襲撃の夜(1)
酒のほてりを取るため外へ出ていたスレンは、うん、と伸びをした。
突き刺す冷たい風が気持ちいい。
世界は死んだようで、家畜たちが立てるもの以外に音はない。
雲の合間をぬって月の光が陸地をすべる。溜息が、白く凍った。
『スレンくんと結婚なんて、考えたこともないわよ』
トーヤの柔らかな声が、頭から離れない。
何とか平然を装ってツェツェクには言い返したつもりだったのだが……少女のしょんぼりとした小さな背中を思い出す。
彼女が謝罪の言葉を述べた、ということは、自身の気持ちなど外に駄々漏れだったわけで……
スレンは、頭を抱えて懊悩した。
物凄く悲しくて、傷ついていた。が、そんな気持ちを友人らに知られてしまったとは、矜持の高い彼は、認めない。認めたくない。
「くそ」
周りに知られていると思うだけで、目頭が熱くなった。
うまく、鍵をかけて心の奥深くにしまっておけていると思ったのに。ツェツェクの勘の鋭さに舌を巻くと同時に恨めしくなる。
「もともと、どうこうしたい想いじゃない。生きていてくれただけで、十分じゃないか」
スレンは、自身に言い聞かせるようにぼやいた。
どの医者からも見放された彼女を、清へと送り出すことしか出来なかった、情けない自分。そんな奴の想いなど、病死した家畜の死骸ほど価値がない。口にしたら舌が腐る。
そう思っているのに…………一皮剥けば、落ち込む自分がいた。
「なーに、百面相しちゃってるの」
と、スレンは背後から飛んだ声に振りかえった。
「……エージ、か」
「どうしたの? 何か心配事でも?」
白々しいとスレンは舌打ちする。
ツェツェクも感じ取った自分の動揺に、賢しらな衛士が気づかないはずがないのだ。
「ん? 話してごらんよ」
「お前に日本の言葉を教えてもらってから、夢見が悪いんだ」
スレンは、ぶすくれた顔つきのまま答えた。
いかに気心を知られているとしても、トーヤに対する気持ちを打ち明けるのは躊躇われた。
「日本の夢?」
「知らん。だが、話されている言葉は日本のもの、だと思う」
それに、夢見の悪さがここ最近スレンの心に影を落としているのも事実だった。
不十分な睡眠のせいでできた、目の下のクマは日に日に色濃くなってゆく。ドルジが心配に思うのも無理はない。
耳に張り付いた異国の歌、人々の悲鳴、懇願。そして、―――崩れ落ちる、泥人の自分。
「まぁ、原因は劣等感だろうと見当はついてる。お前も知ってるように、俺は草原に生まれながら、馬にも乗れないし、血が怖い臆病者だ。その上、『命の土』を見つけることも出来ない。必要のない存在だとか、そんな自分をなんとかしたい焦りとかが、生み出す悪夢なんだ。お前が気にかけるほどのことじゃない。うまくいなせなくて、ちょっと困ってるだけだ」
肩をすぼめて苦笑するスレンに、衛士は首を振った。
「君はあの世とこの世をつなぐ門を開くことが出来る。立派な異能者じゃないか」
「それだって、誰でも……そう、神々と盟約を結び、免許を持つ道士なら誰でも出来る芸当だ。水を用意するだけで、な」
異能者の内、ドルジのように修行をして自身の能力を高めようとする者を道士と呼び、修行が完成し、時間の枠から外れた者を仙人と呼ぶ。
彼らは自然の理を捻じ曲げる、様々な術をおこなうが、陰界と陽界を繋ぐ冥路を開く術は『自分は道士として修行します』と宣誓した段階で神々から授けられる、最初期の術であった。
「ドルジの奴は、俺に気を遣って儀式に用いてくれているんだ……事実、ここじゃあ、それ以外に使い道はない。俺は、役立たずなんだよ」
道士の中でも難しい分野である人形師の端くれが、できない術であるわけがないのだ。
そして、心優しい少年の気遣いにスレンは素直に喜べないでいた。彼の優しさは、集落全体の意思だったから。
「不要な、人間なんだ。『守る(スレン)』の名が泣いてる」
噛みしめた唇から、言葉が零れた。
優しい優しい父と兄、そして友人たち。
スレンが馬に乗れなくとも、血を恐れても、採掘に参加できずとも……誰一人、彼を蔑ろにしたり卑しんだりはしなかった。むしろ、克服せんとするスレンを心配し、無理をする彼を諭しさえした。
そのままでいい。そのままで、十分なのだ、と。
そして、その絶対の愛情はスレンに影を落とした。
今のままの自分を好きだと言われれば言われるほど、孤独が色濃くスレンを抱いた。
仲間を思うからこそ、役立たない自分が嫌なのに、みな気にも止めない。
誰も、スレンを馬鹿にしない。けれど、本当は―――?
それは、贅沢な痛み。
「俺、集落を出てこうと思う」
「いいね、スレン。世界一周旅行かー。俺も一緒に行こうかな」
「阿呆。修行しに行くんだよ。道士になるんだ」
トーヤが病に倒れた時、何一つ出来なかった自分を、誰が好こうとも、スレンは一生認められないと思った。
だから、決意したのだ。
「道士になりたい。鬼の調伏だけじゃなくって、医術を学んで………この集落で、役立つ人間になりたい」
けれど、その前向きな意思に隠れたもう一つの理由にも、スレンはちゃんと気づいていた。
スレンは自虐的な笑みを隠すように衛士に背を向けた。
「だけど、本当の理由は…………。笑えよ、エージ。俺はさ、親父や兄さんや、みんなに……捨てられるんじゃないか、って不安から逃げるんだ」
「馬鹿だなあ。そんなことあるはずないでしょ」
「俺には分からない」
スレンは首を振った。
「情けないよな。出ようって決めたのに……なかなか皆に言いだせない。俺は、怖いんだ。ほっとした顔を見てしまうんじゃないかって。それに、ここですら役に立たない俺が、外で必要とされるか? 何処に行っても、不要な自分に出会うだけなんじゃないのか……」
殴り倒してしまいたくなるような女々しい愚痴だった。そして、衛士の言葉を待つ自分が、とんでもない甘ったれだと自覚して、ドッと後悔が押し寄せてくる。
けれど、衛士は笑わなかった。
怒りもしなかった。
しばらくの沈黙の後、ややあって口を開いた彼は、いつにもまして真剣だった。
「真に進む道は、退いているように見えるっていうでしょ。誰だって、やる前から自信もってずかずか進んでく人なんていないって。後先考えないで、飛び出しちゃえばいいんだよ。そしたら、何か得るもの、あるんだから」
「何かってなんだ」
「何かだよ」
スレンは、ぷっと吹き出した。
「お前、本当に気楽だな」
彼の答えは、可能性を信じさせてくれる。
このまま、終わることのない未来があることを教えてくれる。
時を止めたように、変化を避ける集落では聞くことのない、答え。
「気楽、お気楽、いーじゃん。楽しく生きようよー、一度きりの人生なんだし? 道士になったって、旅人になったって、何したっていい。スレンが思うように生きられればさ。やりたいことなければ、探せばいーだけだし」
おどけたその顔は同じ造形なのに、本質は全く違う。
スレンは眩しいものを見た時のように目を細め、それから俯いた。
不安で雁字搦めだった心に温かく血が通い始める。
衛士は、いつだって欲しい言葉をくれる。
「そうだな……」
「裏切り者」
そのとき、突然ツェツェクの声が飛んだ。
振り返ると、暗闇に溶け込むように彼女は立っていた。
表情ははっきりとは見えなかったが、声には混乱と怒気の入り混じる複雑な感情が見え隠れしていた。
「みんなに愛されて大切にされて、何が不満なのよ」
地へと視線を落としたスレンに代わり、衛士が前へ一歩踏み出した。
「ツェツェクちゃん、男は外へ羽ばたかなきゃ。でっかい空が待ってるんだよ」
「うっさい、黙れ馬鹿!!」
ツェツェクはじつとスレンを見た。
スレンは何も言わなかった。
焼かれるような視線に、スレンはやっと顔を持ち上げた。
ツェツェクは、静かな決意の揺れるその瞳にぶつかって、続く言葉を飲み込んだ。彼女は下唇を噛んで何かを堪えるように衛士を睨みつけると、身を翻して夜に消えた。
「ツェツェクちゃん!! あ、あちゃー……俺、また余計なこと」
「いい。ツェツェクには俺が話を」
グッと衛士はスレンの肩を掴んで押し止める。
「なぁに言ってんの。喧嘩になるの目に見えてて君に行かせると思う? それに、彼女の気持ち、考えなかった俺が悪かっ―――」
少女を追おうとして、衛士ははたと歩みを止めた。
前方で不可思議なことが起こった。
ボコッ、ボコッと湯を沸かせたように、地が泡立っている。
訝しげに見つめるスレンの目の前で、にゅっと真っ白な牛の頭部が生えた。
「…………え?」
次いで、その両脇から異様に長い骨ばった腕が伸び、地面に手をやるとググッと身体を引き上げようと力を込める。
「スレン、下がった方がいい」
音を立てて地から這い出たのは、何とも奇妙な生き物だった。
牛の頭部に、豹のようにしなやかな肢体がくっ付いている。
白い背から先程の異様に長い骨と皮だけの腕が伸び、ギチギチ音をならして宙を彷徨っていた。さながら、羽毛をむしり取られた翼のようである。そして、尻から伸びる真っ白で長い三本の尾が淡く光って揺れていた。スレンは凍りつく。
(あの、化け物だ……)
背筋を、冷たい汗が虫が這うように流れ、まざまざと悪夢が蘇った。
……地の奥で、人々を黙らせたものの正体を、スレンは知らない。
決して覗き込んだりしなかったからだ。
ただ見たのは、穴から伸び出た、尾のような白くて細いもの。
けれど、それは、目前に立つ化け物の正体を確信するのに十分だった。
衛士が、さりげなくスレンを庇うように立つ。
『生気ヲ、生気ヲヨコセ』
重い欲望が頭に直接響いた。
と、同時に、それは脇目も振らず衛士へと踊りかかる。
「エージ!! あぶな―――」
スレンの恐怖は、驚愕へと変わった。
地を蹴った化け物が、衛士の手前で、まるで頭を抑えつけられたように制止していたのだ。よくよく目をこらしたスレンは、くわっと牙をむいた化け物の前に浮かぶ、掌大の人間のようなものを認めた。
苔色の肌にみすぼらしい腰巻を巻いただけの、醜悪な顔をしたそれは、ぎょろりと飛び出さんばかりの目でもって、敵を見据え、青銀の火花を散らして化け物を押し留めていた。
そして。
ギィンッと腹に響く音と共に、緑色が闇夜に線を描いた。
化け物は素早い動きで飛び退ると、荒い呼吸を繰り返しながら間合いをはかった。
衛士は、地に転げたものを拾い上げ、にやりと不敵に笑った。
「木気と、相性が随分良さそうだね」
その小さな人は、両の手を上げて握ったり開いたりし、踊るように回って、音もなく消えた。
見ると、化け物の、背から伸びた腕の一部が欠けていた。頭部を護る代わりに失ったのだ。
「今のは、斬命魔……?」
スレンは、自身の見当づけた答えに困惑した。
衛士の目前に出現したのは、道士たちが邪気を払うため、身の内に飼い慣らしてしているという使い魔『斬命魔』である。
異能の片鱗さえ見せなかった衛士が扱える代物ではない。それが、何故―――
があああああ がああああああああっ
スレンの思考は、大地を揺るがす咆哮にかき消された。
牛の頭をした化け物は怒り狂い、頭を振り乱すと声の限りに叫び続けた。
酒を流しこんでいた衛士が低く唸る。
ゆらり、ゆらりと闇が揺れた。
そして、切り取ったように空間が浮かび上がり、気がつけば、黒い影がすっかり二人を取り囲んでいた。ざっと数えただけでも、二十近く。白い化け物は、さっさと身を潜め、影も形も見えない。
「ぞろぞろ呼んだなあ……」
人影が立ちあがったようなそれは、二人の二倍は上背があり、めくれ上がった唇から、ナイフのように鋭い牙を覗かせていた。
ダラしなく唾液を滴らせ、うわ言のように『生気ヲ』と繰り返すさまは、どうみても、陽界の者ではない。
「嫌み? スレンが友達少ないからって」
「お、お前はこんな時まで……!!」
声を荒げたスレンの腕を、衛士は唐突に引っ張った。
背後で殺気が爆発した。
つんのめるように振り返ったスレンは、淡い燐光が視界の端で心細げに揺れるのを見た。
「くっ……狙いはスレンかっ!?」
その時、スレンは左足に衝撃を感じた。
足に噛みついてきたのは、白い、猫のような―――
「ぅああああっ!!」
一瞬後に訪れる、焼けつくような痛みに、スレンはたまらず悲鳴を上げた。
視界が真っ赤に染まる。
白い化け物は、スレンの脹脛の肉を噛みちぎると、目にも止まらぬ速さで地面へと潜り込んだ。と、同時に、数多控えていた鬼が一斉に飛びかかってくる。
「ごめん、スレン……もうちょっと待ってて」
酒で濡らした指先がゆらりと宙を走る。
衛士の顔つきが変わった―――そのとき。
「スレンさん、エージさん!! 無事ですか!?」
ドルジの声と共に、地が揺らいだ。
そうして、衛士の目の前に、大樹のような腕が現れ、今にもスレンと衛士に飛びかからんとしていた化け物を軽々と薙ぎ倒す。
鬼を挟んだ向こうに、ドルジが蒼白の面持ちで立っていた。
「グッド・タイミングだ、ドルジくん!」
陽気にはしゃぐ衛士に、ドルジは鋭い探るような眼を向けた。
「エージさん、あなた……」
「ん? あ、あぁ……話は後、後! 今はそれどころじゃないでしょ」
衛士の指摘通り、三人の目の前で、次々に鬼が立ちあがってゆく。
「さて、どうしたもんかな。一匹ずつ相手にする訳にもいかないし」
衛士が顎をさすって首を捻るのに、ドルジが尋ねた。
「……奴らを一か所にまとめられたら、勝敗はどれくらいですか?」
「ん? 九分九厘、一回で片付くけど」
答えに、少年は深く頷いた。
「わかりました」
「でも、どうやって?」
「……ドルジ様、お側ニ」
少年の背後から、泥人が進み出る。
「行け」
「ハ」
短く命じられるがまま、彼は躊躇なく化け物の前へと飛び出した。
「な……何てことを…………!!」
状況を推し量っていた鬼らは、突然の御馳走に、我先にと飛びかかる。
そこで、初めて衛士の余裕の笑みが引っ込んだ。
闇夜に反響する、鈍い音。
肉が裂け、骨が断たれ、血漿が飛び散る。
一か所に集まった鬼は、一つの化け物のように、蠢いていた。
衛士は動かなかった。
瞠目し、込み上げる吐き気に耐えるよう口を手で塞ぐ。
「早く! 彼が、敵を呼び寄せているうちに……エージさん!?」
棒きれのようにつっ立っていた衛士に、ドルジの声が飛んだ。
「くっ……」
顔を背け、視線を泥人から剥ぎ取ると、衛士は酒瓶の中身を振りまき、指を乗せた。
不思議なことに、宙に散った水滴が彼の指へと集まってくる。衛士は、素早い動作で、酒の滴で空中にみみずがのたくったような字を書いた。
「天円地方、律令九章、吾今下筆、万鬼伏蔵……急々如律令!!」
掛け声とともに、宙に書かれた字が眩い緑色に縁取られ、弾けた。
と、次の瞬間、凍った大地から芽吹いた光がぐんぐん体積を増し、鬼たちを飲み込んでゆく。そうして、餌に夢中な彼らをすっぽりつつむと、静かに収縮していった。
……そこには、何一つ残っていなかった。
泥人の遺体すら残さず、何もかもが消滅していた。
「スレン、さっきは本当にごめんね。今、楽にしてあげるから」
衛士は蒼白な面持ちで、地に蹲り必死に痛みに耐えるスレンを覗き込む。
流れる血が大地を黒く染めていた。
衛士は、上着から取り出した符を小さく畳むと、歯を食いしばるスレンに呑ませる。
「……どう? 痛い?」
聞かれてスレンは顔を上げた。
痛みが引いている? そう思って、傷口を確認したスレンは強い眩暈を感じた。
血は止まりつつあったが、生々しい傷口は未だ脈打っていた。
「痛み止めと止血の符だよ。ごめん、俺、治癒の符は書けないんだ」
「スレンさん、怪我したんですか……っ!?」
それから衛士は苦しげに眉根を寄せて、駆け寄ってきたドルジを見据えると、いきなり、その胸倉を掴み上げた。
「ど、どうしたんですか、エージさん? 僕、何かダメなことしちゃいましたか」
「君は、人形たちのことをなんだと思ってるんだ!?」
声を荒げた姿など見たこともなかったドルジは息をのむ。
それから、理由に思い当たって、理解が出来ないと顔を引きつらせた。
「か、彼を犠牲にしたことを、怒っているんですか……?」
沈黙が、答えだった。
「人形は、与えられた理由にのみ生きて死ぬ。奴は、ドルジが生み出した存在で、主人を護るために壊れた。…………それだけだ」
傷に顔をしかめながらスレンは立ち上がった。
そして、一瞬過った衛士の泣きそうな顔に眉を潜める。
「どうしたんだ、エージ」
「君が、そんなこと言うのか……?」
しぼりだすように、衛士は呟いた。
そして、何かを抑え込むようにして、ギュッと唇を引き結ぶと、ゆっくりと化け物が群がっていた場所へ近づき、膝をついて、地に触れた。
「だけど、だけどさ…………今のことが当たり前なら、反魂された泥人の意思はどうなるんだよ。余りに、残酷過ぎやしないか」
「反魂は生きた者の都合によって行われるものです。死者の魂のためではない。人形に意思などある訳ないでしょう。それに、もし、意思があったとしても……それすら作りものです。結局、作り手の理由が生かし殺すんですよ」
衛士はそれ以上何も云わなかった。
「人形に意思なんてない? 本当に、そうかしら?」
控え目な、けれど凛とした声に三人は振り向いた。
「私、面白い話を知ってるわ」
右手をそっと、左手で隠すように重ねて、歩み寄って来たトーヤは、肩を落とす衛士を立たせた。宥めるように唇を持ち上げる。
「お人形の村にね、ある時、お客さんが一人の子供を連れてきたの。お人形たちは、とてもとても、その子供を大切に育てたのですって。それが、意思の証明だった。与えられた理由で生きる人形たちは、どこかで、自分の意思に憧れていたのね。見も知らぬ子を愛し育められたのなら、自分たちには意思があり、作りもの以上の何かがある……人形たちは、見事に育てあげたそうよ。ねぇ、これって、彼らに意思があるってことじゃ、ないかしら?」
それから振り返ると、ドルジに挑発的な一瞥を投げた。
鳶色の双眸が受け止めきれずに、ふっと逸らされる。
「僕は、人形師という立場からその話には賛同しかねます。…ですが、エージさんがこのような使い方を嫌だとおっしゃるなら、なるだけしないようにします。今のは咄嗟のことだったし、僕、あなたの価値観を把握していませんでしたから……不快な思いをさせてしまったこと、謝ります。赦してくれますか」
「……ごめん。俺も、ちょっと、驚いちゃって」
素直に頭を下げるドルジに衛士も倣った。
―――きゃあああああっ!!
劈く悲鳴がこだましたのは、そのときだった。
打たれたように四人は身構え、辺りを見まわす。
「今のは悲鳴、ですよね? 誰の……」
問いに、ザッと音を立ててスレンの身体から血の気が引いた。
「ツェツェクだ!!」
足を引きずり、駆けだそうとした彼を、衛士は容赦なく地に転ばせる。
「君が行ってどうなるのさ」
「だが!!」
「俺が行くの。はいはい、ドルジくんもだめだよー。君は責任者として集落を見回らなきゃ」
そろそろと駆けだそうとしていた少年の首根っこを掴むと、衛士はトーヤに向き直った。それから、符を取り出すと、華奢な手に握らせる。
「じゃぁ、行って来る。スレンを宜しくね」
くるりと背を向けて衛士はさっさと行ってしまった。
「エ、エージさんったら!! もう……。僕も、行ってきます。お二人とも気をつけて」
ドルジもしぶしぶながら、それに倣う。
二人の気配が遠ざかってやっと、スレンは、つめていた息を吐き出した。
「ツェツェクちゃん、どうしたの?」
優しくスレンを抱き起こしながら、トーヤが問うた。
「…………さっき、揉めた」
「そう……」
「トーヤ、ドルジのところへ行ってやってくれ」
切りだした言葉に、トーヤは予想していたのだろう、平然と応えた。
「あなたを家まで送ったらすぐに」
「今は少しでも速く動ける奴が必要なんだ。エージから符、預かったんだろ?」
トーヤは美しい眦をキッと持ち上げる。
「強がり言ってる場合じゃないでしょ」
「痛みも血もエージが止めた。行ってくれ」
地に落としていた視線をトーヤに向ける。
彼女は、しばらく負けじと睨み返してきたが、大仰に溜息を吐くと、頷いた。
「わかったわ」
それから、清潔な手巾を片手で差し出すと、立ち上がった。
スレンは、トーヤが振り返り振り返り去ってゆくのを見送ってから、糸が切れたように、膝に頭をうずめた。
………何も、出来なかった。頼りになるのは、いつだって衛士だ。
渦巻くどろどろした感情に、自噴が溶けてゆく。
スレンは、首を振って顔を上げた。
「……やれることを、やる。それだけだ」
他に怪我人が出ているかもしれない。『治癒の符は書けないんだ』―――衛士の言葉を思い出す。どちらにしても手当は必要、ということだ。
くらりと感じた眩暈をスレンは気合で追いやると立ち上がる。
それから、上着のポケットに手をやってぎょっ、とした。
出て来たのは、いざという時、獣を追い払うために持っていた『火炎符』。
「と、トーヤ! 待っ…………」
暗闇に少女の気配はすでにない。スレンは瞠目して、下唇を噛んだ。
「………………だから、俺は役立たずなんだよ」
二つの黒い影がスレンの背後でゆらゆらとにじり寄った。
『生気ヲ生気ヲ』とうわ言を呟いて。
お読みくださり、ありがとうございます!
毎日更新予定です。宜しくお願いします!!