第二十五章
制服に袖を通す。一度ドアを開いた僕は引き返してそれを握り締めた。光の青のクローバーを胸ポケットに入れて部屋を出る。
相も変わらず無人のバスに乗り、窓から外を見やる。驚くほど僕は落ち着いていた。
それは病院の自動扉を潜っても同じだった。
純白の廊下を駆け出したい気分だ。自然と早足になっていく。光の病室の前まで来たところで、扉が開かれ、穏やかそうな女の人が病室から出た。
「あら、あなた光の友達?お見舞いに来てくれたの?」
光の母さんだった。その人を見て、すぐに光の母さんだとは判断できなかった。物腰やわらかで、初見で光と似ているところはすらりと背が高いところくらいだろう。
「長谷駆です――」
突然だったので言葉を用意していなかったが、僕がどくどくと高鳴り始めた鼓動に押し出されるように謝罪の言葉を口に出そうとした瞬間に、光の母さんは嬉しそうに笑う。
「そう、あなたが…無愛想でしょうけど、光はあなたのおかげで随分明るくなったわ」
え…僕は反射的に俯いてしまった顔を上げた。
「光が家に帰って誰かの話をするのは初めてじゃないかしら?この前なんて自分から長谷君がって話し始めて笑っちゃったわ。光はものすごく怒ってたけどね。ふふっ、あの子、私達の前でも笑ったりしないけど、案外可愛いところあるのよ?許してあげてね」
「はい。だから、会いに来ました」
「本当は学校に電話してお見舞いはお断りしてたんだけどね。あなたなら誰より光も喜ぶわ。行ってあげて」
ありがとうございますと一言言って一歩踏み出す僕と反射的に光の母さんは廊下を歩いて行った。
扉を開けるのに何秒もかかった。心は飛び込むように入って行きたいはずなのに、重く感じるスライドドアを開けて個室へ入る。
空はとっくに暗い。半分ほど窓の開けられた病室に躍り出るようにカーテンが風になびいている。外は、星のよく見える空だった。あの日の空と同じように…
僕はとうとう光に出会った。病室のベッドで目を瞑ったままの光は、驚くほど安らかな寝顔を浮かべている。
作り物の様に整った顔が月明かりに照らされて、危うげな美しさを際立たせる。
光はまだ意識を取り戻さない。
僕は病室のベッドの脇に寄せられた椅子を引き寄せて、腰かける。
返ってこないと分かっていても、馬鹿みたいに一方通行な言葉を投げかけてやろうと思っていた僕は、光を目の前にすると押し黙ってしまった。
柔らかに開かれた白い手の平が月光を反射している。僕はそっとその手の平に胸ポケットにしまっていた青のクローバーを渡して、僕の手を重ねて握らせた。
何で僕がショッキングピンクなんだ!定番に逆らいすぎだろ―
私のイメージカラーは青なのよ。ゆえに私が青です―
ダークブルーだろそれをいうなら…これは水色に近い青だ―
男が青で女がピンクとかよくないわ長谷君。この男女差別世間体野郎―
意味わかんねえ毒吐いてんじゃねえよ!解毒に困るわ―
実は薬って毒なのよ。逆説私の毒も薬ということよ―
お前の場合患者を殺す勢いなんだよそれが―
ストラップ一つでも、僕らは相変わらず言い合っていた。
僕は目を閉じる。
なあ光、君は今どんな夢を見てるんだ?
その夢の中に、僕はいるか?
僕らが歩んできた日々を、僕は何度も思い出したよ。
君と初めて会った時、言葉を失ったのを覚えてる。
名前を言えただけでも奇跡だったんだぜ?
僕は分かっていたんだよきっと、時岡光が僕を変えてくれるって。
お前は、はじめから全開だったけどな。
めちゃくちゃ驚くぜあれは…
学園一の美少女がキレッキレの毒舌かましてくる物語なんて、僕はあいにく見たことがなかったしな。
ドレス姿は似合ってたなあ…なんでお前が頑なに拒むのか、いまだによくわかんないけど…
最後は羞恥心どころか投げ飛ばしてたよなお前…
僕らに王子様とお姫様のラブロマンスは務まらないだろうよ。
お前を知っていくうちに、お前のイメージを知って、簡単すぎる間違え探しは僕にも簡単だったな…
僕しか知らない時岡光に、僕は心奪われていた。チンピラみたいな怪盗に、心奪われたお姫様の話なら、お前は怪盗をやりたがるだろ?
キャスト決めをするまでもなく、僕は盗まれていることすら気付かないほどに、時岡光に恋をした。
もっと君を知りたい。
君の夢に落ちていきたい。
ねえ長谷君。一つやり直せることがあるのなら、あなたは何を選ぶの?
タイムマシンがあったらってことか?僕は、特にないよ…
お前はどうするんだ?光には、やり直したいこと、なんてなさそうだけどな。
僕はいつも通りの毒舌が飛んでくると思ったんだ。
だから、君の幻想的な横顔に、僕は見惚れてしまった。
私にだってあるわよ…もしやり直す事が出来るなら、私はもう――
なあ光、君はあの日、一度きりのタイムマシンに、何を願ったんだ?
意識が暗く、暗く遠のく、見慣れた人口の明かり一つないそこには包み込むような月光と、宝石を散りばめた様な星の光に満ちている。
あの日だ。すぐに分かる。目を瞑っていても感じるくらいに…
そこに彼女はいた。
星を見上げ、月夜に抱かれる彼女は僕を見て微笑む。
「ほんとに意地が悪いわ長谷君、こんなところまで来て」
僕はもう迷わなかった。胸の鼓動も驚くほど落ち着いている。
「そりゃそうだろ。もう決めたんだから。ここまで来なきゃウソだろ」
「私だって決めたことだもの…」
「あなたを拒むわ。お願いよ長谷君。私の事は忘れて」
不安げな瞳が少し俯きながら胸を押さえて言葉を紡ぐ。
僕は歩みを進めた。光は俯く顔を上げて僕を見つめた。
「やめて…近づかないで」
「光。僕の目を見て言ってくれ。そうじゃなきゃ本気かどうか、僕には分からないんだ。僕は覚悟した。だから、君を選んだんだ」
小さく首を横に振る光に、僕は胸ポケットから出したそれの紐を摘まんで見せた。
「僕はもう見つけたぞ」
どれだけ拒絶されても、君が涙を流して僕を押しのけても、だけどその言葉のどこかにあなたが隠れているのならば…
「自分の気持ちを見つけたんだ」
光の瞳が揺れる。月光を反射する澄んだ瞳に溜め込んだ滴がゆらゆらと揺れ動く…
光は気付いた。ゆっくりと胸に押し当てた手を開く。細い指がしっかりと握り込んだそれは、彼女の探し物だった。
握り締めたまま、光はとうとう瞳いっぱいに溜め込んだ涙を流した。月夜に散る滴は何より美しかった。
「でも、でも私は…誰かを苦しませてまで、笑えなくても…いい」
僕は微笑んだ。自然と現れた表情だった。光は少し驚いた顔を見せる。
「お前は、僕を悲しませてまで、泣いていたいのか?」
光は力なく声を零して泣いた。僕は光に歩み寄って、崩れ落ちそうな光を抱き止める。なけなしの力で僕の胸に握られた手の平が当たるが、もう力なんて籠っていない。
「苦しいんだろ?僕もなんだ。胸にぽっかり穴が開いて、ひどく一人でいると痛いんだ。だけど、光の痛みも分けてくれ。お前の痛みなら、僕は笑って受け入れるから」
「長谷君、苦しいのよ…長谷君…私は、もう一人じゃ生きていけない…」
光の声は消え入るようだった。驚くほど細い光の背に手を回して、抱き寄せる。言葉より強く知らせてやりたい。もう一人じゃないんだと、支え合うことは、こんなにも暖かいのだと…
「戻れなくなるわ…せっかく、私は願ったのに、こんなに苦しいなら、もう恋なんてしないって…確かに…」
あの日の光の、願いは、あの時の僕そのものだったんだ…
「一番星…覚えてるか?ここで光が言ったんだ」
光はこくりと頷いた。
希望に満ちたような満天の星空で、光はあの日言ったんだ。
私は、一番星なの―
一番星には確かな名前はない。それは何かではなく、おぼろげで、輝いているようでいて、消え入りそうなのだと…自分は誰とも繋がらない星なのだと…
「あれ、僕にはよく分からないんだ…」
え?と光は僕を見る。僕は指先を空に指す。言葉はないが、光も僕の指先を目で追った。
「お前には、あんなよくわからない点と点の繋がりが、その確かなものに見えるのか?」
どっから見ても無理があるだろ?僕は笑いかける。
「それでも、僕らは星空をなぞるんだ。今この時が確かなものでありますようにって、星空に願うんだ」
「だから、それは僕じゃダメか?無理矢理だって、君をここに繋ぎ留めたいんだ。言っといてなんだけど、きっと僕らの星座は、この中のどれより無理矢理だろうな…それじゃ、ダメか?」
光は答えない。僕は目を閉じる。光は、少し遅れて、ようやくまともに喋れるようになった小さな唇で言葉を紡いだ。涙はそれでも次々と流れ落ちていく。
「離さないで長谷君…私を、一人にしないで。大好きなの…私は、あなたが大好きなの…」
分かってる…もう離してやるもんか、約束だ。
僕らの間に言葉はなかった。閉じた瞼に、祝福してくれるように輝く星の瞬きだけが残った。
木漏れ日が瞼の裏を塗り潰す。顔を上げると、一息に差し込んだ陽光に僕は固くもう一度瞼を閉じる。
あれだけ確かに映しこんだ満天の星空は、見事なまでにまともに見れやしないほどの陽光にすり替わっている。
僕はうっつ、と呻いて瞼を擦る。少しずつ慣らした瞳はようやく開いても平気になった。
「そんなに眩しがって、バンパイアじゃないんだから」
僕は顔を上げる。体を起こし僕の手の平に大事そうにそっと手を重ねている声は、聞き間違えることなんてありえない。僕はろくに見えない視界の中で、確かに光を感じ取った。
「それともなに、私が眩しすぎるということかしら?」
僕を見つめる光は微笑んでいた。
「ようやく、それも慣れてきたところだよ」
「あら残念、夢見はどうだったかしら長谷君」
「光は何か夢を見たのか?」
「ええ、夢を見たわ。夢の中のあなたは結構かっこよかったわよちゃんと私に、告白もしてくれたしね」
僕はふっと微笑んだ。窓から吹き込んだそよ風が僕らを撫でて駆け抜けていく。僕は改めて、光に笑いかけて見せる。
「そりゃお前、夢だからな」




