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16cmの温情と1・5センチの恋情  作者: しぼりかぼす
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第二十二章

 半年前


 残暑のせいか僕の足取りは若干重い。

 夏真っ盛りの、日に当たっているとくらくらしてくるような破壊力はないものの、冷房の効いていない廊下で籠った熱気に包まれているのもなかなかのものだ。

 一愛のヤツ、もう委員会終わってんのかな?

 足取りと相対的に気持ちは軽かった。その先を想像すると自然と笑みが零れるほどに。

 僕は図書室を目指す。僕とはかなり縁遠い場所だったりするのだが、目的は図書室にあるわけじゃなくて、一愛が委員会で残っているからだ。僕は手前の階段で立ち止まる。

 何人かの話声が聞こえた。数人の女子の声だ。それは聞き流す分にもやかましく明るい声色ではなくて、少し不穏な空気を漂わせる声色だった。

 その会話の中に、僕にとって最も重要な名前に対する呼びかけが含まれていたことに気付いた。

 そこにいるのは一愛だった。一愛といるのは数人の女子だ。驚いたことに、それは三好と普段からずっと一緒にいる女子もいた。僕がそれに驚いたのは明らかな怒気と険悪な雰囲気が濃厚に渦巻いていたからだ。

「なんでって聞いてるだけなんですけど。なんで答えられないわけ?」

 俯いて小さな両の手を握り締める一愛を目にした瞬間に僕の心臓があぶついた。残暑の残る中、急激に冷水を浴びせられたような感覚だ。

「黙ってれば何とかなるって思ってんのがムカつく。バカにしてるでしょ?」

「いつもみたいにバカみたいにへらへら笑って見せなよ」

「いい子ちゃんぶってんのが前から超ムカつくんだよねこいつ」

「なんとかいってみろって!」

 一愛の小さな肩が揺さぶられ、緩やかな髪を掴まれ俯いていた顔を起こされる。

「黙りこくってないでなんか言ってみろよ!」

 大きく掲げられた腕が振り切られ、一愛の頬を叩く。鈍い音が響いた。一愛は腫れた頬を抑えもせず、向き直った。

「なんだよその目は!」

 三好は黙ったままだった。俯いた顔はひどく暗い。

「付き合い悪いと思ったら男と遊んでさ、それがあんなんだったらムカつくに決まってんじゃん。どこに惚れたのあんなんの?」

「あ~そういうことか。あんた可愛いから遊びで――」

 僕は我慢の限界だった。一愛を囲む連中が言っているのが僕のことだって、すぐに分かったけど、そんなことはどうでもよかった。縮こまる一愛を見ていられなかった。

 飛び出してでも、今すぐに…

「やめて!!」

 踏み出そうとしていた僕の足が止まる。

「嫌われたっていいから、あたしのことなんて言われてもいいから、駆君をバカにしないで…遊びなんかじゃない!本気で好きなんだから!」

 初めて一愛が怒っているのを見た。一愛の強さを見た僕は、嬉しいようで、自分が情けなくて殴ってやりたくなった。僕に少しでも一愛のような強さがあればと、そう思った。

 僕は一度止めた足を、とうとう踏み出した。小さな手の平を力いっぱい握って一愛に近づく。

「一愛、委員会終わったか?早いとこ帰ろうぜ」

 微笑んでやると同時に一愛は僕に駆け寄る。野次馬が去っていく。一愛は勢いそのままに僕に抱き着いた。背に回された両手はこれまでのどんな時より強く僕を抱き寄せる。

「どうしたんだよ。なにかあったのか?」

 僕は何事もなかったかのように聞いてやる。器不足でも、背伸びをしてでも、僕は精一杯に演じなければならない。何も知らない、いつも通りの長谷駆を…

 一愛は分かっているだろう。それでも、今より僕でなければならない時は他にないと、そう確信している。

 一愛は何も言葉にせずにただただ僕に泣きついた。僕はただ抱きしめる。ただ一人の恋人を。泣き止まない一愛の頭を撫でる。もう大丈夫だから、そう繰り返す。

 この日から、僕は変わった。

 陽だまりに影が差すように、僕は取り換えたように変わってしまった。

 僕の中の一愛の在り方が変わった。僕の恋人としてではなくて、何よりも尊くて、僕は一愛を守っていかなくてはならないんだと、決意した。

もう泣かせてはならないんだと言い聞かせた。

 心に鍵を掛けた。触れてはならないと思うほど、清く美しいその在り方…そう思うことは、間違いじゃなかったんだって、僕が彼女の隣でなんて思うのが間違いだったんだと、考えを正した。

 僕は人を好きでいることを辞めた。

 一愛は僕を支え続けた。

 僕は一愛と呼ぶのをやめた。

 三好は僕を駆君と呼び続けた。

 僕は、三好の恋人をやめた。

 三好は僕を問いただしはしなかった。

 僕らは無理に離れなかった。

 三好はそのままであり続けた。

 僕は変わったままであり続けた。

 二度と間違うことのないように。

 二度と後悔なんてしない様に。

 僕は人を好きになることを辞めた。


 これが、僕たちの半年間だ。

 僕は三好に迷う事無く答える。

「覚えてるよ。忘れるもんか」

 一愛の意味を忘れただって?ふざけるな。お前だけは、他に何を忘れても、それだけは僕が覚えていなくてはいかない名前だ。僕は目を反らしていただけだ。

「私は、今でも変わらないよ」

 三好はニコッと笑って見せた。その笑顔はあの時から何も変わらず、花が咲くような笑顔だ。

「私ね、私なりに考えることにしたんだ。このままでいいのかなって、変わらなきゃいけないんじゃないかなって…私が長谷君を、抑えつけてるんじゃないかって」

 僕はとっさに答える。もはや反射に近かった。

「お前は、間違ってなんかないよ…僕のことなんて考えなくていいんだ…無理に変わることなんてないんだよ…」

「うん…ありがとう…でもね、長谷君がいつまでも優しいから、私は考え直すことにしたの。だから、変わった、強くなろうって、もう私の代わりに長谷君が泣くことなんてないように…だからね長谷君、もう私を守る必要なんてないの」

 三好は確かにそういった。心に大穴が開いたような感覚だった。それは、無理矢理に固めた僕の使命感。溜め込んだそれは、三好の言葉一つで崩れ去る。

「長谷君はあの時から、私の代わりにずっとずっと泣いたままなんだよ。もういいの。もう大丈夫だから…長谷君」

 膝から崩れ落ちそうだ。とてもじゃないが立っていられない。もう、僕は、三好を守る必要がないんだと、そう確信した。こんなにも強い彼女ならば…

「私は変わったの。今でも変わらないって言ったそばなんだけど、気持ちは変わってない。一度ゼロから考えたよ。惰性じゃなくて、もう一度やり直そうって、それでね何度も考え直したのに、私は何度も何度も同じ答えが浮かんじゃうんだ。それはきっとそれ以外に確かなものがないって、そうゆうことなんだって考えることにしたの…」

 三好は真っ直ぐに僕を見据える。揺れ動くことのない真っ直ぐな瞳。僕は今にも崩れ落ちそうな自分を押さえて、立ち向かう。真っ直ぐに向き合って、三好の最後の言葉を、僕は聞き届けなければならない。

「長谷君…あなたのことが大好きです。恋人同士だった時より、あなたのことが大好きです。だからもう一度、私のことを一愛って、呼んでください」

 それが三好の、半年越しの、半年分の告白だった。

 心が叫び出しそうだ。脳裏が強烈な光で真っ白に塗り潰されている。意識が飛びそうなほど、強烈な光。分かっていたことだ。

 僕はずっと分かっていた。

 分かっていながら、僕は逃げ続けた。

 三好の思いから、目を反らし続けた。

 もう二度と後悔しないようにと、そう誓った僕は、変われてなんていなかったんだ。変わったと思っていたものは、何一つ変わってなんていなかった。変わったのは僕だけだったんだ。

 だから僕は、三好を守ることを、自分の使命にして、勝手な約束を、独りよがりな誓いを立てた。

 強くなれない自分への言い訳に、三好を使ったんだ…

 だから、今度こそ証明しなくちゃならない。誰も傷つかない様に?そんなことなどあり得ない。言い訳をかなぐり捨てて、僕の本当の回答をしなければ、三好をまた傷つける。

 今にも爆発しそうな心を抑えつけて、僕は三好を見据える。口を開く。揺れ動く波が僅かな隙間にここぞとばかりに雪崩れ込むのを黙らせて…

「三好、僕はまた変わり切れていなかったみたいなんだ。お前の気持ちは知ってたのに、だってお前は一度でも、もう好きじゃないなんて言わなかったから。だから、だから僕は今度こそ、ありのままの答えを出すよ。今になって気付いたんだ…僕にも好きな人が出来たよ…もう迷わない、後悔しない…拒まれても、恨まれても、僕はもう一回その子に会って、好きだと伝えたい。だから、三好、僕はお前とは付き合えない。それが僕の気持ちだから…」

 三好は泣かなかった。僕は声に出して驚きそうになる。三好は笑っていたから、投げ出したような笑みでなくてその笑顔は僕たちがまだ付き合っていたころの笑顔に似ていた。

「よかった…」

 そう独り言のように呟いた三好の意図を僕は理解しきれなかった。

「勘違いしないでね。長谷君が私に振り向いてくれないことは、泣きそうなほど悲しいよ…でもね、また誰かを好きになってくれたなら、無駄じゃないって…そう思えるから…だから私は長谷君を支えるよ」

 僕は涙を堪えた。熱い奔流が込み上げること自体が恥ずかしい。三好は僕の比較にならないほどの感情を押し込めているに違いないのだから…

「長谷君が好きになった子もきっと、うん…きっと長谷君のことが大好きだから」

 僕は三好一愛をふった。僕たちは別々に帰る。きっと三好は、僕のいる前じゃ無理してでも我慢するに決まっているから…


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