第一章
「16cmの温情と1・5センチの恋情」
しぼりかぼす
一愛!早く!
彼が私に手を差し出す。私は駆け寄り手を重ねる。
ほら、もう時間だって!
駆君がせっかちすぎるんだよ!
いつも一愛が急かすんじゃないか。いいから行くぞ。
暖かい彼の、私より大きな手を握って私は走る。
この手が離れることのないように、私はちっぽけな手で精一杯握りしめた。
なあ、このあとどうする?
とっとと帰ろうぜ!!
飯どうする?
あそここの前も行ったじゃん。
わり、今日は用事あっからさ
お前彼女だろ!!チャラいぞ!
雑然とした会話の雨は雲いらずで当たり前の様に降り注ぐ。
こんなに退屈な時間が後ほど宝石の様な輝きを放つとか放たないとか、今この時間が人生をくすんだまま終わらせるか、ピカピカと輝く宝石になるかを分けるとか、しょせんは後付けの事実でしかないだろう。
もしそうなのだとしたら反論の余地なく僕はくすんだ石ころで終わる事になってしまうので、この反論は説得力を有するかどうかの前に僕は反論し続けなければならないのだ。
一度大きな欠伸をすると、僕は机のフックに掛けたサブバッグを手に提げ、持ち手の紐をリュックの様に無理やり肩に通した。
情けなくしおれた紐は思いのほか抵抗を見せずに僕の両肩に収まる。
学習性無力感。
朝の強制読書だか現代文だかで知った単語が不意に浮かんだ。
まあもっとも、個人的にこの言葉の本質は支配者(強者)が弱者を虐げ続ける事で生まれる恐怖する事を諦めさせた様な言葉であり、この場合は適用されないのだろう。
無気力な僕に正しい使い方を教えてやる気が無い様な、逆に見はなされている気もする。
「ちょっと長谷君?!帰るつもり?置いて帰るの?アタシを置いて行くの?!!」
後方から掛け声と共にたたっと小気味良い足音を確認すると、僕は振り向き様に自分の胸の高さで手の平を構えた。
くりぬいた型に戻す様にスッポリと手の平に小さな頭が収まると高速の観覧車の様に僕のカバンをポカポカと捉える筈だった小さなグーにした手がブンブンと空振る。
「何だ三好、遅かったじゃないか。待ちくたびれたよ」
「ウソばっかり!ちっとも待って無いくせに!こうでもしないと知らん顔のくせに!」
ガルル…と犬の様に唸ると同時に小さく握った手がブンブンと速度を上げた。
「思春期の男子は素直じゃないんだ。察しろよ三好」
「頭抑えながら言う事じゃないもん!!」
こいつが見た目通りの小動物なら小さな牙を剥きながら尻尾を逆立てているに違いない。
「悪かったって、悪かったって。じゃ、帰ろうぜ三好」
ピタッと目まぐるしく回転していた拳を止めるとむうっと不服そうな顔を見せたが少しポンポンと頭を撫でてやると反抗的な目を辞める。
ホントに小動物みたいなやつだよなあ。
「一愛!またね!長谷君も!!」「一愛をよろしくね!」
次々と手を振る女子達にお~と海底で揺れる昆布の様に無気力に手を振ると、「もう、そんなんじゃない!」とか、「またね!」とか、同じような返答にいちいち頬を赤らめたり、眉を吊り上げたり、表情を七変化させる三好を置いたまま教室を出る。
さて、ようやく静かになったな。
ブレザーのポケットから自転車の鍵を取り出し指に引っ掛け、空いた右手に胸ポケットから取り出したスマートフォンを構えて画面を見ながら歩き出す。
「長谷君また置いてこうとした!!」
「何すんだ三好!この小動物が!!子犬の様に大人しくしてろ!!」
隠す事も無く頬をふくらませた三好が襲い掛かる。
「子犬じゃないもん!!小動物じゃないもん!!長谷君が意地悪なんだもん!!」
「痛たたたたたた!!!」
負けじと膨らませた頬を両手で引き延ばしてやる。
「はひゅくふもがいじじわらろなんらも!!」
ふふっはっはっは笑いが止まらないではないか。減らず口さえ塞いでしまえば―
「長谷君のバカぁ!!」
目の端に小粒の涙を浮かべながら頬をつねる手を更につねって来る。
「いたたたたた!!!短時間で適応してんじゃねえよ!!」
「長谷君が悪いもん!!長谷君は悪いヤツだもん!私は悪くないもーン!!」
「大福みたいな面のまま流暢に喋りやがって!!」
自転車の荷台に膨れっ面のままの三好を乗せて平然と漕ぎ進める。二年生の中盤から始まった二人乗りには、とっくに慣れて、いつの間にか僕はこのイベントを引き継いだまま、高校生最後の年に移行してしまったのだ。
三好は母親と共用で自転車を使っており、母親がパートなどで使う日にはそこそこの距離を歩きで登校する。
二年生で初めて同じクラスになった僕は、それまで名前も知らなかった三好を夏休みが終わって二週間もたったころには登下校を共にする仲になっていた。
とはいえ、実際のところもちろん僕が作った関係じゃない。
三好はこんなだから友達も多いし、誰にでも分け隔てなく、同じように話しかける。登下校で見かける度に声をかけられ、見ての通り邪険に扱い難い為に少し話に付き合ってみるといつの間にかだ。
「いつまで膨れ面してんだよ。分かった分かった。僕が悪かった。三好の方が悪いけど僕が悪かった。お詫びするからもう許せよ」
ん?間髪入れずに返事が返って来るかと思いきや、思いのほか遅い返答に思わず振り返って三好を見ると、文字通り爛々と眼を輝かせてぱあっと花を咲かした様に笑っている。
二次元のキャラかお前は。初めて見たわけじゃないが、通常の人間には真似できないほどに純真無垢な笑顔だ。
「じゃあー、んーと、イヤ違うなー、もったいないなあ…んーと、んーと…」
そんなに考え込む様な事か?と意図せず呆れ顔になってしまった。
「聞くだけ聞いてやるから言ってみろ。言っとくけど、僕は無条件でOKは出さないからな?あくまで僕が納得したうえだぞ?」
後ろを振り返らずとも三好が困った様な、拗ねたような表情を浮かべているのが分かった。まぁ三好の生態は大方把握している。一つは完璧に予測が可能だ。
「じゃあね、次の土曜日お休みならお化け屋敷いこーね♪」
うん、凄まじく予想通り。三好は多くは望まない。
「あー、シフト確認しとくよ。入ってなかったらな」
いつもいつも一人暮らしを続けるためにバイト生活を送っている僕は三好の誘いを断ってばかりだ。
後ろの至福に緩み切ってほっぺたを引っ張ったら餅の様に伸びそうな顔になっているだろう。まだ決まったわけでもないのに。
こいつは多くを望まない。なんでそうなのかとか、考えてみる気も無いけど、些細な事で一喜一憂し、辛い事はあっという間に忘れ、十秒も経てば笑いあえる。
こいつはそういうヤツだ。それがどれだけ特別で、どれだけの長所で、どれだけ優れた事であるかなんて、三好は気付きもしなければ気にも留めないのだろう。
三好 一愛はそういう人間だ。
「おい、まじで大福になってんぞ。で、もう一個ってなんだよ。気になるだろ」
「は!楽しかった!!」
こいつの脳内では、五秒で十日ほど経過したようだ。
「寝ぼけてんじゃねえよ。で、もう一個ってなんだよ」
「あ、危なかった!私まだ長谷君におばけ屋敷連れて行ってもらって無かったよ!」
しまった…起こさなければやり過ごせたのか。バクみたいなやつだなしかし。
「長谷君はクラスの係ってもう決めた?たしかまだ決めて無かったよね?アタシもまだなんだけど、候補とかあったりするの?」
そういえば新学期早々の小事を忘れていた。はやいところ面倒事の無い係を見定めて来週末までには候補を絞っておかなければ。あまりものじゃんけんなんてごめんだ。
「長谷君の事だから、風紀委員は名前だけって感じでよさげ、っと思いきや、校内見回りとあいさつ活動なんて正気じゃない。とか、学習委員なら楽そう、とまでは思ったモノの、自分も提出物遅いからやっぱりだめだ。っとか考えてそうだね」
うっ、この野郎。脳内お花畑のくせして頭がとろくないから侮れない。
「ふん、甘いなあ三好。僕は名前通りと予測して地雷を踏む様な真似をするほどおろかじゃないよ…確実かつ、堅実に難を逃れるには策だ!まずは教員から他クラスに及ぶ徹底的リサーチ!だが、これだけで決めるヤツはアホだ!ここで第二ステップ!今年の顧問だ!さも積極的かつ真面目ぶった態度で地雷原と思われる教師から探れば、残った係になろうとも決して外れくじではない!そして同学年へのリサーチ時点で決して同じクラスの人間からは絶対に情報を得ない!自らの策を敵へ漏らすなど愚行だ!この二段階にわたる調査を、徹底的に来週末までに行った上で係争奪戦に参加する予定だが異論あるか?」
はっはっは…ふふっ、ふっはっはっはっは…高らかな笑いが止まらない。今の僕にとってはママチャリでさえ王侯貴族の跨る白馬でしか無い。
三好はすぐには返事をしなかった。僕ら二人の間に流れている空気は効果音で表すならぼーーーーんとかが妥当だ。
なにより高揚感で高笑いが止まらない僕には見えていない事だけは確かだ。
「長谷君は後ろ向きには全力疾走だね。でも長谷君」
「なんだ?いや、なんだね?言ってみろ申してみろ。僕に何でも打ち明けて来い」
「それだけのリサーチする事がもうめんどくさいとは思わないのかな…」
何を言ってるんだこいつは。自主的なめんどくささはノーカンだろ。
「長谷君そんなに真面目な生徒で通ってないと思うし、先生の前じゃ誤魔化すのはちょっと、難しいんじゃないかな?」
う、そんなものはその時次第でどうにでもなるくらいのポテンシャルはある。筈だ。
「長谷君ってあんまり人と喋らないし、友達といる所とかあんまり見た事無いから、同じクラスならまだしも、他クラスの人にリサーチするのは、その、無理が、あるんじゃない、かな?」
ゴブッ――ふ、ふふ、やるじゃあないか三好…鳩尾に鐘突きの丸太を食らったくらいの一撃だったよ…だが僕は倒れん!足が小鹿の様にへにゃへにゃになろうが、倒れないヤツは負けないんだよぉ!!
「あとね、長谷君。私と長谷君、同じクラスだよ?」
ぬふッ――思わず吐血する。負けた??!小娘に!!負けた!!
「きゃああああああ!長谷君!!長谷君?!血が出てるよう!!口からなのか目からなのか鼻からなのかお尻からなのか分からないけどとにかく血が出てるよう!!!」
風邪薬のCMか!!
百歩譲って目、口、鼻の三点は受け止めってやったとしてもケツから出るわけねえだろうがぁ!!僕は切れ痔じゃねえよ!!と、突っ込みたいが心の砦を無情な連撃で破壊された僕に突っ込みを放つ余力はない。
アガガガガガガガとか壊れたロボットの様にがくがくと震えるだけだ。
荷台に座る三好には僕が壁となってかからないにしろ暴発した僕のO型の染色体達が夏の花火の如く咲き誇って風に運び散らされているのが見えているのだろう。
「いやあああああああ!!長谷君!!長谷君!!!お願い戻ってぇぇええ!!」
異常修復―ERROR COMPLETE.
ハッ―まず日常生活じゃ聞きそうにない三好の凄まじい悲鳴のおかげでようやく復活する。ところが目を見開いた先には前輪が堤防の坂にバンクインしていた。
オワッ!ちょっ、これ!!ガガガガガっとタイヤと斜面がしのぎを削り合う。
ホゲイ!とか言いながら僕は倒れ込む。シーシェパードと言い争う気はない。
倒れる前にホールド不足で早い段階で投げ出された三好ははわわわわとか言いながら堤防の坂を転がる。
三好は堤防の原っぱに腰掛けてパッパッと制服やらカバンについている草を払った。
倒れたままキーキーと哀愁漂う鳴き声を出しながら車輪を回す自転車をそのままに、僕と三好は隣り合って沈みかける夕陽を眺める。
「ひどい目に合ったな」「今日はバタバタだねぇ」
三好の明るい髪色が夕日に溶けると、ボーっとした思考のせいか、背景との境界線が見づらくなった。
んしょっと一声入れて三好は立ち上がると、自転車を起こしスタンドを立て、また僕の隣に腰掛ける。
「意外と丈夫なもんだよなあ自転車って」
あれだけの衝撃を受けても僕の日常の足は欠損や歪み一つ見て取れなかった。
「形状記憶だね」
どんだけ激しい思い込みなんだよ。
「ねえ長谷君」
なんだと返す僕の声色には哀愁漂うモノがあった。今日はとてつもなく疲れたからだろうが、なんだかんだ夕日の一番きれいな所で隣に女子がいるからなのかもしれない。
「いいこと教えてあげよっか?」
うーむ…
思わず考え込んでしまった。三好の特性上一人で盛り上がるスキルがかなり高い。こう期待させようとする言動からはついしょうも無い事を満開の笑顔で提案してくるんじゃないか、とか思ってしまう。ところが今日の僕はお得意のひねくれすら表に出す体力が無い。素直にその先を聞くとしよう。
「ぜひとも聞きたいね」
即座に三好に表情を覗き込まれる。
最早声色のみで僕が惰性で口の開閉を行っているという事を見抜いてしまうのだこいつは…ところが本人も言いたい気持ちが勝って、複雑な表情を一瞬見せながらも口を開いた。
「探さなくても、ラッキーな係あるよ?」
「いや、三好、聞くけど、そんなにすぐ出る答えなら敵も多いんじゃないのか?」
んーんと得意げな顔で首を横にする三好を目にすると、つい対抗したくなる。
「大体なぁ三好…お前は何も分かってない。大事なのは結果じゃない。結果も大事だ。だが知的な人間であればあるほどすぐに手に出来る答えよりも自らの力で勝ち取りたくなるものなんだよ。今の僕がまさにそうだ!困難も有るだろう…それは承知だ…」
「だがなあ三好…逃げ続けるヤツは弱いんだ。勝ち取れないヤツは皆そうなんだ。そんな奴らは明日からTHE・ハンペンという異名を背負いながら生きていく事になるんだ」
「多分簡単になれちゃうんじゃないかな?楽な係。正確には委員会だけど」
え?僕のプライドがギリギリと軋みを上げる。
「え?何それ最高じゃん。早速だが教えてくれ」
「長谷君って呼べるのは今日いっぱいかぁ」
三好の黒眼が倍ほどに見える。死んだ魚の様な目だ。
道のりが険しい方がとかいうヤツは大体だがクリアできる難易度に挑戦してる奴だ。今の僕は三好に頭を下げれば教えてやると言われたのなら50m8秒フラットのコメントしづらいスピードで幅跳びを行い、その勢いのままにジャンピング土下座を決めて見せる。
「長谷君恥ずかしいから全身でクネクネしないで。どの体勢からでも土下座を繰り出せそうな独特のダンスを今すぐ辞めて」
三好の小さな顔で際立ったぱっちりと大きな瞳が呆れ顔になると口の切れ目が動きながらパクパク喋るマリオネットにしか見えない。
「おっと、僕とした事が万全に誠心誠意お願いする体制をとってしまっていたか…」
格闘技経験者が踵で立ち背を丸めネコ足立ちの構えをとるのと一緒だな。
「表現も美化しすぎるとカッコ悪く見えるんだね」
「まあそんな事はいいとして、結局なんなんだ?どれも一長一短な気がするぞ?」
「ふふーん、私達が今年から三年生という事に注目です♪特別な委員会…そう、文化祭実行委員会!男女1組が条件だからクリアしてるし、きっと楽しいよ?」
なんと…なんと!文化祭…学生が主催の大規模な行事。高校によっては長期の休校と同時に催され、1年に1回!そう、365分の、わずか三日間の為だけの委員会!!
「よし、やろう…やるぞ三好…僕とお前は運命共同体だ!!」
「わーい!絶対だよ?来週の金曜日に立候補しようね?わーい!わーい!!」
互いに手を結び合いスキップしながらただ回り続ける。短く切り揃えられた芝生もこうしているとアルプス山脈の大地でしか無い。
ハンサム顔であっはっはっはとか言いながら回ればさまになるのだろうがお花畑系女子独特の朗らかなスマイルで愛嬌をふりまく三好に向かい合う僕はうっへっへっへっへと呻くような笑い声でにんまりと悪魔じみたスマイルを浮かべてしまう。
美女と野獣ではない。少女と魔獣だ。
ピリリリリリリリ…僕と三好は夢の世界から起こしたのは携帯のアラームだ。
「まずい!!もうバイトの時間が近い!!」
ボケたままの三好をペチペチと頬を弱打し起こす。
「へ?はわわどうしたのかな長谷君?」
「乗れ!!時間だ!お前を送り届けてすぐにいかないと!!」