぎていくと荷台がやけに重くなった。おそらく止めようと手をかけられたのだろう。
「ひどいよひどいよひどいよ!!あんまりだよー!!」
こいつの慌てふためいた声が僕にとっての朝のチャイムのようになっている。目覚まし時計より優秀なアラームが荷台に乗ったところで僕は一日の始まりを感じ取った。
あーあ、なんだかなあ…
ぐったりとため息をついて机に伏せたところで、ようやく朝のチャイムが鳴る。すでに僕の体力は一日の始まりにして赤ゲージとなり果てている。
昨日は散々だ。滅多に外すことのない土曜日のシフトを休みにされるし。
どうしてしまったんだここ最近は。もともと、面白い人間が周りにいる自覚はあったが、最近は共鳴しあっているように同時にハプニングやらなんやら、もうごちゃごちゃだ。
「長谷君長谷君!」
後ろからかけられたやけに上機嫌な声色に返答せず机に突っ伏したままケータイを立ち上げる。普段ならどうした?と振り返るのだが、タイミングが悪い。僕がここ最近最も疲れている日に限って三好一愛は僕の知りうる限り最もテンションが高い日なのだから。
「長谷君てば!無視はひどいよ!!」
両肩を小さな手のひらに掴まれて揺さぶられる。抵抗する体力のない僕はこんにゃくのようにぶらぶらと揺れる。
ゴッ―あまりに無抵抗すぎて一際大きく揺れた際に机に額をぶつける。電撃のようにびりびりと迸る痛覚が僕をようやく呼び覚ました。
「いっったあ!朝からなにしてくれてんだよ」
かき氷を急いで掻き込んだ直後のようにジンジンと走る痛みに目の端に涙を浮かべ、反射的に立ち上がってきっと三好を睨むと大層反省したのか三好はごめんねごめんねと繰り返して慌てた様子で背伸びをして僕の頭をくしくしとなでた。
「撫でるな撫でるな。恥ずかしいだろ。別に怒っちゃいないよ」
安堵の笑みを浮かべた三好は最後にもう一度くしくしと僕の頭を撫でた。
いや、痛いの痛いの何たらーなんて保育園以降聞いたことがないようなセリフで撫でられてもそれがずきずきと追い打ちをかけているということはあえて黙っておく。
それと、三好のような女子の平均身長よりも少し低い女の子が背伸びをすれば簡単に届いてしまう自分の身長を噛み締めてしまってなんだか精神的にずきずきとくるものがある。
まったく二重で痛いだろうが…
いくら言っても三好は目の端に軽く涙すらにじませて謝ってくる。
ずるいよなあ…かなり希少種だけど、たまにいるよなあ、こういう邪険にしがたいやつって、保護欲を掻き立てられるっていうか、申し訳なさがにじみ出るだろうが。
「だーからあ、こんなもんで怒る僕じゃないだろ?お前が一番知ってるだろ」
縮こまってしまった三好の頭をわしゃわしゃと撫でてやると安心しきった表情が浮かぶ。
「はあ…よかったあ…いつもの優しい長谷君だよお」
そもそも、怒っても何ともないのだが、ていうかそもそも、僕に対して優しいという印象は間違いなく誤りではあるのだが、数少ない日向口なので訂正しないでおくとしよう。
「いやいや、別に大して優しくねえって」
うんうんと首を大きく横に振って三好は目を輝かせて目を見つめこんだ。
「本当に優しくなかったら、わざわざシフト変えてまで合わせてくれないもん」
うっ…僕は心臓を握られたような感覚に陥った。成川さんという悪魔なのだが…まあ、悪魔的、というのならこんな状況で上目遣いにこんなことを言う三好の破壊力は反則だ。
心底幸せそうな三好の頬っぺたはつねったらそのまま伸びてしまいそうだ。こんな大福みたいな、というか大福になりきって笑みを浮かべている奴に素直に事の発端を話して笑顔を奪えるやつなどいるわけがないだろう。
親しき中にも礼儀あり、とは若干違うが、僕もさすがにそこまでデリカシーに欠ける行為に移れるほど、こいつを軽んじてはいない。
「ねえ本当にいいの?本当に空いてるの?迷惑かかってない?私スケジュール帳埋めちゃうからね?もう遅いんだからね??」
一瞬、こんな状況でも他人を考えるなんてやはりいいやつだなあとか思ったけど、あくまで英文でいうところの強調の意味を持った発言であり、すでに決まったことである様だ。
だいたい、こいつの優しさに付け込んでシフトを入れ直したら、門番のように見張りを固めた魔女成川に蝋人形にされる未来が目に見えている。
「大丈夫だって、三好の方こそ、絶対ドタキャンとかなしだからな?」
やったやったあ♪と小さな手の平をキュッと握ってガッツポーズを決めて跳ね回る三好、不覚にも少し癒されてしまう。中学生以降はなかなか見ることのないような喜び方だなあ…いや、まあ、男女間の壁とかのせいも大きいから女子同士ではそう珍しいことじゃないのかもしれないけど。
小動物的というか、癒し系というか、とにもかくにも小さくて女の子らしくて、頑張り屋さんで生真面目で、絵に描いたような愛されるためのスキルを有したやつだ。
「計画は頼んでいいのか?僕はそうそう遊んだりしないから、あまり遊ぶ場所とか知らないからさ」
三好はうんうん任せてと頷くとカリカリとスケジュール帳に書き殴り始めた。
今日は一日の始まりから体力が底をついていてどうなるかと思ったのだが、あっという間に刻限は昼休みに進んでいた。
登校から一限まで終始べったりだった三好が唯一僕の視界から完全に消える時間だろう。
そして、今日はもうこれっきり下校まで顔を合わせることはないだろう。今日の五時限目からは終始地獄の学内行事だからだ。
まったく、これで一日終わったようなもんだとはしゃぐ奴で溢れ返っているんだからおかしなものだ。教室中見渡しても、五時限目を憂鬱に考えているのは僕だけのようだ。自分のクラスだというのに、上級生のクラスにいるような居心地の悪さだ。
僕は開き直って諦めてしまったようで、口から漏れ出た溜息も小さく短いものだった。
「退散、退散っと…いっけね、弁当忘れた…購買行くっきゃねえな」
新たな憂鬱にもう一度小さな溜息を洩らすとガラガラとドアを開けた。




