矢背衛士(やなせえいじ)(3)
膨大な光の洪水が起こる。
夜を迎えつつあった空は、昼間のように明るんでいた。
「……とことん生意気な奴め」
そう吐き捨ててから、寧封子は膝をついて、指先で地に触れた。
「何、する気なんだ、あんた」
スレンは何とか、立ちあがった。胃が、頭が、重たい。
寧封子は、静かにスレンに向き直り、一枚の符を取り出した。
「……飲め。治癒符だ。これから、ますますきつくなるぞ」
傷が癒えてゆく。吐き気が強くなる。
ふらりと立ちくらんだスレンの身体に変化が訪れる。
透明な小指の爪ほどの鱗が腕に一斉に生まれた。
「窮奇は、金気の鬼の内でもトップクラスの力を持つ。どうやっても、打ち壊すことは不可能だ」
「だから?」
「だから、喰わせる」
「そのための水龍符か……」
「『呼神霊沢王符』は、陽界五龍王の内でも最も力があると言われる水を司る黒龍・霊沢王の召還符……浄化を司る水ならば、振り撒かれる邪気をも地に辿りつく前に祓い清めることも可能だ」
「だが、エージはどうなる。……窮奇の暴走に巻き込まれる。救わなければ……」
問いを寧封子はわざと無視した。
「人の心配をしている余裕はないぞ。君は、龍王を呼び出す依代になるんだ。力のない君では、少しでも気を抜けば呼び出した霊沢王に、喰われる」
「俺が喰われたら、その後は」
「それは心配いらない。僕がいるのだ。龍王ごときの水気など、すぐに散らしてみせよう」
『力を解放する鍵は、俺なーの』
スレンの心臓が、どくどくと早鐘を打った。
自身の身体を見降ろす。むき出しになった、傷口がみるみるうちに塞がってゆく。肌に浮かび上がった黒い鱗。
「祖師、我をして符を勅せしむ。勅して此の符を得、符は首勲、符は眼光。符は鬼鬼を滅亡せしむ」
自分が衛士ならどうする?
最も安全な場所は、何処だ?
「だめだ。エージは……」
低く呪いを唱える寧封子に、スレンは掴みかかった。
龍に飲み込まれる危険性さえ回避できるのならば、水龍の依代ほど守られた場所はない。
けれど、依代の精神力如何でそこは最も死に近い場所となる。
(俺なら、どうする……)
『力のない者では』
つまり、力さえあれば、必ず勝てる。
そして、力は、事実あるのだ。封じられているだけで。
しかし。力を、解放するには、鍵を、壊すしか―――
「まずは、エージを救わなければならないんだ。寧封子! 聞いてくれ!!」
スレンの制止の声にも関わらず、彼は阻まれることなく、朗々と呪を紡いでゆく。
淡く、大地が寧封子を中心に円形に輝いた。
「符霊套套として、応有り。套套として将を帯びる。雄兵猛将、弟子を扶持す。呼神出煞、駕馬興工等百、禁忌無し」
ぞわり、とスレンの身体が総毛立った。込み上げる吐き気のまま、黒い塊を吐き出す。粘り気のある液体に、黒光りする幾つもの鱗。
スレンは、身体のうちをぐちゃぐちゃに掻き回されたように、嘔吐を繰り返した。地に手をつく。その指先すら、びっしりと鱗が浮かび上がっていた。
来る。
身体の奥から、全身を突き破って。
―――龍が、来る。
「俺は、負けない。制御してみせる。だから!」
生かそうとする衛士の思いは分かっていた。
自分がどれだけ情けないのかも、信じるに足る人間でないことも理解していた。
何が、最善なのかも。けれど。
けれど。
「エージ、戻れ。お前まで、失ったら、俺はっ……………………」
兄弟のように、暮らした二年間が走馬灯のように脳裏をよぎった。
心が、ひび割れてゆく。
「う、あああああああああああああああああああああああああっ!!」
咆哮が頭上を突き破って天を突いた。
霞む視界に、黒き龍が上へ上へと駆けてゆくのが見えた。
それは、のたうち暴れる妖鳥の首に噛みつき、ぐうるりと動きの鈍くなった獲物を絞め殺さんと絡みついてゆく。
地を轟かす断末魔が響いた。
龍は、くわっと大口をあけると、妖鳥の頭にかぶりついた。
白く輝く金気が黒ずんでゆく。水に、飲みこまれてゆく。
龍の嘶きが天を割った。
雷雲が沸き、地を打つ大粒の雨が降り注ぐ。
「急々、如、律令勅!!」
寧封子の、美しい声が響いた。スレンは、その場にへたり込んだ。
「エージ……」
自身を見降ろす。もう、鱗は見当たらなかった。
龍はやがて、身をよじるように天を旋回して、やがて黄光とともに弾け飛んだ。
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