矢背家を継ぐ者(1)
一歩一歩とスレンは追い詰められていた。
止血されていた傷口から、新しく血が流れ落ち、地面に吸い込まれてゆく。
品定めをするかのように、ぎょろぎょろと目玉を動かし、醜悪な顔が近づいた。
持っていた火炎符は、役立たなかった。
鬼らは燃え盛る火炎に怯えることなく、裂けた口でぺろりと飲みこんでしまったのだ。
スレンは、失血のためにもう一歩たりとも動けなかった。
時間さえ稼げば、衛士かドルジが来てくれるとも考えたが、それまで生き残っていられる確率は、非常に少ない。
不意に、鬼らの意識がそれた。
二匹とも、呆けたように宙を見つめている。
じりじりと音を立てないように、尻で這いながら距離を空けたスレンは、目前に落ちてきた物体に奇妙な顔をした。
ストンと軽い音を立てて地に突き刺さったのは、一本の傘だった。
緑と黒の格子縞に、縁を黒いレースが飾っている。
長い銀の取っては月光を受けて冴え冴えと輝いていた。
スレンは目を疑った。
―――男が一人、いたのだ。
「……い、一体」
いつの間に現れたのか。
何一つ気配を、空気の揺れさえも感じさせずに、彼は、そこに立っていた。
もとより、その場にいたかのような、威圧感。
男の着込んだ燕尾服、膝丈ズボンに長いブーツは、全て闇を象った漆黒。
どうかんがえても、氷点下三〇度の草原でするような恰好ではないのだが、男は凍えることもなく、慣れた手つきで、脇に突き刺さった傘を引き寄せた。
その優美で貴族的な仕草は、西欧の紳士そのものだ。
服に散りばめられた透かし模様は繊細で、そして……スレンは、首を傾げた。
背の低いシルクハットからウサギの耳が生えている。―――ウサギ?
「大きな気に引き寄せられて来てみれば……」
驚くほどの美声の後に、一つ、ビュンッと空気を斬る音が鳴った。
「何だ何だ、雑魚じゃないか!!」
べちゃり、と鬼の切り離された上半身が地に落ちた。
紳士然とした振る舞いはどこへやら、男は無造作に傘を振り回し、吠える。
「窮奇だ! 僕が探しているのは、白銀の妖鳥なんだよ!! こんな、こんな、雑魚じゃ、恰好、悪くて、乗り心地も悪い……!」
鬼らは、あれよあれよと言う間に、細切れにされてゆく。
怒髪天を突くの勢いで、男は怒りまくり、その激情を当たり散らした。
あっと言うまのことだった。
唖然とするスレンの前にはもう、鬼の姿はない。
陰気は散り、荒涼とした風が吹くだけだ。
「ちっ……やっぱり、オボー壊してもうまく誘き寄せられないもんか……ん?」
鼻息荒く傘を開いて肩に担いだ男は、そこで初めて、スレンに気づいた。
くるりと振りかえり、腰を抜かすスレンを見降ろす。
一拍の間の後、彼は頭を抱えて悲鳴を上げた。
「あああああ!! ……何てことだ、僕は! 人助けをしてしまったじゃないかあ!!」
「……た、すかったのか」
狐につままれたような安堵感に茫然としながら、身体を起こしかけたスレンは息を飲んだ。
頬を走った鋭い痛みと、生温かい感触。
「助かってたまるか!! 僕は二度と人は助けないと誓ったのだ!」
切りつけられた、と思った時には転がるように地に伏した。
一撃を避けられたのは幸運としかいいようがない。
足を庇ってバランスを崩さなければ、今頃頭と体は繋がっていなかっただろう。
「さあ、死ね! 今、すぐ、死ね!!」
無茶苦茶に振り回される傘を死に物狂いで逃げながら、最後の火炎符を投げつけた。
化け物には効かないかもしれないが、人間なら―――
ボンッと破裂音がして生み出された火炎が真っすぐと男へ向かって飛んだ。
しかし、それは、男に辿りつく前に燃え尽きてしまう。
「んん? その顔……どこかで見たような」
気だるげに火炎の残り火を払った男は、スレンを見て驚いているようだった。
男は、顎に手をやって小さく首を傾げた。
その一挙手一投足が魅惑的で、彼のまとう匂い立つ甘い雰囲気に、スレンは戸惑った。
焔に映し出された人間離れした麗しい横顔……完璧な美があるとしたら、この男だろうと思う。
じつ、と見据えてくる氷色の双眸に、時を止られたように身体が硬直し、混乱も恐怖も凍りついた。
「な、何なんだよ、あんた!?」
何とか振り絞った悲鳴に、紳士は難しい顔をやめた。
それからスレンの口中に小さく丸めた紙屑を放ると、さっさと背を向ける
「げほっ、ぐ……」
吐き出そうにも、符は胃に辿りつく間もなく溶けてしまう。咳き込んだスレンに、爽やかな声が落ちた。
「まぁ、いいや。人でないなら、人助けじゃないし。さて、愛しのキューちゃんは何処かな~っと」
男はバッと開いた傘を地につきたて、その中へと飛び込んだ。
不思議なことに、傘は男を飲み込むと、ハマグリのようにズルズル回転しながら地へと潜り消えてしまった。
あとには、静かな夜が取り残された。
「何なんだ、奴は……」
スレンは、なかなか立ち上がれなかった。失血のせいもあったが、何より命の危機からの解放と、混乱の比重が大きい。
「…………一体、何だったんだ」
がっくりとスレンは項垂れた。
もう、意識を保つのも限界だった。
「スレンさん!? 何だって、こんな所に……スレンさん? スレンさん!!」
遠くからドルジの声が聞こえてくる。心配そうに覗きこむ友人の顔を最後に、スレンは目を閉じた。
『…………人でないなら、人助けじゃないし』
わんわんと頭の中を駆けまわる声が、スレンを絡めとり闇へと引きずっていった。
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