一話 癇癪持ちで、おモテにならない伯爵様
遡ること百年程前、突如として絶対王政を揺るがす革命が起きた。
かの国は王族と少数の特権階級者達が権力を握っていた。彼らは税を納めなくてもいいという特別な権利を持っており、更には厳しい課税で民を虐げていたのだ。
そのような政治が長い期間成立する訳もなく、国王が代替わりする度に国はどんどん傾いていった。
貴族や神話教会などの特権階級を持つ者達の作った穴だらけの赤字政策と王宮での贅沢三昧な暮らし、加えて長年の戦争の介入によって財政破綻間近となった為に、今まで以上の度重なる増税が行われた。
何度目かの増税が噂される中、議会で早急に金策決議を強行しようとする特権階級議員と、金の力で発言力を得た市民寄りの考えを持つ新興資本家議員との間で対立が始まる。
一方で、増税により物価が上がり続け、市民達の生活は困窮の一途を辿っていた。
増税反対を訴える市民団体は日に日に勢いを増していたが、ある日物騒な噂が流れてくる。国王軍が反抗する市民を制圧する作戦が組まれていると。それに加えて度重なる増税の執行や国の財政を赤字に追いやった大臣の罷免も決定し、市民の不満は爆発した。ただちに三万の兵を終結させて、財務大臣が収容されていると囁かれていた監獄を襲撃する。
この事件が革命勃発のきっかけでもあった。長きに渡る内戦の結果、敗北したのは特権階級者だった。五十万人の貴族と神話教会、二千五百万人の平民とでは数で負けてしまう。当然の結果であった。
以後、国政は様々な身分を持つ者の均等な人員を割いた議会を行うことを決定し、君主であった王族は政治に参加をしない国の象徴となったのだ。
この革命で没落に追いやられた貴族も多く、真面目に勤めを果たさない場合は一気に糾弾される。
以降、一家凋落を逃れることに成功した貴族や、神話教会の聖職者達は市民の革命を恐れ、真面目に働くようになったという。
◇◇◇
そんなかの国に、とても狡猾な外交官が居た。名をフローリアン・フィリップ・ド・キャスティーヌ。齢三十四にして、外交官の最たる地位を示す特命権代理公使の地位を手にしていた。
キャスティーヌ伯爵家と言えば外交官の道が約束された一族だと言われていたのは一世紀も前の話で、現在の上級官職員は首相から任命されているのだ。
国の政はほとんどの国は貴族が行うものとされているが、この国に至っては事情が違う。
革命によって国王は『君臨すれども統治はせず』という信条を翳し、主席の大臣たる首相は国民議会の議決により選出される。
各官職の長を務めるのは経験豊富な議員が選ばれる場合がほとんどだ。年齢で平均をすると四十代の後半から五十代位とされていた。
そんな中で若輩であるフローリアンが外交官の長となる地位を手に入れたのには理由があった。
今から数年前、当時財務大臣をしていた大貴族、ジョセフ・アルマン・ド・リシュリュー侯爵の汚職を偶然にもフローリアンが発見したのだ。人手不足の内政捜査機関の臨時査察員も勤め上げ、贈収賄の家宅捜査などを徹底的に行った結果、疑念を確証に変える証拠を手に入れる事となる。
以上の働きにより首相から信頼を得て代理公使補佐を命じられたのだ。
それからしばらく経った後、転機は訪れる。当時上司だった者の外交中の問題発言がきっかけで失脚し、当時二十九歳という若さで特命権代理公使の任に就く事となったのだ。
大貴族の汚職事件を踏み台にして成り上がり、親切にしてくれた上司の失言から出た損失を補わないで自らがその地位に納まるという行いをするフローリアンを、影で悪く言う者はたくさん居た。
だが、彼は何一つ気にしていない、太い神経を持っていたのだ。
そんなフローリアンが外交官の長たる地位に納まり続けていられるのには訳があった。
かのキャスティーヌ伯爵家には、異国との交渉や交際などの実際的な知識を有していたのである。
幼い頃より様々な国の言葉を覚え、社交性も磨き上げる。複数の国へ留学などもして文化や歴史を学び、好き嫌いなく物事を受け入れることが出来る視野の広さも学ぶのだ。
現在の外交官の中でフローリアン以上の外交術を有する者は居ないとまで言われる程に、彼は優秀な人材でもあった。
しかしながら、フローリアン・フィリップ・ド・キャスティーヌ個人は多大な問題を抱えていた。一つ目として、内に秘めた性格の悪さである。
◇◇◇
フローリアンは異国に嫁いだ妹からの手紙を握りつぶして暖炉の中に放り込んだ。盛大な舌打ちと共に、一人掛けの椅子に乱暴に腰掛ける。
手紙の内容は嫁ぐ際に交わした約束を反故にするものであった。
妹・オーベールはフローリアンの猛反対を押し切って異国の地の者と結婚をした。
そんな言う事を聞かない妹とはある約束を交わしていたのである。それは、第二子は性別に関係なくキャスティーヌ家の養子にするというものだった。
フローリアンは結婚をしていないので、現在伯爵家に跡取りは居ない状態となっている。下の弟が結婚した時にも子供は渡せと言ってあったが、四年経った中で懐妊の兆しを見せた事は一度も無かった。
頼みは異国へ嫁いだ妹であったが、オーベールは二番目に生まれた娘を兄に渡すことを拒んだのだ。
姪の名前はアルベルタ。フローリアンは女が生まれたらこの名前にしろと、妹と同じく異国の地へ旅立った王族から取って付けた名であった。渡す気が無いのなら別の名前にすればいいもののと、忌々しく思う。
彼自身、何故結婚をしていないかと言えば、単純に女性との付き合いが面倒であるという一点だけであった。
女性との付き合いは忍耐が必要だ。ご機嫌を崩せば大変なことになる。
フローリアンも若い頃は伯爵家の当主として跡取りを得る為に結婚をする事も考えていた。婚約まで漕ぎ着けた事もあったが、多忙が重なってその女性が望む日に逢瀬が叶わぬような日が続き破談したのだ。
フローリアンはそんな元婚約者の、ある言葉が記憶に残っていた。
『伯爵様は、自信がおありで、世渡りに長けてらっしゃるのね』
これは聞いたままの意味ではない。『狡くて威張り散らしている』という遠まわしの嫌味だった。
何故外交相手で無い女性の言葉の裏まで読まなければならないのかと、フローリアンは憤る。
だが、それから諦めずに何度かのお見合いを行ったり、夜会で出会った女性と親しくする時間を過ごしたりしたが、ついに無駄な行為だと感じてしまう。妻となる女性のご機嫌取りをする暇など無いと気付いてしまったのだ。
幸い、魅力的な財産は山ほどあったが、フローリアン自体は魅力的な容姿をしている訳では無かった。キャスティーヌ家の特徴である垂れた目は、常に世を憂いでいるかのように見える。そんな印象では外交官として頼りないと思われてしまうので、二十代前半の頃から口と顎に髭を生やしていた。老けて見えるので家族からは不評であったが、仕事の為なので仕方が無いと強く言って黙らせていた。
若くして立派な髭を生やしていた為に、夜会でも近付いて来る女性は皆無だった。
社交界で花となる男は華やか見た目で、かつ女性を姫君のように恭しく扱う者だったのである。
しかしながら、己の中を渦巻く性的な欲求が全く無いという訳ではない。が、そういう気分となれば秘書が商売女の手配をしてくれるのだ。
以上の理由が三十四年間も独身を貫いている理由である。
……と、そんな風に本人は独り身の理由を言っているが、家族からは単に自分勝手な性格に付き合いきれる女性が居ないだけだと囁かれているのを、フローリアンは知る由もなかった。
◇◇◇
今宵は着飾った者達が集まる舞踏会が王宮で開催されていた。かつてはほとんど毎日のようにあった夜会も、革命後は年に一度だけと定められている。
流行りのドレスを纏った若い令嬢達はきらびやかな世界に目を輝かせつつも夢心地でいたが、付添人の冷静な耳打ちの言葉で我に返っていた。
夜会に来ているのは若い男女だけではない。様々な年齢の者達が、社交を目的として参加をしているのだ。
キャスティーヌ伯爵家の当主たるフローリアンも例外では無かった。普段は弟に任せきりな国内の人付き合いを、一年に一度だからと嫌々行いに来ている。
滅多に貴族達の晩餐会などに現れないフローリアンは、一気に取り囲まれてしまった。
長時間にも渡る会議と山の様になっていた書類を捌いた後で疲労困憊ではあったが、にこやかとまでは言わないものの、ある程度は愛想良く周囲の会話に乗じる。
それから三時間ほどが経ち、囲まれた人も居なくなって久しぶりに会う異国の親しい人間との会話をする余裕も出て来た。
話題は専ら政治関連や他国の情勢についてだった。どの国もきな臭い問題を抱えており、油断ならない状況はこの先何十年と続くだろうというのが先見者達の推測である。
時刻は日付も変わろうとしていた。そろそろ帰ろうかと、久々に会った旧友に別れを告げる。
一年に一度の舞踏会は朝方まで行われる。早い帰りだと囃されるが、明日も仕事だと言ってその場を後にした。
結局、今回も女性と踊ることも無く、かと言って酒や食事を楽しむ事も無く、ただの情報交換の場として夜会に来た事となる。視界に入る女達は男に見初められる為に大きく胸元の開いたドレスを着用し、意味深な視線を意中の男性に送っている。
夜会でよく見られる光景をぼんやりと捉えながら、まだ家に出入りしている高級娼婦の方が上品な格好をしているな、と考えていた。
途中、偶然にも一人の令嬢と目が合った。だが、その女性はヒッと短い悲鳴を上げて、逃げていく。失礼な女だとその後ろ姿を睨んでいたが、先日からあまり睡眠を取っていない事を思い出し、もしかしたら目元が悲惨な状態になっているのかもしれないと考え直す。口元は髭を整える為に鏡で確認をしたが、それ以外の部位は特別気にしていなかったのだ。
それからやっと面倒だと考えていた舞踏会を今年も終える事が出来たと安心していた所に、思いがけない事件は起こる。
出口に行き着こうとしていたフローリアンを呼び止める者が居たのだ。
聞き違いだと決め付けて振り返りもしなかったが、その声はだんだんと近付いて来る。
女性の、しかも若い令嬢の声だった。
歩調を速め、一刻も早くここから出て行こうとしていたが、ついに服の袖を引かれて呼び止められてしまう。
一体何用だと見下ろせば、案の定、見知らぬ女性がフローリアンの顔を見上げていた。その表情は驚きのものから一変して、輝かんばかりの笑顔を浮べている。訳の分からない女性の行動にフローリアンの警戒心も一気に高まる。
背丈はフローリアンよりも頭一つ分程低く、彼の妹と同じ位の高さだった。女性としては高めの部類だ。年齢は二十歳を数年越えた位で、よく見かける栗毛をきっちりと後頭部で纏めているが、飾りなどは一切付けていない。装いも顎の下から肌を覆い隠す詰襟状となっており、深い森のような色彩の華やかさの欠片もないドレスを纏っていた。彼女が夜会の参加者ではなく、社交界に出たばかりの令嬢の付添い人であることは一目瞭然である。
服の裾を掴んでいる手を振り払い、誰だと問い掛ければ、無邪気な笑顔で名乗り上げた。
――コゼット・アンナ・ド・リシュリュー、と。
驚いたことに、彼女はフローリアンが没落へと追い込んだ侯爵家の娘であったのだ。
その娘が一体何用だと聞けば、城を見せて欲しいと更に訳の分からぬ要求をして来た。詳しく聞けば、コゼットは画家志望の女性で、キャスティーヌ家の所有する古城を描きたいと熱望しているのだ。
何でも半年先に出版社の主催する童話の挿絵の選考会があるようで、そこに応募をする為の題材にしたいと詳しい話を聞いてもいないのに勝手に語っていた。
コゼットは平伏しかねない勢いで願ったが、フローリアンは即刻お断りをする。
まず素性が怪しかった。没落貴族の娘というだけで、何を考えているのかと疑心を抱いてしまう。
微笑みの絶えない女性が復讐心を抱いているとは思えなかったが、追い込まれた人間は何をするか分からないのだ。笑顔だって演技かもしれなと訝しむ。
断っても縋るように上着を掴んできたコゼットの体をフローリアンは乱暴に払いのけた。
突然強い力で押された細いコゼットの体は、勢い余って踏み止まろうと後ろ方向にてんてんと片足で歩み、なんとか転倒せずに済む。
酷い扱いを受けて怒るかと思いきや、恥ずかしそうに目を窄めるだけであった。
そんなコゼットをフローリアンは気味悪く思い、舌打ちをしてからその場に置き去りにする。
流石にそれ以上は追って来る程空気の読めない娘でも無かったようで、安堵の息を吐く。
もう二度と会うことも無いだろうと思いながら帰宅をしたが、彼女との再会の日はすぐにやって来るとは想像にもしていなかった。
その後、夜会から馬車に乗り込み、久々の帰宅を果たす。ここ数日は多忙を極めていたので、仕事場から帰ることが出来なかったのだ。
鈍痛を訴えている肩を強く叩くが、ほとんど意味は無い。若い頃は肩こりなどしたことがなかった筈だと、自らの迫り来る体の老いに憂鬱になっていた。
馬車はどんどんと街並みから離れ、鬱蒼とした森の中へと走り抜けていく。
キャスティーヌ家の本邸となる城は太陽王とも呼ばれた三世紀前の君主から贈られたものでもあった。当時の伯爵夫人が国王の愛妾だった為に、このような贅が尽くされたというべきか、税を尽くしたというべきなのか、そんな感じのお城が贈られたのだ。
白亜の煉瓦で建てられた城は過去の建築技術の全てを以て造られた代物で、深い海の色の屋根と相俟って美しい姿を三百年と保っている。
しかしながら、その影には伯爵家が掛けた多大なる維持費があるのを忘れてはいけない。
そんなお城は童話の題材ともなった。『眠れる塔の姫君』という名の物語は世界で一番売れた童話とも言われている。故に見学に来たいと望む者や、観光大使などから周遊旅行の目玉にしたいという話もあったが、フローリアンは全てお断りをしていた。見知らぬ人間を自宅に入れるなど狂気の沙汰だと主張を続けている。
勿論、それが外交に有利になると分かれば了承もしたが、詳しく話を聞けばたいして国の利益に繋がることも無かった。『眠れる塔の姫君』の主な読者は幼い少女であり、国を渡ってまで城を見に来たいという物好きは一握りなのだ。
物好きと言えば、夜会で遭遇した女性も変わった人物であったなと考える。
初対面の相手の服を掴むという眉を顰めるような行為や、突き飛ばされてもへらへらとした能天気な性格。加えて半世紀前の品ではないかと疑う程の時代遅れなドレスを纏った、身長だけは立派な痩せ細った体の地味な女。
あのように夜会で女性から一方的に絡まれた事の無かったフローリアンは、忌々しい記憶だと舌打ちをする。
あれが豊満な体つきをしていて美人な女性だったら一晩抱いてやるのと交換に城を見せてやることも構わないと考えたが、今の自分にはそんな元気も残っていなかったなと思い直す。
現在必要なのはきちんとした寝台でしっかり眠ることだ。色事なんぞに耽っている暇などない。
それからしばらくして、好色男を乗せた馬車は白亜の城へと到着をする。
自宅待機を命じている第二秘書から一日の報告を聞き、使用人の用意した風呂に入った後、寝台に身を沈めて泥のように眠った。
◇◇◇
夜会の後だろうが何だろうが、仕事に行かなければならない朝はほとんど毎日やって来る。
身支度を整えてから食堂へ行けば、すでに弟、アレクシルとその妻も席に着いていた。
「おはよう、兄上」
「おはようございます、お義兄様。昨日の夜会はいかがでしたか?」
「……最悪だった」
毎年同じ返事をする義理の兄を、弟の妻、アデライードは口許を手で隠しながら笑う。
フローリアンの弟夫妻の前に置かれたものは、砂糖とミルクたっぷりの優しい甘さのあるカフェオレ、生クリームの入った濃厚なカボチャのポタージュ、卵白を泡立ててから黄身を混ぜて焼いたオムレツはふわふわの食感で、夫婦の好物でもある。カリカリに焼いた厚切りのベーコンに茹でた野菜、美しく切られた果物、ヨーグルトには数種類のジャムが用意されている。パンはバターを練りこんで焼いたさっくりとした食感のクロワッサンに、、噛めば温かでとろけいるチョコレートが入っているパイ生地を重ねて作ったパン・オ・ショコラが籠の中に積んであった。
一方での伯爵家当主の前には、固い黒麦のパンに野菜の入った薄味のスープ、軽く炙った燻製肉に白湯という品目が並べられている。
アレクシルとアデライードは仲睦ましい様子を見せつつも、甘ったるいもの中心の朝食を摂っているのに対して、全てが味の薄い、粗食と言ってもいい品を前にしたフローリアンは無表情でそれを平らげていく。
彼は別に粗食を愛している、という訳では無かった。
では、何故このようなものを食しているといえば、全ては外交官という仕事を円滑に行う為の手段の一つでもある。
外交官の重要な仕事の中に、異国の地での食事会というものがあった。
これは単純に食事をしながら、楽しい会話をするというだけのものであるが、それをするのは至難の技とも言われている。
各国には、自慢の伝統的なご馳走がある。
小麦粉を練って平たく伸ばした生地の上に、トマトソース、サラミ、バジルなどの上からチーズなどを振って焼いたパン。
香辛料などで味付けをしたアヒルの丸焼きの、パリパリになった皮と肉を削ぎ、小麦粉を薄く焼いて作った薄餅と呼ばれるものに、野菜と特製の甘辛い味調味料を垂らして巻いて食べるもの。
羊や鶏の肉をヨーグルトや香味野菜などで下味をつけてから串に刺して焼き、パンなどに挟んで食べたり、炒めた米の上に載せたりと多彩な食し方のある料理。
以上の品々を前にすれば、多くの外交官の目は歓喜に染まるだろう。
だが、残念なことに、全ての国が大衆受けをする美味しい伝統料理を出してくれる訳ではない。
例えば、とある東洋の島国で好まれている大豆に菌を入れて繁殖させる、もはや腐っているとしか思えないしつこい粘り気があって臭いもキツイ食べ物や、隣国の羊の内臓と少しの香辛料を胃の中に詰めて煮て酒を掛けて食べるというもの。羊の頭をじっくり煮込んだだけのスープに、家畜の生き血をご馳走として振舞ってくれる国もある。
外交官はそれらの料理も美味しいと、笑顔で食べきらなければいけないのだ。
その苦難の晩餐を乗り切る為に、毎日の粗食は必要不可欠であり、また、革命を起こした歴史のある国の貴族として、恥ずかしくない生活を送ろうとする伯爵家の教えでもあったのだ。
そんな質素な食生活を送るフローリアンを前に、弟夫妻は世界的にも美味しいと言われている自国の朝食を食べている。
意外にも、フローリアンはその教えを弟夫婦には強制していないのだ。
厳しい性格で職場では恐れられている男も、身内には案外優しいという一面があった。
◇◇◇
外交官の長たる男の朝は早い。
日の出と共に家を出て、誰よりも早く出勤するのだ。
仕事場はかつて絶対王政の象徴とも言われた、豪華絢爛としか表しようがない宮殿にある。
過去に王族とその家来達が住んでいたとされる建物は、今は忙しなく人が走り回る政治家達の戦場となっているのだ。
その宮殿の一室にフローリアンの仕事部屋があった。後に続いていた第一秘書が鍵を開いて中へと導く。部屋には既に出勤時間を把握している小間使いの手によって灯りが点されていた。
書類の山は昨日と変わらぬ姿を見せており、執務机の椅子に座れば秘書が一日の予定を読み上げる。
詰まった予定を聞いてうんざりとした気分となり、更に明日からの異国に旅立って交渉を行うという大仕事が入っていたのだ。
書類の山は秘書に任せ、自身は朝一に執り行われる会議へと向かった。
帰って来てからも忙しい。本日初めて顔を合わせる事となった小間使いは、フローリアンにカフェオレを差し出す。
「あっ!」
「?」
秘書がしまったと言わんばかりの声を上げるも遅かった。小間使いの女性は何かと首を傾げている。フローリアンはジロリと盆を持つ者のポカンとした顔を睨みつけた。
「お前はまたこんなものを出してからに!!」
「!?」
秘書は素早くカフェオレを回収して小間使いの盆の上に載せ、部屋から脱出させようと背中を押して扉の向こうへと追いやっていた。
フローリアンは職場でもカフェオレなどの贅沢ともいえるものを口にしない。それは仕える者達にも伝わっている筈だが、先ほどの女性のようにたまに忘れて持って来てしまう人も居るのだ。
この部屋には専属の小間使いは居ない。
否、口うるさい男の世話を誰もやりたがらないというのが正解であった。
白湯を持って来た秘書にフローリアンは言う。
いちいちカフェオレなんか持って来るなと指摘をするのも面倒なので、外交に行っている間に専属の召使いを用意しておけ、と。
ここで働くのは煌びやかなドレスを纏った、結婚相手を見繕う目的で居る貴族の令嬢たちだらけであった。なので、その者を避けて、よく働く者を連れて来るようにと命じた。
フローリアン・フィリップ・ド・キャスティーヌの忙しい日々は毎日のように続く。
一週間の外交日程を終えたフローリアンはそのまま仕事場には寄らずに真っ直ぐ居城へと帰って行った。
帰宅後、出迎えた弟夫婦に異国の土産を渡す。
「まあ、お義兄様、とっても素敵」
「へえ、これ、面白いね」
二十代前半の若夫婦は、二つ国を跨いだ地の珍しい品々を、居間で広げて仲良く肩を寄せ合って眺めている。
二人の結婚はフローリアンが勝手に決めて纏めたものであったが、結婚して五年目、見ての通り夫婦仲は良好を通り越して熱苦しい位だった。まだ子宝には恵まれていないが、それだけが幸せではないのだろうと最近では思うようにもなっている。
しかしながら、伯爵家の跡取り問題は深刻だ。この先隣国へ行くようなことがあれば、妹・オーベールの家に行って姪を無理矢理連れて帰らなければならない事態になりかねないと危惧している。
隣国は女王国ではあるものの、女性の社会的地位は低い。だが、この国では女性が爵位を継ぐ事も認められている。赤ん坊の今から育て、外交官としての教育や立派な女伯爵としての生き方を叩き込もうかと、色々と計画も立てていたのだ。
それに姪が生まれたと聞いたときに買った服や玩具だって全て無駄になった。自分の子供として引き取る予定だった為、意に沿わぬ結婚をした約束破りの妹に送るもの癪だと拗ねているのだ。しかしながら、部屋いっぱいの贈り物は邪魔なものでしかなかったので、先日、国を発つ前に孤児院へ押し付けろという処分を命じていた。
少年少女のように土産を喜ぶ弟夫婦を眺めるのにも飽きたので、フローリアンはそのまま風呂に入って休むと言って居間を後にする。
兄の出て行った扉を眺めながらアレクシルは、他人にもこのように優しく出来たら早く結婚も成立するのに、と頑固者の兄に聞こえないような小さな声で呟く。隣に座っていた妻アデライードも深く頷いて夫の意見に同意をした。
フローリアンに合わせることの出来る天使のような女性など居るはずも無いと、顔を見合わせて苦笑するしかない現状であった。