襲撃の夜(2)
夜は、獣の時間である。ぶ厚い雲が月の光を遮り、集落を離れれば本当の闇が待ち構えていた。衛士は、神経を研ぎ澄まして、ツェツェクを探して駆ける。
「何でだ? ここには、祭壇の加護がある………あの程度の鬼じゃ、入ってくることは出来ないはずなのに。それに、あの白い化け物は、鬼じゃ―――」
そのとき、ズササッとけたたましい音を立てて前方に黒い塊が飛び出して来た。衛士はとっさのことに後方へ飛び退ると構える。
「スレン!? 助け……」
闇から不安げな顔をのぞかせたのは、まさしくツェツェクだった。彼女は、衛士を認めると言葉を飲み込むようにして口をつぐんだ。
「ツェツェクちゃん!! ああ、無事だったんだね」
「……ば、化け物が」
ツェツェクの背後から、闇を斬り裂いてにゅっと鋭い爪が伸びる。衛士は素早く指先を宙に走らせた。
光がスパークし、断末魔の悲鳴が上がる。
ツェツェクはしばらく腰を抜かしたまま、ぱちくりと瞬きを繰り返した。それから、辺りを見回し、恐る恐る立ち上がる。転んだ時についたのだろう、片頬に軽い切り傷が見て取れたが、他に大きな怪我は無さそうだった。衛士はほっと安堵の息を漏らす。
「な、何したの?」
それには答えず、衛士はにんまり微笑んだ。
「怪我はなさそうだね。もう大丈夫……」
「触らないで!!」
差し出された手を、ツェツェクは叩き落した。
見つめてくる瞳は、燃える憎しみの色……これだけ元気ならば安心だと、手をさすりながら衛士は苦笑した。
ツェツェクは気まずげに視線を落として尋ねた。
「………………スレンは?」
「怪我したんで、置いて来たよ」
「大丈夫なの!?」
「大丈夫なら君を助けに来てた。今はトーヤが看病してる」
「そう、トーヤが……」
しばらくの沈黙の後、ツェツェクはふらりと衛士に歩み寄ると、………………腕の中へと大人しく転がった。
「ど、どどどどどどーしたの!? ツェツェクちゃん!?」
思いもよらぬことに衛士は板のように硬直した。
「ど、どっか、いいい痛いとか、おおお腹すいたとか」
「好き」
「は…………はっ!?」
解釈を求めるも、沈黙が横たわるだけだ。
「…………え、ええええ………………ま、まずはと、友達からってことで」
「馬鹿!! あんたのこと好きな訳ないじゃん!!」
「や、やっぱり!? スレンだよね!! 君が好きなのは」
右足を思い切り踏みつけられたが、衛士はほっとした。頭の打ち所が悪かったとか、変なものを食べたという訳ではなさそうだ。
「好きじゃない!!」
「え、あ、ごめん……」
衛士は静かに次の言葉を待った。
ぶ厚い雲が流れて、気まぐれに大地に月の光が落ちる。
「…………もうちょっと、くっついてていい? ダメなんて言わないでよね」
顔を衛士の胸に押し当てたまま、不機嫌な声で少女は呟いた。
「いいよ」
冷たい風が大地を走り、耳が痛いほどの静寂が二人を包みこむ。
衛士は、小刻みに震える小さな肩に手を伸ばしかけて、迷ったあげくやめた。それは、自分の役目じゃないというふうに。
「さっきは、助けてくれてありがと。でも、あたし、あんたのこと、許さないから」
「うん」
「スレンを連れ出そうとするあんたを、あたし……絶対、許さない」
「……うん」
ポツリポツリと紡ぎだされる言葉を、一つとして取りこぼさないように、衛士は頷いた。
「………………スレン、ってさ、口も悪いし、態度でかいし、僻み体質だし、ぶっきらぼうで何考えてンのか分かんないし……」
「そ、それは言い過ぎじゃ」
「でもね、凄い、優しいんだよ。人一倍、誰かのためになろうとしてて……。自分のこと、横に放ったままで」
ギュッと衛士に抱きつく腕に力が入った。
「寂しそうな、背中なの。一人ぼっちなの。誰も近づけようとしない。自分にはその資格がない、って感じでさ。………………どうして、だろう? みんな、あいつのこと大好きなのに。大切なのに。そのままの、スレンを愛してるのに。嫌な奴だよね。贅沢だよね。でもさ、悲しいよ。こんなに好きなのに、伝わらない―――」
祈るような非難の言葉。衛士は、静かに目を閉じた。
「…………伝わってるよ。だから、スレンは出て行こうって決心したんだ」
そして、やっと衛士はよしよしとツェツェクの頭を撫でた。
長い間すすり泣くか細い声が漏れた。そして、どれほど時間が立ったのか―――しばらくしてから、ツェツェクは、袖で目頭を拭うといつもの笑みを浮かべて衛士から離れた。
「二年前から、これでも準備してたんだよ? さよならする時に備えてさ。でも、……やっぱ、嫌なもんはヤダ」
「俺がスレンの代わりに残ってあげようか?」
「人生の明暗、あんたに決められたくない」
ツェツェクはあからさまに嫌な顔をする。
「同じ顔だし……ああ、オプションでスレンっぽく振る舞ってもいいけど」
「あんたはスレンじゃないでしょ」
心臓の鼓動が一つ大きく高鳴って、衛士は一瞬、呼吸の仕方を忘れた。
それから、衛士は寂しげに笑った。
「……そうだったね」
「エージ?」
「さて、戻ろうか。早くドルジとスレンを安心させてあげなきゃ」
ツェツェクは違和感を覚えて、その顔を覗き込む。
けれど、人好きな笑顔でツェツェクの手を引いたのは、いつもと変わらない衛士だった。
お読み下さり、ありがとうございます!
毎週更新予定です。宜しくお願いします!