第十章
「一つだけ聞いていいかな?」
別にいいけどと時岡さんは無表情で答える。
視界が忙しく動く。乗り物酔いをする僕でもぎりぎり気分の悪くならない程度の動きだ。
「僕の嫌いな授業は体育でね」
「質問じゃなかったのかしら」
「前置きだよ」
あらそう、と答えた後に時岡さんは視線で続けなさいなと語った。Sっぽい視線にため息が出る。
「そして、苦手なものは女の子だ」
「生粋の童貞ということね」
「童貞は余計だ!確かにひとたび女の子の手にでも触れようものなら手汗と緊張で顔はリンゴのように赤くなって童貞やろうとしてもてはやされるのは確かだけどな!」
「あら?私の握る手の平はさらりとしていて一滴も汗がにじんでいないのだけれど」
確かに、僕に反射する感触も時岡さんの細い指先のひんやりとした心地よい感触のみだ。
「そ、それは、なんかこう、時岡さんは普通ならドキドキと胸が高鳴る瞬間を、あの手この手で潰すからこの状況になるわけでだ!」
ビキキゴゴキゴビ…痛だだだだだだだ
細指に絡めとられた僕の五指がおかしな音を内部で発てる。むしろ外部まで響き渡っている。アナコンダに絞められた気分だ。
不自然に艶っぽい雰囲気を醸し出しながら、無言で口元の動きだけで言葉を紡ぐ。
もう一度言ってみろ。確かにそういっている。
背筋にひやりとした感触が駆ける。つ、次は腕ごと持っていかれる。
しかしながら、どんだけ可愛くても、美しくても、平気で本気の蹴りをかましてくるような状況で甘酸っぱい雰囲気になるなんて難しすぎるだろう。
ひくひくと生半可に潰された蚊のようにみじめに五指を震わせながら僕は顔だけは涼しげな表情を張り付ける。
「それで、何が言いたかったの?」
「なんでこんなことになってるかってことだよ」
もっとも、せっかく抜け出した体育の授業中に二人っきりで貸し切りの体育館で踊っているんだから、僕の疑問くらい、言葉にしなくたって分かっているんだろうけど。
「貸し切りの体育館で、男女二人そろえば、やることなんて一つじゃない」
「すくなくともそれはフォークダンスじゃねえな!」
凛とした時岡さんに容赦なくツッコミを仕掛ける。堂々とし過ぎていて、一瞬自分が間違っているんじゃないかと思わせられるがようやくそれにもなれてきた。
とはいっても、正直言ってそこまで悪い気分ではなかった。一応なりとも知ってる相手だからっていうのもあるんだろうけど、ダンスは一人じゃ踊れない。
一度漫画で相手が下手くそすぎてターンの度にギリギリと固くなる状況を見たことがあるが、そちらが嘘なのか時岡さんが上手いのか、ある程度まではリードされて形になる。
時々足を間違えて軽く足を蹴飛ばされるが足が絡まって無様に転ぶようなことはない。
「多少は様になってきたじゃない。もっと向上しなさいなほらほら」
「今だけでも頑張るから澄んだ目で僕の脛をがつがつ蹴るのはやめてくれ」
一度も踊ったことがないんだからしょうがないにせよ、ここまで余裕ぶられると僕も多少はやり返してみたくなるではないか。
とはいっても正攻法で今から時岡さんより上達するのは無理だ。ならば…
僕は目を凝らす。一定のステップ、リズム、結局は繰り返しの動き。音楽さえあればもっとわかりやすいのだろうが、これだけの情報でも十分だ。
彼女が僕に詰め、僕が後方へ引くタイミング。
スッと時岡さんの足元が浮いた瞬間に僕は半歩引くところを前に出る。
顔と顔が僅かな空気以外を挟まない距離までの急接近。若干控えめに進んでよかったこの様子だともう少し思い切っていたら完全に唇を奪うところだった。
時岡さんははっと目を見開いた。お互いを完全に知ったわけではない男女が急激にゼロ距離になれば平静を保てるわけがない。
時岡さんは無表情ながらも内心驚いたのか、僕の左の手に絡めていた右の手を離す。
どんなもんだ。さすがにやられっぱなしでは面白く…ん? 離された右手が流水のような滑らかな動きで僕の首元、ジャージの襟をスッと深く掴み込む。
何してんの? 内心テンパっているに違いない。慌てて左手を掴もうとしたら襟を掴んでしまったのだろう。効果は抜群のようだ。
ところがどうだ?僕はこの動きを知っている気がするぞ?いや、日頃体感しているものじゃなさそうだが…
お?僕の右足が軽く跳ね除けられる。なるほど、何ステップミスってんだ、ということで小突かれたのだろう。
ゆっくりとスローモーションの世界で時岡さんの動きが見える。深く掴みこまれた襟が歯車に巻き込まれるように捻られ、時岡さんの視線が踵を返したようにずれる。
思い出したぞ。これ投げだわ。一本背負いだわ。
「ちょっ…これタンマ」
要求空しく言い切る前にがハッと一言僕は地面に叩き付けられる。画面中央に一本とでかでかと表示されそうな投げ技だった。
ブルーのドレスを身に纏ったお姫様にジャージ姿で背負い投げを食らう男子高校生とは、今時何でもありのラブコメにもそうそうないだろ。シェイクスピアが見たのならとよく表現されるが見ていたのならジャガイモでも投げつけられそうだ。
「いってえ…ここまでするか普通…」
「あやうく、ディープなキスをするところだったわ」
「ンなとこまでいくかぁ!!」
確実にどっちかが舌突っ込んでるだろそれ。この子ホントよくわかんねえ。
「大の字に寝転がるのはやめなさいなはしたない」
誰のせいだよ。原っぱならまだしも体育館の真ん中で故意に大の字になりゃしないよ。
「せめて犬の字に寝転びなさいな」
↓
犬
「頭に!僕の頭の横に何かが置かれている!!」
「切り取った局部ね」
「中世ヨーロッパの処刑人かお前は!!」
身の毛もよだつ拷問全盛期でもやるかやらないかレベルだよ。そして女子高生がさらっと局部とか言うなよ。男子高校生の夢を一日だけで何度か壊された気がする。
気力体力共に根こそぎやられてしまった。もう立ち上がるのもしばらく無理そうだ。
「あー、もうなんつーかいっそ、いっそ貝に…貝になりてえ…」
「長谷君になれるのはせいぜい具じゃないかしら」
「不当に一本足すなよ!白米に挟まれるだけなんて空しすぎるだろ!」
あくまで具。食卓の風景になったところで僕は主食でもメインディッシュでもないようだ。妥当過ぎていやだな。
「今とそんなに変わらないじゃない」
「言いたい放題か!あーあー分かった分かった…どうせ僕は…」
「もずくだよ」
「そこまで微妙なもんだとは思ってねえよ!」
ふりかけくらいにならせてくれたっていいだろ!僕は倒れ伏したまま全身をしならせてツッコミ続ける。打ち上げられたマグロにしか見えない。
時岡さんが唐突に口に手の平を当てて目を見開く。なんだ?
「間違えたわ…もくずだった」
「予期せぬ降格ッ!?」
「もはや自分で作り出した設定すら超えて僕を貶めることに集中しているぞ」
「ごめんなさい夢中になっちゃって」
なんと一方通行な快楽だ。
近付くと、のめり込むと危ない女は薔薇やトリカブトに例えられるが、こんなであっただけで棘を投げつけてくるような女は何と表現すればいい。
がっくりとくたばる僕を時岡さんはしゃがんでつついて満足げだ。
「ハッ!長谷君すごいことが判明したわ」
ど、どうしたと虫の息の僕。
「ドレスってすごいのよ、膝を揃えてしゃがまなくても多少誤魔化せるわ!はしたなくヤンキー座りになっても一瞬ばれないわ!」
「気づいたからってンなこと口に出すなやあ!なんかもう最近気付いたけど男女間って共有しなくていいこと多すぎるよ!!」
ガクッ、最後の力を振り絞った渾身の主張の後、僕は息絶える。真っ暗な視界の中でツンツンツンツンと飽きもせず頬を突かれる。
「し、しつけえ!」
「寝ちゃだめよ。寝たら死ぬのよ」
雪山じゃないよここはと言いかけたが、僕に止めを刺しそうな雪山の気候より手ごわそうなのがいるのでやめた。
「もういきましょ?そろそろ授業も終わりだし、一通り満足したわ」
そう切り上げた時岡さんはどこかつやつやしている。いや、視覚効果的にとかじゃなくて、こう、スタミナMaxという雰囲気だ。対照的に僕はというとげっそりとしている。もうあと三日続けば体重が落ちて頬がこけそうだ。
時岡さんは定期的に人を振り回してエナジードレインする習性でもあるのかもしれない。
並んで歩くと完全に吸血鬼と吸われた人だよ。
お一人でどうぞ、とは言わない。克服?したとはいえ、ドレス姿で一人は不自然だろう。本当のところ、思うに放課後といい、登下校といい、体育の時間といい、なんだかんだ誰かと一緒にいる僕は、最近、孤独に弱くなった。自分のために言わなかったのか、滅多に回さない気を回したのか、自分ではよくわからない。
自分で立ち上がろうとしたところで手を差し出される。遠慮なく掴むと、ぐっと一息に起き上がる。やはりさっきより安定感が上昇している気がする。
一度服を払うと、スッと時岡さんは手を差し出す。次は連れていけと言っているのが分かった。慣れてはいけないものに馴染んできている気がする。
「なあ、まだ恥ずかしがってんのか?」
僕の視線も少しばかり疑い深い。僕の人生でもここまで堂々とした態度の女の子というのは見たことがない。
それが特別表情を変えて恥ずかしがってるわけじゃないし、しおらしくなってるわけでもなく恥ずかしがっているといわれたってなかなかに難しい。
「当たり前でしょ。レディがドレスを身に纏うということは花道を通るということなのよ。こんな特別でもなんでもないタイミングで、場所で勝負着の中の勝負着を身に纏うなんて恥ずかしいに決まってるでしょ。あなただって学校の中で西洋の甲冑を身に纏って歩けといわれたら赤面ものでしょう」
「僕のここぞという場面は合戦じゃねえよ!この場合ドレスに相対するものは燕尾服とかタキシードでいいだろ!」
まあでも、パーティドレスより一段階も二段階も豪奢なそれは、花嫁衣裳の一歩手前という感じで、さすがに踊る為に動きやすさは確保してあるが、結婚式ぐらいでなければ着ることはないだろう。
となると、案外言っていることもそれてはいないのかもしれない。いや、納得しているからと言って僕は結婚式に甲冑を着込むわけでは断じてない。
「はいはい分かったよ。足元、気をつけろよ」
諦めて右の手に握る小さな手を引いて体育館横の階段を下りる。一定のリズムで響くヒールの足音が反響して水面にたつ波のように聴覚を揺らす。
「問題ないわよ最悪足がもつれたとしてもこのタイミングなら身代わりがいるから」
「まずは踏み外さないことを努力しろ!階段じゃないものをとっくに踏み外してるよ!」
五割増しで響く足音を僕が先に止め、一歩遅れて時岡さんのヒールが最後の一段を下りる。降りきったところで、ちらほらと男女数名の声が聞こえてきた。
「あー!時岡さんやっと見つけた!」「え?どっち?」「こっちこっち」「やっとだな」
あっという間に軽く囲まれてしまった。僕はというと、逆に強張ってしまって慌てて離そうとした手を離せずにいた。
「心配したんだよー!」「急に走って行っちゃうんだもん!」「そーそーびっくりだよ」
ああ、と僕は今更繋がった。
三好が呼び出されていたのは文化委員の女子で時岡さんの衣装合わせということか、一時間も二時間もそんなものが続くわけがないので何かタイムスケジュールがあったんだろうが、丸々一時間無駄に過ぎてしまったのだ。何一つ終わっていないに違いない。
数人の男子はよく見ると文化委員の中にいたメンツだ。あくまで門外不出か。そう思うと思わず時岡さんのドレス姿を何をするでもなく振り返ってみてしまう。
「ごめんなさい…迷惑を掛けました」
大人びた声色でスッと頭を下げる時岡さんに周囲は騙されている。こうされて追加で文句を言えるやつなんていないだろう。
「もう授業終わりだな。それじゃあ、ぼくはここで」
一瞬、ほんの一瞬、わずかに離し切らずに掴まれた手が、離れられずに留まった。
ん?どうした?と振り向くとほんの一瞬加わったそよ風ほどのわずかな力は時岡さんと目が合うと同時に途切れて、僕の右手はふらふらと自由になった。ん?なんだ今の。
女子更衣室に歩いていく。時岡さんに交じっていた女子の一人がタタッとこちらに駆け寄ってきた。あー、と中尾さんだ。
「長谷君時岡さんとずっといたの?なにしてたわけ?」
あれやこれやと首を突っ込みたがる年ごろというのは大変だ。心底楽しそうににっと笑う中尾さんに何もしてないよ会っただけだってと返すと、額面通りに受け取ってはいないという視線でこちらを見つめた後、二歩近付いて耳打ちされる。
「一愛には黙ってて上げるから、上手いこと言っとくからさ、がんばってね」
「な、なんで三好が出てくるんだ?なにもありゃしないって」
にっと笑ってかけていく中尾さんに僕は茫然としていた。何が面白いんだか。僕もあれくらい他人事に興味を持てたら、もう少し学校生活も楽しいのかもしれない。
いや、ないな。もう帰ろう。今日バイト早かったしなあ。三好も今日は自転車があるし、二人乗りでないというだけでいつも一緒に帰るのだが、急がせても悪いし、まあいいだろ。
五、六時限が体育の日には臣先生のクラスにはホームルームがない。一年前からだ。なにかよほどのことがあれば別だろうけど、僕は資料整理を逃げた時のために電話番号を共有することで首根っこを掴まれているのでよほど何かあってもどうにかなる。
よし、帰るとしよう。更衣室でさっと制服に着替えると、僕は教室に立ち寄ってまだがやがやとした学園を足早に出て自転車に乗った。