「泥人(ニーレン)」(3)
灰色の空の下、どこまでも広がる、薄く雪を積もらせた陸地の片隅に、その集落はあった。
小麦粉の皮で包みこんだような流線形の家々が点在し、煙突から白い煙がたなびくさまは、どこか中華饅頭のようで香ばしくもある。
ロシアと清に囲まれた、この草の国・モンゴルの気温は氷点下三〇度。
シベリアから吹き込む北風によって、平原は青々とした印象をはぎ取られ、大地すら凍る冬に覆われている。
そこに、スレンを含む二十数人の住民は、身を寄せ合うように暮らしていた。
時は、西暦一八九六年。
朝鮮支配権を求めた日本と清国の大戦が終わり、講和条約が結ばれたのは、つい先週のことだ。
けれど、スレンたちが住む集落は、それを気にする余裕はない。現在の生活をどうやりくりするかで精一杯だった。
……四月になるというのに、まだ春が来ない。
まるで、世界情勢の混乱に応じるように、厳しい冬の終わりは見えない……
「よお、スレン。今日も夕飯楽しみにしてるからなー」
儀式を終えた客らを集落の外まで送ったスレンに、大八車を引いた男らが次々声をかけて、緩やかな丘を下ってゆく。
その集団の中に、スレンは自身の兄を認めて、犬を払うように手を振った。
荷台では、無造作に放られた『命の土』の塊が、ゴトゴト揺れている。
『命の土』―――それは、泥人を造り出す神秘の粘土。
スレンの住まう集落は、その『命の土』を採掘する異能者たちが集まった集落だった。
掘り起こしたその『命の土』は、交易都市へと運ばれ、世界各地で反魂の儀式に使われる。
自身の家に戻ろうとしたスレンは、ふと歩みを止めた。
人目を避けるように何者かと話しこんでいるドルジが視界の隅に入ったのだった。
気弱で優しげな表情はなりを潜め、難しげな横顔である。
「……こちらの準備はもう整っていますよ。ですが……寧封子じきじきに動くなんて、いよいよ本気、ってことでしょうか」
ドルジは、突然、パッと素早い動作でスレンを振り返った。
それと同時に、話していた相手の姿も消え失せる。
スレンは、何だか気まずいものを感じて去ろうとしたが、いつも通り柔和な笑みで近寄ってきた友人を無視するわけにもいかなかった。
「スレンさん、そんなところでどうしたんです?」
「いや……。さっきは、悪かったな。ぼうっとしてしまって」
「問題ありませんよ。お客様も満足してお帰りになりました」
と、ドルジの大人びた笑顔が曇る。
「……それより、心配なのはあなたですよ。どこか悪いんですか?」
友人の指摘に、スレンは僅かに目を見開いた。
のほほんとした見目に騙されがちだが、この友人は人の変化に敏感だ。
スレンは、集落から出ようとの決意を話すべきか否か逡巡した挙句、愛想なく答えてさっさと背を向けた。
「平気だ」
「ですが、最近、何だか辛そうです。よく眠れているんでしょうね」
ドルジが追いすがるように服の裾を引いた。
「平気だって言ってんだろ!」
思わず、スレンは声を荒げていた。
ドルジの引き留める指先が、穴の中でもがき苦しむ人々のものと重なってしまって……全身を突き抜ける恐怖が、頭一つ小さい少年を乱暴に突き放す。
「ドルジ様、大丈夫でしょうカ」
バランスを崩した彼を、背の高い、無表情な男が受け止めた。
肩をしっかりと支え、気遣わしげに少年を見降ろしている。
ドルジの側を決して離れないこの従僕は、泥人であることが一目で分かるほど人形らしかった。
「大丈夫だよ」
ドルジは、困ったような顔をして泥人を後ろに待機させると、ぴょこんと頭を下げた。
「しつこかったですね、ごめんなさい。でも、分かってください。僕はあなたが心配なんですよ。僕たちは、陰の者―――鬼にとって邪魔な異能者ですから」
ドルジは、静かに、天を仰ぐ。
「自分たちの世界『陽界』を護るためとはいえ、僕らの同胞は鬼たちを、随分屠ってきました。陰陽の門がいくつも破られ、鬼が陰界から陽界へ渡り来ることが多くなった今、真っ先に狙われるのは、力の大小に関係なく、異能者です」
珍しく強張った表情の少年に、スレンは先程彼が話しこんでいたのを思い出した。
「さっきのは……天師からの連絡か」
「ええ」
―――『陰の者は、陰の世界へ。陽の者は陽の世界へ』。
遥かな昔、歴史は陰と陽のすみ分けがなされた時より始まった。
そして、不可思議な能力によって、秩序に護られた人の世を護り続けてきたのは、スレンやドルジのような異能者たちだった。
彼らは陰界を監視し、此方側へとやって来る鬼らを必要とあらば排除する。
その彼らの頂点に立つ人物が、天師。
人でありながら、もっとも神に近いその人物は、姿を現すことはほとんどなくとも、陽界に害為す陰気を察知すれば、すぐに同胞らへと報せをよこすのだった。
「嫌なニュースですよ……」
ドルジは少しだけ表情を曇らせ、肩をすぼめた。
「地獄の門を破り、あの世から逃げ出した窮奇を見つけ次第捕えるように、ですって」
「窮奇?」
「はい。西天を守護する方位神・白帝の不肖の息子で、その余りに邪悪な性格から、陰界へと堕とされ地獄に封じられていたのですが……。腐っても方位神の眷族。僕みたいな、下っ端が手に負える相手じゃないのに、困っちゃいますよね」
大きく肩を落としてから、慌てて、ドルジは陰鬱な雰囲気を払拭した。
「あ、すいません、僕ったら愚痴っちゃって。詳しくは夕飯時にしましょう。みなさんにも話しておかなければならないので。それでは失礼します」
ぺこん、と人好きのする笑顔で頭を下げてから、ドルジはその場を後にした。
「………………おい」
と、当たり前のように、自分の主人の後を追おうとした泥人をスレンは呼びとめた。
彼は、少し不思議な顔をして振り返った。
スレンは、しばらく、言いにくそうにしていたが、前髪を乱暴にかきあげると、問答無用でその腕を取る。
「やはり、陰陽のバランスが崩れてるな。ったく、ドルジの奴……」
人形の内に渦巻く気の流れに意識を集中したスレンは、溜息と共に言葉を吐き出した。
完全に陽気で構成される人間の身体とは違い、泥人は、陰気を封じた陽の土の身体に、すでに陰界のものとなった霊魂を宿らせている。
その陰陽のつりあいは非常に微妙で、大概、外界の陰陽の乱れに影響を受けやすい。
陰気によって「ちょっと風邪でもひいたかな」となるのが人間なら、泥人は土くれに戻ってしまう……つまり、死ぬ。
ドルジは人形師として修行の身―――道士であり、その腕は、お世辞にも一級とは言えなかったが、作り終えた人形の維持には細心の注意を払うし、人形に対する愛情は人一倍強いはずなのだが。
「どっちが心配なんだか」
人形そっちのけで、何か気を取られることでもあるのだろうか。
スレンでさえ気づくほどに、泥人の内なるバランスは崩れていた。
スレンは、軽く息を吐きだしてから、親指を掌で包み、関節を鳴らした。
パキンッと音がして、人形を取り巻く淀んだ空気が清められる。
「ありがとうございましタ」
「感謝されるいわれはない。俺にはこんなことしか出来ないんだ。……忙しいところ引き留めて悪かったな」
スレンの能力は、水を媒介として、限定された空間を清めること。
その範囲は掌ほどで、煉り上げる気の量も絶対的に少ない。
彼の能力とは人間に毛が生えた程度……神々を召喚することも、鬼を調伏することも出来ない。
自嘲的に笑ったスレンに、泥人は眉を顰めた。
「何故謝るのですカ。スレン殿は感謝されこそすれ、何一つ、頭を下げることはありまセン」
それから、子供にするように、背を屈めてスレンと視線を合わせて笑った。
「スレン殿は優しい方デス。私の命を救ってくださっタ」
「異常があればすぐにドルジに言え」
スレンは歩み去ろうとして、呟くように言葉を付け足した。
「………………言い辛ければすぐに来いよ」
「はイ。ありがとうございマス」
深く頭を下げ、主人の元へと駆け戻る泥人の背を一瞥したスレンは、ぽつりと一人ごちた。
「………帽子掛けのスレン、か」
常に帽子を身につけ、草原を走り回る彼らに帽子掛けは必要ない。転じて、役に立たない者を、そう呼ぶ。
スレンは、卑下するでなく、自身が役立たないことを嫌ほど自覚していた。
草原の民は遊牧を生業とする。
馬に乗り、大地を駆け、羊や山羊を養う。草原で暮らす異能者たちも同じだった。
一つ違うのは、彼らは遊牧だけでなく、土から立ち上る『気』を見分け、『命の土』を採掘すること。
だが、スレンはそのどちらにも役立つ人間ではなかった。
大地の民に生まれながら、馬に乗れず、血が怖いために食事の大部分を占める肉を捌けない。そして、採掘にも参加できない、水の能力。
何故、自分はここに生まれたのか。
何故、自分はここに居続けるのか。
『役立たず』といつだって自分を追いかけてくる劣等感。
誰一人としてスレンを蔑ろにせず、優しく包み込む住人たちの集落で、自分だけが誰の役にも立たない不要なもの。
だから、決めた。
(俺は、集落を出る。そして、道士になる)
集落に危機が迫った時、誰よりも先に闘えるように。
病に倒れた者を、一人残らず救えるように。
スレンは、ぐっと掌に力を込めて地面を見つめた。
と、その時、背後から突然、肩を叩かれた。
「相変わらず辛気臭い顔だねえ」
間の抜けた軽い調子でそう言うと、その人物はスレンを覗き込んだ。
スレンは、頭を振って暗い表情を引っ込めると、ニヤリと口元に意地の悪い笑みを張りつかせる。
「同じ顔だろ、エージ」
「や、やだなー。俺って、こーんな眉間に皺寄せちゃってる? そんな時は、きっと世界滅亡の日だよ。それか、禁酒法が可決された時」
スレンとそっくりの顔形をした少年―――矢背衛士は、腰にぶら下げていた酒瓶を口につけると、ググッと傾けた。
彼は日本人旅行客で、二年も前からスレンの家に居座っている。
採掘に携わらないとは言え、遊牧の民としての仕事を現地人のように手伝い、こなしている彼が、スレンにとっては羨ましくもあり妬ましくもあった。
しかし、その負の感情を忘れてしまうほどに、衛士は気遣いの出来る、心根の優しい少年だった。……少々、アルコールに依存している節はあるが。
「随分お早いお帰りだが、まだ、中身は残っているようだな?」
放牧から帰宅するには余りにも早い。
スレンは、その酒瓶を取り上げると軽く振って中を確認し、衛士を睨みつけた。
「突然、家畜たちが怯えて興奮しだしちゃってさあ。俺の手には余ると思ってさっさと帰って来たのよ」
怠慢だと思い込んでいたスレンは、眉を持ち上げる。
「何か、あったのか」
「いんや、なーんも。でも、嫌な話は聞いたかな。最近、この近隣、狼がやたら出て家畜を襲ってるんだって。気をつけないと。まぁ、狼さんも、お腹空くよねぇ。普通ならとっくに春が来てるはずなのに、まだ極寒の冬が続いてるってゆーんだもん。家畜でも襲わないと、飢え死にしちゃうんだろうなぁ」
「陰界から流入してくる気が、自然の運行にも悪影響を与えているんだろう」
「この終わらない冬も、そのせいかぁ」
衛士は再び酒瓶を傾けた。
と、集落に一台の牛車が入ってきた。
集まる者に、荷台から降ろした氷の塊を分け与え始める。
大地も凍る世界で、遊牧民たちは、厚さ四メートルにもなる近くの河の氷を切り出し持ち帰り、溶かして生活に必要な水を得るのだった。
「スーレーンッ!!」
その集まりの中から、スレンを見つけ駆け寄ってきた少女があった。
スレンと同い年のツェツェクだ。
小柄で均整のとれた身体の上に乗っかる丸顔は血色よく、寒さに頬を真っ赤に染めている。
スレンが自分に気づいたと分かり、長い袖をまくって手を振った。
騎乗に最適な、首元まで隠す襟の長い服――デールと呼ばれる――に、地味なにぶい青緑色の上着を羽織っている。それが、肩口に触れるか触れないかの切りそろえられた茶髪や、活き活きと輝く瞳を明るく引き立てていた。
「今日は羊一頭潰すんでしょ? 肉でしょ、肉!」
白い歯を覗かせて笑うと、針でつついたようなえくぼが口元に浮かんだ。
衛士が大げさに肩を落として応対する。
「食糧難だって話をしてたばっかりだよ、僕ら」
「さっきの人、お礼だって、二頭も置いてったじゃないの」
「だからって、この長く厳しい時節に、一匹丸々潰すなんて豪勢なことはしないでしょーが」
「その、チョー辛気臭い顔が冬を長引かせてンの。こうゆう時は、羊くんをガツンと食べて、元気つければアッちゅーまに春だって!!」
言って、勢いよくスレンを振り向き、だだを捏ねる子供のように彼の腕を引っ張った。
「ね? ね? 羊一匹丸茹で食べたい。久しぶりに活きのいい羊が食べたいー!」
「甘やかしちゃだめだぞ、スレン。お客さんでもない限り、そんな贅沢出来ないっての」
「贅沢は心の洗濯よ」
「まずは、その腐った性根の洗濯を……い、たたたた」
ツェツェクの手がにゅっと伸びて、衛士の頬をつねり上げた。
「ス、スレン、言ってやってよ。この暴力肉おん……あだだ、ギブギブギブ!」
千切れんばかりに、引っ張られて衛士の唇から悲鳴が零れる。
構わず前方を見つめていたスレンは、目を細めて何事か確認すると、ツェツェクに頷いた。
「……いや、潰すことになるかもしれない」
「ひゃんだって? (何だって?)」
思いもよらない解答に驚いたのは衛士だ。
それから、スレンにならって集落の外へと目をむけた衛士は、土埃を立てて向かってくるものを認めた。艶やかな紅が、馬上で揺れている。
「ツェツェク、トーヤだ。トーヤが帰ってきた」
「え?」
スレンの言葉に、ツェツェクも二人にならった。
あっと言う間に三人の前へ辿りつくと、馬上からヒラリと少女が降り立った。
「ツェツェクちゃん……!」
「トーヤ!? うわお! おかえり!!」
ツェツェクはさっさと衛士を離すと、飛び上がらんばかりに喜んでその少女に飛びついた。
バランスを崩して転びそうになりながらも、トーヤは華奢な身体で友人を受け止めた。
「もう、大丈夫なの? 身体、辛くない?」
「ええ。心配かけてごめんね」
ツェツェクを強く抱きしめていたトーヤは、スレンに気づくと、ほんのりと頬を染めて目元を緩めた。
絹の黒髪に縁取られた細面の顔は、陶器のように白く、目元の涼しい、笑うと花のような顔になる美しい少女だった。
一見すると派手な紅の上着も、うまく着こなしている。
「ちょっと。誰かな、スレンくん?」
衛士はにやにやと笑いながら、スレンに問うた。
「ツェツェクの親友だ。体が悪くて、清の方へ療養に行ってた」
ぶっきらぼうな答えだった。けれど、少女を見つめ続ける瞳は、どこまでも温かい。
「それだけ?」
「他になにがある」
「いえいえ~、別に」
問いを重ねた衛士を振り返ったスレンは、もう、いつものように辛気臭い顔をしていた。
衛士はつまらない、と肩をすくめて黙った。
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