しょっぱい旅立ち
空が明るむ頃、スレンは必要最低限のものを鞄に詰め込むと、立ち上がった。
見渡す集落は、無残にも変わり果て、草が崩壊した家屋を無視して長く伸びるさまは、まるで、とうの昔から廃墟であったかのようだった。
「スレン、忘れもん」
見送りに出たツェツェクが、そっとスレンの掌に小さな石のようなものを握らせた。
狼の足の、関節の骨が先端についた、お守りだった。
「二年前にね、トーヤと作ったの」
照れたように彼女は、笑った。
スレンは、堪らずに彼女を抱きしめた。
愛していた、集落のみんな。
愛してくれていた、集落のみんな。
ツェツェクの、真実を知って、それでも背を押してくれる優しさが、痛いほど胸を潰した。
「ずっと言えなかったけど、あたし、あんたのこと好きだったよ」
彼女の言葉にスレンは目を閉じる。
「過去形か?」
「………過去にすンの」
つい、と胸板を押して離れようとする少女の腕をスレンは引き留めた。
そして、絞り出すように言葉を口にする。
「ツェツェク、一緒に行こう」
少女は困ったように目をしばたたかせると、首を振った。
「あんた、島国に行くんでしょ? あたしは枯れた大地の民。コップ一杯の水だって、怖いもン。それにさー、君に必要なのは私じゃないし」
「必要だ」
「ありがとう。でも、あたしはここでお別れするよ。お守りなんてもーたくさんなんだわ」
涙を目いっぱいに溜めて、けれど彼女はにっこりと笑って言った。
スレンの手をそっと離す。
「…………さよなら、スレン。身体には気をつけてね」
スレンは、集落を後にした。
振り返りたい衝動を、グッと拳を握りしめて耐える。
出て行こうと思っていた。
けれどそれは、こんな結末を迎えるためじゃなかったはずだ。
「ツェツェク!!」
一人きりで生きて何になる。
守りたいものなくして、どうして生きられよう?
振り返ったスレンは、唇を固く結んだ。
………すでに、少女の姿はなかった。
役目を終えて、静かに土へと戻ったのだ。
『…………ありがとう』
―――愛してくれて。
一塊の砂が風に拾い上げられ、天へと舞いあがる。
「遅いぞ。出発に何時間かけてるんだ」
背後から聞こえた声に、スレンは袖口で慌てて目元を拭った。
「……どうして、あんたがいるんだよ。帰ったんじゃないのか、寧封子」
「君が窮奇を喰ってしまったせいで、僕のコレクションが一つ減ってしまったんだ。だが、黒龍でも構わないと気づいてな。責任もって、あの龍に乗せたまえ」
紳士の姿を取り戻した寧封子は、さも当たり前というように、命じた。
「もう符はないぞ」
「な、何ぃ!? 君、書けないのか」
「書けない」
「だ、だが、符があれば出せるんだろう?」
「あんたも書けないだろうが」
「ぐぬぬぬぬ」
スレンの応酬に、歯ぎしりして呻いた麗人は、ふ、と肩から力を抜いた。
「まあ、いい。いずれ、書けるようになることだしな」
「まさか……待つつもりか、あんた」
「道士になりたいんだろう? 必ず書けるようになる。……君が諦めなければ、だが」
「…………何年かかると思ってるんだ」
呆れ果てたと口をあけるスレンに、寧封子は唇の端を上げてニヤリと笑った。
「年月なんてこのネイ様には関係ないね。これでも、二千歳は超えている」
「な……」
スレンは絶句した。
彼が仙人として登場したのは、遥か昔の黄帝の時代。
当たり前と言えば、当たり前なのだが、余りの超越した時間感覚にスレンは頭痛を覚える。
不意に、寧封子の細く長い指が伸びて、スレンの胸ポケットから佩身牒を取り出した。
「それにしても律儀なこったな。矢背衛士の佩身牒があるんだ。それで暮らせばいいものを」
「…………俺は、矢背衛士じゃない」
「あくまで言い張るのか」
「ああ。集落のみんなが愛してくれたのはスレンだ。それと同じで、矢背衛士を待つ者もいる」
言葉に、寧封子は満足げに頷いた。
「黒龍に乗せてくれたら、君の望むこと、叶えてやらんでもない」
「願ったり叶ったりだ。忘れないでくれよ」
(あいつは命を、最後まで捨てなかった)
スレンは、寧封子から佩身牒を取り返すと、じっとその写真を見つめた。
―――いずれ、返す時まで。
「エージ、しばらく休め」
スレンは、それをしまい鞄を担ぎ直すと、歩み始めた。
* * *
―――後世、除災招福を祈り、家々の門扉に描き祀られる二体の神が生まれた。
そのうちの一神は、奇特な出生を揶揄して『泥人道士』と呼ばれている。
この二つ名を慎ましく拝受し、終生その名を愛し続けた者の名はスレン。
天師のおわす紫微宮を鉄壁といわしめた『比翼の守衛』の一人である。
これにて泥人道士スレンはおしまいです。
最後までお付き合いくださり、本当にありがとうございました。