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ノーネームと白  作者: 紗冬
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1. ななしと白い教室

 息が白く染まる。

 冷えきった教室の隅で白に染まっては透明に溶ける息をぼうっと見つめていた。それがなんとなく自分に似ている気がして、もう一度息を吐く。透明になりきれない白。誰にも見てもらえない白。この息はすぐ透明になるけど、自分は白いままこの教室を漂い続ける。透けない輪郭をマフラーで隠すと、吐いた息が紺色の毛糸に絡まる気がする。

 あ、それやば、と左の方から声が聞こえてそっちを見ると、窓の前で女子たちが楽しそうにはしゃいでいた。こんなに寒いのに女子たちのスカートの丈は揃って短くて、見ているだけで寒気がする。何を競ってそんなに短くする必要があるのかはわからない。だらしない太ももをさらけ出した女子たちは窓ガラスに息を吹きかけて、白く染まったところに絵を描いていた。キンキンと妙に高い笑い声がうるさくて嫌になる。

 ガラス窓の前の陽気さとは逆に、窓の向こうには寂しい風景が広がっていた。ついこの間までは綺麗な紅葉を切り取っていた窓枠が今は寂しい風景を見せるだけの額に成り下がってしまっていて、薄い灰色の空や葉が落ちて枝だけになった樹々を見ているとまた寒気がした。そのまま窓の外を眺めていると、今度はそこに大きなエナメルバッグを背負った黒い学生服の集団が現れた。全員が口を大きく開けて笑っていて、少しおそろしくなる。何がそんなに楽しいのか。窓際の女子も、廊下の黒い群れもそんなに学校が楽しいのか。

 そんなことを考えながら見ていると、群れの中の一人と目が合いそうになって咄嗟に視線を逸らした。わざとらしく今度は右側の磨りガラスを見る。そこに水滴はついなくて、左側の窓のように絵を描くことも出来ない。逃げるように右手を伸ばすと簡単に磨りガラスに触れた。指先がじんわりと冷えていく感覚は何かに似ている。染み付くような冷たさ。何だっけ。何だっけ。指を動かして円を描いたり、線を描いたりしてみたものの、それが何か思い出すことは出来なかった。

 磨りガラスの向こうを、さっき廊下を歩いていた黒色の集団が通り過ぎる。いくつもの影がぼやけたガラスの向こうで動く。多分、サッカー部かバスケ部の奴ら。

 冷やされた指先を温めようとポケットに突っ込んで使い捨て懐炉に触れて、やってしまったと後悔する。懐炉を交換するのを忘れていた。温度のない物体がポケットの中で横たわっている。

 この廊下側一番後ろの席で過ごす冬はきっと誰よりも寒い。暖房が効いているのならまだしも、朝のこの時間は使用禁止だから室内なのにマフラーを外すことも出来なかった。仮に暖房が効いていたとしても、後ろのドアが開く度に鋭い風が足元を吹き抜けるせいで寒いことに変わりはないし、結局どうしようもできないから椅子の上で三角座りをしてチャイムが鳴るのを待つ。

 最悪だ。今朝は母の機嫌が悪かったからいつもより早く家を出てきたのが失敗だった。三十分も早く着いてしまったし、懐炉を替え忘れる始末。コンビニかどこかで時間を潰してくればよかったと、温かい飲み物でもあればまだましだったと、思ったところで購買の存在を思い出す。けれど今から外へ出る気にもなれなくて、一人じめじめと後悔している。

 暇つぶしにとぐるりと教室内を見渡す。十人もいない教室はすかすかして、落ち着かない。全員いても窮屈で落ち着かないのは同じだけど。あと何回後ろのドアが開いて、あと何回震えればいいのか。ため息をついて呟く。最悪だ。そうやって不満を垂れつつも、他に行く場所なんてないからここにいる。いつもひとりでいるくせに、自分の居場所を見つける器用さは持ってはいなかった。

 がらっと音を立てて後ろのドアが開いた。予想通りの冷たい風が吹き抜けて全身が凍り付きそうになる。みんな前から入ればいいのに。


「や、おはよう」

 陽気な声と共に肩に骨ばった手が置かれた。振り返るとにこにこと満面の笑みを浮かべた佐藤が立っている。気色悪い。

「触んな」

 睨みつけると佐藤は驚いた様子で肩から手を下ろして「ごめんごめん」と謝るけど、そんな気は一切ないのが伝わってくる。黒色の毛糸のマフラーに口が隠れていても、まだ笑っているのが分かる。佐藤の猫に似た目がぐっと歪んでただ気持ち悪い。

 早くいけよ。はいはい。つまんないの、と佐藤は笑顔を終わりにして自分の席へと向かう。他の女子とは違い、長く伸ばしたスカートと短い髪の毛を揺らしながらゆっくりと通路を歩く。

 佐藤の歩き方はだらしなく、そして遅い。そんなに遠いわけでもないのに何故か時間がかかる。厚着をしていても痩せてみえる背中が少しずつ遠くなる。

 佐藤が自分の席に向かうその途中で他のクラスメイトたちが「雪おはよう」とか「せっちゃんおはよー」とか声をかけるのをじっと見ていた。窓に絵を描いて楽しんでいた女子たちも一旦手を止めて佐藤におはようと声をかける。みんなが佐藤を見る。みんなが佐藤の名前を呼ぶ。


 佐藤雪には沢山の名前があった。せっちゃんとかさとぴーとかさとせつとか。中には馬鹿にされているとしか思えないような名前もあったけれどそれでも佐藤は返事をする。様々な名前で呼ばれる佐藤は、色んな餌を与えられ、色んな人の手のぬくもりを知っている。そして差し伸べられた手にすり寄る方法を知っている。

 そんな佐藤とは反対に、生きるのが下手な自分は教室の隅で一人、寒さを必死に凌いでいる。佐藤のように餌を与えてくれたり、名前を呼んだりしてくれる人はいない。だから「たまに自分の名前を忘れそうになる」けど、誰もそれを理解してはくれない。前に佐藤に言ってみたけれど、佐藤は「へえ。そうなんだ」といつもと違って、やけに薄い反応だった。苗字でも名前でもあだ名でも自分を呼ぶ人なんてここにはいない。なあ、ねえ、おい、ちょっと、お前、それが名前。


「なあ、図書室行かね?」

 どこから湧いて出てきたのか、顔を上げると黛が笑っていた。佐藤とは反対の、少し垂れ気味の目がじっと見つめてくるのが苦手でまた下を向く。

「その席、寒いだろ」

 図書館ストーブあるしさ、と付け足して愛想よく笑ってみせる。ひとりでいけよ。どういう理由があって自分なんかを図書室に誘うのかは知らないけど、この黛という男はやたらと構ってくる奴だった。

 黛も佐藤のように沢山の名前を持っていて、沢山の人と触れ合っているくせに嫌がらせのようにこの廊下側一番後ろの席にやって来る。そしてその度に名前を呼ぶこともせず、温かいストーブのある図書室に誘ってくるのだけど断り続けている。今日も断ると黛は「わかった」と目の奥以外で笑って教室を出て行った。

 教室を出てすぐに一緒に図書室へ行く人を見つけたのか、磨りガラスの向こうで黛の黒と誰かの黒がぼやけて同じ方向へ進んで消えた。


 マフラーの下でまた息を吐いて、冷えきった懐炉の傍で更に冷たくなっている携帯電話を取り出す。携帯電話ですることといえばオセロゲームくらいだった。最近上級者レベルを越えて裏ステージに挑戦出来るようになったのに、これが中々手強く全く勝てない。初心者レベル、中級者レベル、上級者レベルを越えて来たわけだから裏ステージなんて簡単にクリア出来ると思っていたけれど、結果はいつも惨敗だった。“NONAMEさんの負け”と表示された画面はもう数え切れないほど見てきた。今度こそ勝てるように力を込めてボタンを押す、瞬間、黒が白に囲まれる。それからいつもと同じパターンに入る。すでに画面は殆どが白で覆われていた。角も取られてしまっている。負ける。

 溜息をついて顔を上げると、佐藤がにやにやしながらこちらへと近寄ってくるのが見えた。ゆっくりと歩くその姿は前から見てもだらしなく、溜息が出そうになる。

「またオセロ?」

 携帯電話を覗き込ながらどこか呆れた風だった。“NONAMEさんの負け”と表示された画面を見て「負けてるじゃん」と言うのが鬱陶しくて舌打ちで返事をすると佐藤はおかしそうに笑い、感じ悪う、と小さくつぶやく。

「この席、相変わらずさみーね」

 じゃあ来るなよ、と言いたくなるのを堪えて無視を突き通す。来るなと言ったところで佐藤には通用しない。それは黛も同じだった。


 今年の春、転校生としてこの教室に足を踏み入れてからしばらくは、“転校生という存在を珍しがる人々”に囲まれる日が続いていたけれど、気づくと周りには佐藤と黛しか残っていなかった。それについて「無愛想だからでしょ」と佐藤に言われたのがまさにその通りで、人と関わるのが苦手で一人でいるほうが楽だから、他人を思いやるような接し方も出来なければ、自分から話をしに他人の元へ行くこともない。きっと、名前を呼ばれないのもそのせいだ。

 自分の元から人が離れていく理由はよく分かるし、むしろそのほうがありがたい、だからこそ佐藤と黛については未だによく分からない。二人が構ってくる理由に、一つだけ思い当たる節があるのだが聞こうにも聞けなかった。佐藤たちと知り合って八ヶ月。その間、ずっと悪態をついてきたというのにしつこく構ってくる二人だ。この二人はきっと卒業するまで自分のところへやって来るだろう。そして、卒業するまで名前を呼ばれることはないのだろう。なあ、おい、お前。佐藤と黛の声で再生される呼称はそれだけだった。


 ぶつぶつと文句を垂れる佐藤を徹底的に無視し、もう一度オセロを始める。またすんの? とつまらなそうな表情を浮かべる佐藤が視界の端に映っていた。つまらないんならどこかいけばいいのに。

 白が最初の端を取る。この流れは何度も経験した流れだった。きっとこの勝負もいつもと同じ。先程まで慎重に置いていた黒い石を今度は投げやりに置く。


「あ、秋」

 図書室から帰ってきたらしき黛を佐藤が呼び止める。

「また本借りたの? 読まないのに」

「読むから」

「嘘だあ。お前が本読んでるところ見たことないし」

 佐藤の言葉遣いは粗暴だった。女子とは思えない喋り方をするし、人のことをお前だとかあんただとか呼ぶことも多い。初めて話した時から佐藤は男っぽい印象が強かった。喋り方だけでなく、はっきりと整った目鼻立ちや短い髪の毛のせいでそういう印象が離れないのだろう。

「黙れよ」

 黛はアーモンド型の目をぎゅっと細めて佐藤を睨む。冷たい表情。佐藤以外には絶対にしない表情だった。前に二人は家が隣同士の幼馴染だと聞いたことがあるけど、それにしてはあまり仲が良さそうには見えない。変な空気が漂っている。誰にでも愛想が良く、いつも笑っている黛が佐藤の前ではあからさまに嫌そうな顔を浮かべるのだ。もしかするとそれが本来の黛で、長年の付き合いから佐藤の前では素の自分を出すことが出来るのかもしれない。喧嘩するほど仲が良いということなのだろうか。何にしろ転校ばかりで幼馴染みの居ない自分には縁のない話だった。

「見せて」と半ば強引に黛から本を取り上げると、佐藤はその骨ばった手でするするとページを捲った。佐藤と本は似合わない。豚に真珠、猫に小判。佐藤に書物。それくらいに佐藤が本を持っている姿は違和感がある。


 すっと黛と佐藤の視線が本からドアの方に移った。「おはよう」と二人が同じ方に向けて声をかける。佐藤たちの挨拶に「おはよう」と返す甘い声の主は振り向かなくても分かる、白江だ。

「今日も寒いねぇ」

 佐藤の大人びた声とは違い、白江のそれは幼さを残した甘いものだった。白江の語尾を伸ばす癖もあって幼さは一層増す。

 白江が佐藤の隣に来る。背の高い佐藤と並ぶとクラス一背の低い白江は小学生のように見えた。

 一瞬だけ目が合ったが、白江は何も言わなかった。大きな茶色い瞳に自分の姿が映っていることを確認しても、それでも白江は何も言わなかった。まるで見えていないかのように白江は無視をしてくる。だからこっちも何も言わない。

 転校してきた当初、白江はやたら話しかけてきていた。話の内容は当たり障りのない、前居た学校のことだとか部活動のことだとか。それが日が経つにつれ態度が変わっていき、今のように無視してくるようになった。きっと無愛想だから愛想を尽かしたのだろう。無意識に他人に対して見えない壁を作ってしまうのは昔からの悪い癖だった。


「わたしなんかこの下に三枚も着込んでんのに震えが止まんないし」

 ブラウスの襟元を摘んで佐藤が笑う。その下に三枚も着込んでいるというのに佐藤は痩せてみえた。佐藤の体は人一倍細く、折れそうに見える。

「三枚は着過ぎだよ、雪ちゃん」

 そう言って白江が浮かべたのは距離を置いたいやな笑顔だった。佐藤はそれにも気付かず、頭の悪そうな顔で「だって寒いじゃん」と返す。

 白江は「そおだね」と淡いクリーム色のカーディガンの袖口から少しだけ指を出して口元を押さえながら、大きな垂れ目を細めて笑った風に見せかける。薄く化粧をしているというのに、小学生のような幼さがまだ残っていた。胸辺りまで伸びた栗色の髪の毛と、わざとらしくカールさせた毛先が、動きに合わせてちらちら揺れ、目障り。

「あー、しろ今週週番かぁ」

 黒板の隅に書かれた自分の名前に気づいて白江はため息を付いた。

 白江は自分のことをしろと呼ぶ。白江と言う名前を気に入っているらしく、自分のことはしろと呼び、他人に名前を呼ばせる時も、しろもしくは白江しか認めなかった。そんな風にして、他人に名前を押し付けることが嫌いだ。

「じゃね」

 白江の目に自分の姿は映っていない。映っていないと言い聞かせるように名前も呼んではくれない。最後にもう一度いやな笑顔を浮かべると、白江は背中を向けた。長い髪を揺らして教室を歩く白江は佐藤と違い、きびきびとした歩き方だった。

 佐藤と同じように、白江に気づいたクラスメイトが声をかける。おはよう、しろちゃん。しろおはよう。それに対して愛想よく返事をする白江。佐藤と同じことをしているのに、白江はどこか計算しているように見える。

 白江が席についた途端、白江の取り巻きたちがそこへ集まっていく。その輪から聞こえる高い笑い声が教室内に響いた。


「あー、まじでさみい」

 黛が両手を口に当て息を吐く。その後に手を擦り合わせる音がうるさい。佐藤は黛の本を脇にはさみ、黛と同じことをした。

 そんな二人を無視して画面の白黒だけを凝視する。白よりも黒の方が圧倒的に多く、深い溜息が出そうになる、のを堪える。

「秋、懐炉的なもの持ってないの?」

「持ってない。お前は?」

 黛の言うお前が自分のことを指していることに気づいて顔を上げる。それから、黙ったままポケットから冷えきった懐炉を出して黛に投げつけた。黛はそれを上手にキャッチして「お」と声を出す。

「なんだ、冷えてんじゃん。昨日の?」

「懐炉の死体だ」

 佐藤が黛の手から懐炉を奪ってそう言った。冷め切った懐炉をぎゅっと掴んだり振ったりして一人で楽しそうに笑う。そんな佐藤を、黛と同じ冷たい表情で見る。

 佐藤になりたいとは思わないけれど、佐藤になれたら楽なんだろうなと思う。


「やー、役立たずだねー」

「うるさい」

 あははと笑う陽気に佐藤。一体何がおもしろいのか分からない。ウザい。黛の方を見ると、興味なさそうに教室の前の方を見ていた。興味ないならどっか行けばいいのに。

「自分の席にさっさと帰れよ」

「えー、いいじゃん。だってさー」

 そこでチャイムが鳴る。途切れた言葉は途切れたままで佐藤と黛は自分の席へと戻っていった。佐藤は相変わらずの歩き方で、自分の席に帰るだけなのにもたもたと時間がかかる。見ているだけでため息が出そうになる歩き方だ。


 二人の背中から目を逸らして携帯へ移すと、白だらけの画面と“NONAMEさんの負け”という何度も見た文字列が液晶の中に浮かんでいた。

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