第十四章
「もはや早弁だな…」
外された南京錠とチェーンを見て、僕は呆れ顔で呟いた。一人のためいつも食堂も二番手か三番手に着く僕より先に鍵まで開けているとはどう考えてもフライングだろ。
ドアノブは冷たく、わずかな体温も残っていなかった。そりゃそうか。
それ自身の重みに上乗せされたそれを開け放つと、一息に風が突き抜けた。雲3に青空7の黄金比で彩られた空が眩しい。ほんの少し、目が痛いくらいに。
視線を落とすと、それは当然のようにいた。使いもしないくせにわざとらしいくらいにスペースを設けられた屋上の端によって、一際細い体を折って昼ごはんを広げている。
僕は特別声を掛けることもなく、だだっ広い屋上の真ん中の、ちょうど先客の対角の位置に腰を下ろす。
サブバッグから出した弁当を広げて何事もなく食事を始める。
「奇遇ね」
晴天のもとに吹きすさぶ風の中で、よく通るが静かな声が発せられたのは僕が三分の一ほど食べ進めたところでだ。
そうだなと短く返して僕は目もむけず食べ進める。先ほど見えた感じでは時岡さんも二、三個のパンを半分くらいまで食べ進めていた。そのパンが購買のものであるところはもはや僕一人では突っ込み切れないうえに解明できなさそうなので意図的に触れない。
「こうも晴れた晴天の下で薄暗い階段を上って、授業でも職員も使うことのない屋上でお昼休みに出会うなんて奇遇ねーーー」
いつもに増して無表情というか空虚な瞳で棒読みして見せた。五百回くらい同じ文章を読まされているかのような棒読みだった。
まあようは、どう考えても何もなしにこんなところに来るわけないだろ。話しかけるかなんかしろよ、といったところだろうか?もしくは用もなしにテリトリーに入るんじゃねえ帰れ、だ。まあ、不機嫌そうじゃないからそれはないだろ。
「分かった分かった。奇遇じゃないから。退屈だったからお邪魔しました」
座ったまま顎をクイッと持ち上げて見下すような視線でふうんと納得した時岡さんはゆっくりとした動作で傍らの空いたスペースをトントンと手の平で触れて示した。
「だったらそんなに離れたところにいないで、近くで話しましょ?」
うっ、僕の表情筋が明確に強張った。
完全な既視感。それも同じ結末を迎えるようにしか思えない。両手を軽く上げて見せる。
「い、いや、必要ないだろ?べ、別に今のままでも話せるんだからいいじゃないか…な?」
「違うわね」
え?こちらを見据える時岡さんはなぜだか生き生きとした表情を浮かべている。スッと立ち上がった彼女はゆったりとした足取りで台詞に合わせて近づいてくる。
「必要だとか、」
うっ、
「不必要だとか、」
なんだこの威圧感は…
「そんなことは問題でなくて、」
違うのかよ…
「私が、」
なんだこの金剛仁王像が目の前にいるかのような重圧は…
「たった今、」
く、来るな…
「そういう気分になって、」
歩調を強めないでくれ。
「そうしたいから、」
目の前まで来た時岡さんはしゃがみ込んで僕の瞳一面を略奪した。有無を言わさず三十体くらいのクイーンでキングを襲われている気分だ。
ずっと鼻と鼻がくっつきそうな距離まで接近する。
「言っているのよ?」
は、はい…先ほどまで時岡さんの虹彩と直接ぶつかり合っていた視線がすでにクッキーをバリバリと食べる某モンスターマスコットのようにせわしなく泳いでしまう。
「ねえ、まだ、押しが足りないのかしら…?」
耳元で囁きかける言葉一つ一つが色香を纏っている。ちかちかと貧血のように脳をくらくらと襲う女の子の匂いは危険すぎる。わずかにかかる吐息に背筋を逆なでされたような感覚が走り抜ける。
一歩も動けない。茨の腕に抱きこまれたように何もできない。蛇に睨まれた蛙というより、蛇に悠長に甘噛みをされるカエルのような心境だ。
「なら、行動で示した方がいいの?」
わざとらしく敏感な肌に存在感を増した吐息が近づけられる。それはつまりは、リップというか口元というか、
頬にこのまま侵略を許せば口づけを、キッスをされるということで――
ドッ―一息に頭上から伸びた操り糸を切られたマリオネットのように僕の意識は落ちる。。あと一秒、という感じだったが、ゴールしていたら心臓が止まっていた気がする。
意識の落ちた僕に何の驚きも見せることなく元からそのつもりであったかのような動作で投げ出された僕の両足が引きずられていく。
既視感とは以前起こったことを繰り返さないためにあるのか?何回か先に体験していようが僕が時岡さんに勝つことはなさそうだからもう見せてもらわなくて結構だ。
広げられたシートの上までたどり着くと、せっせとおままごとの人形のように僕をあたかも初めから隣にいたかのような現場を作っていく。
ぐったりとシートに座る僕の隣に改めて時岡さんが座って、肩と肩どころか密着と呼べるか呼べないかくらいの距離まで身を寄せる。
「ハッ!!僕は何を??!ここはどこ?!ちなみに僕は長谷駆だ!!」
こいつすべての記憶を?!とか誤解されないようにそこだけは強調しておいた。
ほんの少し目を細めて隣の僕と視線を合わせる時岡さん。雰囲気でしかないが機嫌が良さそうだ。これが彼女の、笑う、ということなのかもしれない。
時岡さんの顔を見てアンティーク調のさびれたギアが一息に回りだすように僕は記憶のピースをカチカチと付け合わせていった。
僕の記憶が戻ったことを確認したのか、時岡さんは口を開く。
「大丈夫よ。唇もぎりぎり触れてないから長谷君の気高き童貞は黄金のままよ」
「そんなに厳密な定義はない上に誇ってなんかいねえよ!」
気高き、どころか捨てられるものなら捨てたいよ。
「ところで毎日自炊をしているの?だとしたら評価を見直したいところだわ」
厳しそうなソムリエだな。僕の左手には弁当箱がもたれたままだ。突然に気を失い過ぎて持ったままになってしまっているのか、テーブルクロスを引き抜く要領で丁重かつ迅速に運ばれたのかはわからない。
「まあ、一人暮らしだからな。贅沢はしてられないよ」
「では、評議に移ります」
違和感を感じさせないというよりは有無を言わさない流れで細い五指に持った箸で僕の弁当箱から煮物を一つとって口に入れる。
というかなんでパン食ってるのに箸を持っているんだ。と思ったら右手の箸がない。
しかし、三好だけで決めるのは少し早とちりかなと思っていたのだが、やはり男が思っている以上に女というのは気にしていないのかもしれない。
うっ、さっきのを引きずっているのか、細い五指と小さな口元を見ると息が止まる。
「ふむ、気に入らないわね」
反論の余地なく頭を下げる。僕に発言権があるかどうか定かではない。
「やけにおいしいわ」
咀嚼し終え、小さな口元は結論を放つ。
「料理の腕は確かなので、シロアリからアリへと格上げということで」
「害虫じゃなくなっただけで根本が解決してねえ!!」
「では藻屑からモズクへ」
「まだ引きずってんのかそれを?!!」
「価値としては何十倍にも跳ね上がっているわ。不満なの?」
「ゼロに100掛けてもゼロだろ!!」
むしろマイナスな気がするので厳密にいうと何十倍もかけたということはすさまじい公害になり果てている可能性もある。
「しょうがないからあーんしてあげましょうか」
「何がしょうがねえんだよ!脈絡がねえよ!」
「あら、口移しをご希望ということかしら?」
「ディープすぎるわ!なんでお前はいちいちキスに関してディープなんだ」
口移しなんてされて気絶で済めばいいが…とりあえず視線を外して青空を見上げた。
「んぐ!!」
油断した瞬間に口元にマッシュドポテトを放り込まれる。一瞬のスキかつ、最も掴みにくいものをチョイスして放り込んでくるとは味な真似を…
「驚いて吐き出すかと思っただろ!」
「真っ向からじゃ恥ずかしいから無言で明後日の方向を向いているうちにほら、放り込めよ、知らんぷりしといてやるから、と受け取ったのだけれど」
「僕は特殊なツンデレじゃねえよ!」
ふうっとわざとらしく大きなため息をついて「分かった分かった」と目で語る時岡さんが右の手にまとめた箸と弁当箱を手の平で掬うように持って差し出す。
こっちのセリフだと目で語ってむっとしながら受け取る。僕の相手をする三好の気持ちが少しだけ分かってしまった。
「なんで来たの?」
額面通りに受け取ると、迷惑がられている感じがするので心がたじろいでしまう。
恐る恐る、とはいっても内心がばれない様に表情を変えず振り向くと、時岡さんは体操座りで膝の上に組んだ手をクッションにして、かくんと首を傾げて僕を見ていた。
うっ、僕は違う意味で再度たじろぐ。
あまり何度も何度も口に出したくないのだが、時岡さんは改めてみるとやっぱり僕なんかと関わっていること自体がありえない美少女で、それが絵になるポーズと純粋な瞳でこちらを見つめていたら、頬が少々赤くなるのだって仕方がない。
細い体は折り畳まれているとさらに繊細さを増して視覚に訴え、首を傾げる動作とか手をクッションにしてこちらを見ているのが絶妙に可愛らしい。
僕が会って日が浅い時岡さんにお前とか言えるのはあくまで傍若無人で鉄面皮な彼女に対してであって、こんな美少女成分を包み隠さず対峙されれば手も足も出ない。
ドキドキと鼓動が高鳴る。それは時岡さんがやっぱり美少女だってことともう一つ、僕は少し安心していた。
額面通り受け取れば迷惑そうな言葉だが、時岡さんの澄んだ水晶玉の瞳は青空を移しこみ、コバルトブルーを取り込んで、思わず碧眼と称したくなるほどきれいだ。
とてもではないが、その瞳はマイナスの感情を抱き込んでいるようには見えない。
「なんでって、なんで、だっけ?」
時岡さんが瞼を下す。澄んだ瞳に映したコバルトブルーが遮られ、長い睫毛を伏せる。
「じゃあ、聞き方を変えようかしら?――なんで来てくれたの?」
喜び…と受け取っていいのだろうか?特別口元をほころばせることも、声色が高くなることもなく、桜色の唇の小さな口元は、ただそう言う。ところが少し、ほんの少しばかり、そこには喜びが見えた気がした。
そしてなにより、その答えはさっき言ったはずなのに、同じ問いかけのはずなのに。僕は、求められた答えが異なることを知っている。
「こんな時ぐらいしか、会う機会、ないし…そんなとこ」
翻訳機で異国語に変換したようなぐしゃぐしゃで下手くそな言葉だ。
「ふうん…ちぐはぐね。答え切れてないわ。でも、悪くないわ」
そう評価した彼女は少し上機嫌というか、ほんの少し幸せそうだった。
僕にはさっぱりだった。けど、そんなことはどうでもよくて、時々、不思議な雰囲気を纏う彼女から、僕は目を離せなくなる。
はい、終わりっとでもいうように切り替えた時岡さんは体の向きを少し直して食べかけのパンを食べ始めた。
おそらく今話しかけても毒舌マシンガンかシュールな冗談しか出てこないだろう。
僕は少しの緊張から解き放たれて、ふうッと聞こえないように少し大きめに息を吐いて弁当箱を左手に右手に箸を持ち直す。
僕は一人で体の時を止めてしまっていた。その時の流れのままとかなら別に気にしなかったかもしれないが、いや、今回の場合はそうもいかないかもしれない。
同じ皿からつつきあう。とかじゃなくて、完全に箸が同じだもんなあ…言うなら同じ皿は遠距離型間接キスであり、箸が同じ、飲み口が同じというのは近距離型間接キスなのだ。
複雑な気分だ。いやでも嬉しくもない。ただただ箸を素直に進められない。
というか今思ったらすでに強制あーんをされているためもう遅い。
なんだ、時間の無駄だな。僕は少し早めに弁当箱を空にする。
「いつも一人でいるの?」
ぼそっと、独り言をつぶやくように若干の静寂を挟んだのちに問いかけられる。僕は、一瞬問いの意味を考えたが、すぐに昼休みのことかと納得した。
「そうだな。ずっとだ」
少し違うが、ここで「ここ八か月は」とか、余計な付け足しなんて特にいらないだろう。
「そう…また気まぐれに寄れば、きっと私もいるから」
変な回答だ。落ち着き払った声色に見合わない、雑味のある回答。これが普通の女子高生なら、もう少し全体的な言語の味付けがクリーミーで甘めなのだろうか?
なんとなく、勝手に僕は時岡さんは歓迎してくれているんじゃないかと思った。
僕の知る限りまともな女子なんて三好くらいしかいないけれど、あいつなら逆に一切の無駄を取り払って「また一緒に食べようね」と言うだろう。
自分の中に存在しない女の子というもののデータを、唯一の関わりである三好をテンプレートとして置き換えて考えるのはなんだかとてもよろしくない気もするが、仕方がない。
自分の中の概念で時岡さんの言葉を咀嚼することなく会話すると、どうなるのかな、と、僕はふと思った。それは意外なほど早く、出不精な僕の心よりも先に口が紡いでいた。
「それって、歓迎してくれるってことでいいの?」
意外なほど、考えるよりかえって流暢にすらすらと言う事が出来た。
「そうね――」
いつからだろう?僕らがおいそれと口にできなくなったこと、男とか女とか、そんなもの以前に、素直に、愚直に単刀直入に単純明快で真っ直ぐに…時岡さんはすらりと言った。
「私、長谷君のこと気に入ったから。歓迎も歓迎、大歓迎よ」
相も変わらず壁面を更にセメントで固めるような平坦な口調だったが、僕はほんの少し高鳴る鼓動を感じた。
気に入った、という言い方が、いかにも時岡さんらしいのが、妙に意味のないウソではないような気がして、僕は言葉を失う。
開いた口が塞がらないというよりは、息をするのを忘れて阿呆のように固まる僕の横を特に声を掛けることもなく時岡さんはすたすたと歩いていく。
時岡さんの甘い香りが春風と共に駆け抜ける。他の女の子とは違った、味付けの甘さではなく、風の様に吹き抜ける、後味を廃したようなスッと染み入るような香りだ。
コッコッコ…さらに数歩時岡さんは歩いていく。
僕は急いで立ち上がってシートを八つ折りにして後を追う。
「放置プレイなんざごめんだあああああ!!!」
振り返ってこちらに一瞥をくれた時岡さんが「ちっ、気付いたか」と吐き捨てる。とんでもないやつだ!
屋上の扉を閉じた時岡さんを追う!ドアに向かって一息に踏み出し、飛翔し、両足を投げ出す。某蹴りの強さは全くバイクに乗ることと関係はないがとりあえずバイクで登場し最後はただの蹴りで何とかします的なヒーローとなって!!
「させるかあああああ!!」
「あらどうぞ」え?!
ガチャ、何事もなかったかのようにドアが開いた。こんな時。普通は両手とか背中を使って全力で閉めにかかるけど、相手を普通と仮定していた時点で僕の負けだったようだ。
倒れ伏す僕の横をすたすたと歩く時岡さん。僕の右手からシートをスッと取り上げる。
「ご丁寧に畳んでくださって、どうもありがとう」
お淑やかに、ご丁寧にお礼を述べると僕に目もくれずすたすたと歩いて行った。