第十七章
月曜日の昼休みにあった彼女は、いつもより気持ちドライだった。いや、表情は鉄面皮なもんだから顔を合わせただけじゃわからなかったりするんだけど。
僕は遠慮なく時岡さんの隣を失礼した。引っ張ってくるつもりだったのか時岡さんも少し驚いていたように見える。
あえて無言の昼食。どっちが先に笑い出すか勝負をしているかのような独特のシュールな笑い気が場を満たされつつある。
「連絡先を交換しましょう長谷君」
何の脈絡もなく、第一声はあいさつでもなく雷のように突然だった。もしかすると僕は時岡さんと あいさつ→他愛もない会話→話題といった普通の会話、というのをしたことはないかもしれない。そしてそれはこれからもないような気がする。
メアドとか某SNSを、じゃなくて、連絡先というのが時岡さんらしい。
「連絡先?メアドで、良いのか?」
「そう、それよ。何でもいいけど、とにかくそれよ」
今日の時岡さんは歯切れが悪い。僕は躊躇いもせず連絡先の送受信を開いて時岡さんを待つ。ん?
「時岡さん?もう準備できてるんだけど」
え、ああと相変わらず歯切れの悪い時岡さんが三秒ほど固まった後僕に携帯を差し出した。いや、そうじゃなくて。
「メアド交換するんだろ?準備できてるから早く」
「渡すから、か、勝手にしなさい」いや、言い出したのはお前だろ。
僕は無言でじと目で見続ける。時岡さんは携帯を差し出したままぷいっと明後日の方向を向いてしまう。
「時岡さん。メアド交換の仕方、知らねえの?」
この時すでに僕の口の端は釣り上がっていた。
「いや、知らねえだろ」
じと目を辞めない僕に時岡さんはガガガっと効果音が聞こえてきそうな錆びたおもちゃの様に鈍く向き直る。薄い唇がへの字になっている。
「し、知らないわよ。初めてなんだもの…」
そのさまが珍しくて僕は内心かなり笑っていたが声に出さずにいた。笑ったら何をされるかわかったもんじゃない。差し出された携帯を受け取る。
時岡さんは鉄面皮のままだが抱えた膝に顔を伏せて明らかに落ち込んでいた。
「屈辱だわ。予習復習しておくべきだったわ」
「普通するまでもないんだけどな…」
時岡さんの携帯はロックも掛かっていなくて、連絡先は僕が三件目だった。携帯を返すと、時岡さんはひったくるように僕の手から取るとぷいっと体ごと向きを変えてしまう。
「笑ったわね。許さないわ」
「笑ってないよ別に。僕も同じようなもんだし。あ、でも笑ったかもな」
え?と時岡さんは一瞬だけこちらを向いた。
「素直に嬉しかったしな。ごめん。やっぱ笑ったよ」
「変わり者ね。こんなことが嬉しいだなんて」
シーソーのように揺れる時岡さんの背が僕の肩にがすがす当たる。お得意の毒舌も言い返せないらしい。
「じゃあ、教えようか?」
時岡さんは膝を抱えて蹲ったままぼそぼそと答える。少し唇を尖らせていた。
「もう交換することなんてないもの」
僕は自然と微笑んでいた。彼女は見えないように拗ねたような顔をしているに違いない。
喧嘩をしたように視線を合わせない僕らの距離はいつもより少し近かった。
時岡さんは月曜日は少し拗ねているような雰囲気だったが、それも火曜日にはスケッチブックのページを変えたように真っ新だった。
むしろ、少し上機嫌に思えた。ただでさえ感じ取りにくい雰囲気なので時岡さんが少し拗ねていたと気付いたのは水曜日の放課後くらいだった。一日前と比べるだけでは、時岡さんの表情判断は難しい。最低でも3,4日間の中でデータを取らないと。人間観察なのに天体観測のようだ。
実際そんなところかもしれない。こんなのが星なのだとしたら集中的に望遠鏡で覗き込んだ瞬間に光って目くらましでも仕掛けてきそうだ。
僕にとっての日常というのは、この週の場合木曜日までだった。そこはかとなく、というか大人しく過ぎていく一日一日と油断していたが、木曜日バイトに行くと、控室に大きく張り出された文字に目が丸くなった。
休み、休みかぁ…休み、休み休み…僕は休みを首を長くして待つ学生のように脳内でその単語を連呼した。実際は悩みだが。
少し前まで土曜日を休んだのは初めてだったのだが、驚くほど速く、それは二回目となってしまった。急用でと張り出された紙を確認してから店長に電話もかけておいたのだ、どうやら本当らしい。
平日じゃなくて、土曜日か…
金曜日の昼休み、僕が屋上を訪れたのは昼休みが十五分ほど過ぎてからだった。
「今日は珍しく遅かったわね」
「いつもは時岡さんが早すぎるだけなんだけど…今日はまあいっかって」
週終わりだし、金曜日だし、残った授業は、体育だし…一応のこと臣先生にも誤魔化せる範囲というものがあるそうなのでそう、ゆっくりするわけにもいかないけれど、十分少々遅れたところで大丈夫だろう。
「時岡さん時岡さんってつまらないわね」
「突然だな。あとそこは面白くなくてもいい点なんじゃないか?」
「そうね、名前で呼んで。さんとか、いらないから。私、名字はともかく、名前は心底気に入っているの、だから、大事に呼んでね」
僕の言葉は一切無視らしい。路上のティッシュ配り並みの勢いでスルーされてしまうと後に会話を繋げるのが困難だ。
時岡さ…光は良くも悪くも不変で、自分から言い出したくせにまるで僕が時岡さんじゃいやだと言い始めたかのような絶対王政的会話である。
「光って、名は体を現すとはこのことだと思っているわ」
「だとしたら闇にした方がいいんじゃないか?」
無言のゴルゴンアイをゼロ距離で受けた僕は口を閉じる。調子に乗ってあと三秒喋り続けていたら確実に死んでいた。
そのあと僕は何回も時岡さんと言いかけて光と言い直すのを繰り返していたんだけれど、光は満更でもないという感じだった。名前で呼ばれること自体は気に入った様子だった。
やはりチクリと言い間違えることについて言われることはあるけれど。
「もう昼休みは十五分しかないのに、ずいぶん悠長に食べているのね」
「ん?いやあ、僕は体育は出ないから別に少し遅れたってかまわないだろうって――
言い切る前にそれは遮られた。凛とした言葉が投げかけられる。
「今なんて?」
え?僕は光にもう一度、同じことを真似事をするインコのように繰り返して見せた。もちろん同じところで遮られた。
「それは今までの話でしょう?今日からそんなわけにもいかないでしょうに?」
「え?なんでだよ?」
「ダンスって一人で踊るものかしら?」
「いろいろあるとは思うけど、少なくとも社交ダンスは、二人だよな」
「じゃあサボっていてはダメじゃない」
「いや、ぼくはそもそも――
「あなた私と踊るのよ?」
は?僕は目を点にして、二三度瞬きを繰り返すが、覚める様子はないのでやはり現実のようだ。
「いや、光。それいつ決まったんだよ…今から間に合うわけないじゃんか」
「今よ。たった今。もっとも少し前から決めていたことだけど。今のままで私の相手を務めるなんて、許さないから」
「今からで間に合うわけないだろ。一年間なーなーにやったら誰でも踊れるようになるって授業なんだぞ?今からじゃ絶対無理だろ」
「じゃあ、誰が責任を取ってくれるの?誰が、私のドレス姿を見届けてくれるのかしら?私の背中を押した人でないと、それはひどいウソでしょう?」
いつもに増して自信たっぷりに言って見せた光は、言葉にできない色香を纏っていた。
僕の少ない語彙で、いや、そもそも、僕の知る限り、こうまでして真っ直ぐな彼女に言い返すに値する言葉なんて存在しないだろう。どんな美しい言葉を連ねても、纏っても、取り繕っても、どれも、酷く歪んで聞こえるに違いなかった。
「後から文句なんて聞かないぞ僕は…」
「そもそも不服だから問題ないわ。私は、責任を取ってほしいだけよ」
なんてひどい言い草だ。これが手を繋ぎ合って踊る男女の会話なのだろうか?文句なんて当然すぎて今更出ないようだ。
「あのなあ時岡さん…っつ、光…」
何かしら?と聞きかえす光はほんの少しご立腹だ。
「これは結局結果的に一緒だと僕は思うんだが…」
授業に出席しているのか曖昧なラインだ。そうか否かは臣先生がいる限りそう関係はないのだけれど…一言言って抜け出した挙句二人きりでやるんじゃ結局かよと言いたくなるだろうそりゃ。
手をこちらに優雅に差し出す光。前回はあくまで一度衣装合わせ、今回はさすがに光もジャージ姿だ。
「そう…そんなに私と踊りたいの?しょうがない人ね。早くいらっしゃい」
「何でもないです!何も文句ありませんからゆっくりと開閉するのをやめてください!」
確実にあれは万力だ。手を伸ばした瞬間、僕専用のクルミ割り機と化すのは目に見えている。
硬直したように動かない光の手の平に恐る恐ると手を伸ばした。
ひんやりとした手の平に自分から触れると僕は一瞬繋いだ手を引きかけた。ひんやりとした指先の感触が艶めかしい。あの時一度、冷静に考える間もなくこの手を握っておいて正解だったと僕は思った。
指の隙間に入り込む指先一つ一つに、急激に暗所から日光を浴びせられたかのような眩暈を感じずにはいられない。
「隠そうとしなくたっていいわ。抜け駆けはルール違反よ」
光の言葉がなかなか脳内に入ってこない。三半規管に突っかかったまま、噛みくだかんとする脳内が容量オーバーで悲鳴を上げている。
僕は目を閉じた。視覚からの刺激で脳内がちかちかする。できることなら、絡めた手を放して耳まで塞ぎたい。僕のやわな体を警戒アラームを連呼しながら暴れ狂う心臓から送り出される血液に貫かれそうだ。
どうしてこんなことになってるかって、あの時は突然だったし、ドレス姿の光はふさわしい姿であったのだろうが、逆に現実なんだか、二次元なんだが処理しきれなかったんだろう。
ジャージ姿で不釣り合いに思える光を場所と状況が夢じゃないぞ目を開けろと殴り付けてくる。
「目を閉じないで」
その一言は、やけにすんなりと僕の耳に入ってきた。すっと、冷ややかな手の甲が僕の耳元をふさぎ、もう一方の耳を光の手の平が塞ぐ。
トクン、トクン…押し付けられた手の平から鼓動が聞こえる。不思議とこんなにも小さな音が聞こえているのに、目を瞑るよりも落ち着く。
僕とそんなに身長の変わらない光は踵も浮かさずに僕の耳元まで手の平を届かせている。
呼吸をしているんだかしていないんだかわからない。呼吸の仕方を忘れてしまったんじゃなくて、感覚を切り離されてしまったようにフワフワとしている。
とくん…とくん…手の平から伝わる鼓動は、内側に潜り込んだように聞こえる僕の鼓動と同じリズムだった…
「ほら、もう大丈夫」
安心感にも似た何かが、僕の胸をゆっくりと侵略する。それは涙の滲む瞬間にも似た温かさだ。
次は緊張によるものでなくて、視界を釘付けにされて固まる僕に、光は不思議と王水並みの酸を纏った毒舌も物理的攻撃もしかけてこない。
ふうっと息を吐き出すと、さらに鼓動が落ち着いていく。確かに、もう大丈夫だ。
OKと答える代わりに、僕の耳元を押さえる手の平に手を重ねる。光は一瞬びくっと全身を強張らせた。これには僕も少し意外というかびっくりした。
何度かどさくさ、というより流れで手を握っているので、問題ないと思ったんだが、今思ったらいつも光からだったな。
反射的にごめんっと誤ったのだが光は無表情のまま一瞬固まって、僕には答えないで俯きながら手の平を僕に向けて手を差し出した。
これ、良いってことだよな?僕は若干恐れている。ハチミツを舐めとろうとして中にいたハチにチクリとされたクマみたいな…一応言っておくけど僕は手の平を舐め回そうとしたわけじゃないからな。本人に改めて言うと、至近距離で物理攻撃をかまされた後に改めて蹲る僕にじっくりと猛毒を浴びせかけてくることが確実なのでわざわざ言うまいて…
恐る恐る、僕はもう一度手を差し出す。次は手の平の底が軽く触れ合ってから、ゆっくりと指を絡める。
半ば後悔する。これまで知らぬ間にであったために何とも思わなかったが、五指の根元に光の細指が侵入してくる瞬間は僕に警告アラートを何重にも発令してくるほど心臓が高鳴る。
今までのどの瞬間より、僕は光がそこにいると確信する。分かっていても身を強張らせそうになったが、なぜだか意地のようなものを持った僕は我慢する。
「光?踊れるか?」
光は俯きがちになった顔を上げ、僕を見つめる。僕としては多少なりとも見上げるような視線の違いであってほしいのだが光は顔と合わせて作ったようにすらりと身長が高く背筋正しいので僕よりほんの少し低いだけだ。
光の水晶玉のような澄んだ瞳に、僕が映っている…静まりかけていた鼓動が息を吹き返しかけている。
非の打ちどころのない顔はいつも通りの無表情を浮かべている。僕は少し安心した。無表情に安心を覚えるのも、変な話だが。
「ええ…もう大丈夫、いつでも」
まあ、リードされるのは僕だがな。同格のパートナーのようにかっこつけているがあくまで光はこれから僕にご指導ご鞭撻の方をしまくる先生だ。
「じゃあ、お願いします」
正直最後の言葉は言いたくなかった。いくらなんでもダサすぎるだろ。