悲しき檻に囚われて
天空を旋回する妖鳥の真下に、トーヤはいた。彼女を護るように、幾本もの刀剣が宙へと浮かび、スレンの気配に一斉にそれらは剣先を向けた。
「トーヤ」
呼びかける。
声は届いていないのか、トーヤは身じろぎもしない。
「トーヤ!」
名前を呼ぶたびに、想いが溢れた。
愛おしさ、狂おしさが、やるせなさに吸い込まれてゆく。
「トーヤ!!」
三度目の呼びかけで剣先が下がった。まるで拱いているかのように。
トーヤは腕を組んで嫣然と微笑みスレンを見つめていた。
その身体は、もう人とは言えないものに変形していた。
素肌は光沢のある白い鱗で覆われ、腕は引き千切られたように肘から下が異様に伸び地にたゆんでいた。白魚の指は、皺が寄り、先には枯れ枝のような鋭い爪が生え出て、ヘソから下は、豹の肢体に変化していた。
泥人の本質が外へと現れ出していたのだった。
スレンは歩み寄った。
歩を進めるたびに、吹き寄せる異臭が、肌を焼く。
彼女は、向かってくるスレンに何の感慨もないのっぺりした表情を向けた。
そして、煩わしそうに、爪先をスレンへのばした。
「トーヤ………泣いてるのか?」
何となく、スレンはそう思った。
「ぐっ……」
苛立たしげ振るわれた爪が、スレンの大腿に突き刺さった。
「今は、私嬉しいのよ。あなたのこと、憎しみのままに切り刻む強さがあるんだもの」
そして、大きく抉るように、くるりと回して引き抜く。赤い血と肉が散った。
「あなたの真っ赤な真っ赤な血」
ちろりと小さな形の良い舌を覗かせて、トーヤは爪先に付着したスレンの血液を舐め取った。
端正な面に喜色が浮かび、彼女はくすくす笑いながら幾度も爪を繰り出した。
「花が咲きます。真っ赤な真っ赤な赤いお花……ねぇ、スレンくん、あなたの血って、とっても奇麗なのね。あは、あははは……!」
浅く、長く………スレンの身体いたる所に朱線が描き、刻み込まれてゆく。
スレンは、庇いもしなかった。
苦渋に満ちた表情で、ただただそれを愚直にも受け続け、懸命に歩んだ。
トーヤへ向かって、一歩一歩大地を踏みしめて。
「……トーヤ」
静かな決意を携えた瞳が、少女を捕らえた。
少女の肩が震える。彼女は唇を噛むと、躊躇なくスレンの胸へ、人差し指を突き出した。
「トーヤ、俺は……」
スレンは右手で力強くそれを掴んだ。
掌から血が溢れるのも構わず、握ったまま脇へと反らす。
ジャキンッと宙に浮いた刀剣が一斉にスレンへと剣先が向き―――
「っ!? な、何、何なのよ!!」
スレンは、大きく踏み出して、トーヤを抱きしめた。
剣先はスレンを切り刻む前に、一寸先でピタリと止まった。
「……放してよ」
「放さない」
「放してっ」
「……………………放さない。もう、絶対に、放さない」
トーヤの爪がスレンを剥ぎ取ろうとあちこちを切り裂き貫いた。
けれど、スレンは渾身の力でもってトーヤを押し留める。
スレンだって、トーヤと同じ思いを懐いていた。
トーヤや大切な友人らを切り捨ててまで手にいれる未来に、如何ほどの価値がある?
そんなもの、必要ない。こちらから願い下げだった。
けれど、その全てを終わらせるのがトーヤであってはならない。
彼女のやるせなさが、利用されてはいけない。
窮奇が目覚めればこの集落だけでは済まないことは、容易に予想がつく。
その罪さえ、彼女が背負うことだけは、何としても阻みたかった。
自分が、集落と共に消え去ればいいだけなのだから。
「遅いのよ。もう、私は……」
「一つ、決めてたんだ。俺は、お前の盾になるって」
清へと旅立つトーヤを見送った時、まるで、野辺送りのようだと思った。
もう二度と会えない恐怖に自分の気持ちを知って、一つ、揺るがないものが出来た。
道士になる。みんなの役に立つような、立派な道士に。
その中心にいたのは、トーヤだった。
「お前を、守りたい。病からも、鬼からも、全てから……だから、俺は、道士になろうと思った」
もし、彼女が再び集落の地を踏むことがあったのならば、彼女が誰かと共に幸せになる日まで、その幸せな未来を護る盾でありたいと。
どんな刃も、代わりに受ける………役立たずな自分が、与えられるのは、自分自身しかなかったから。
「無駄なのが分からないの? あなたへの想いすら、もう思い出せないのに」
スレンはゆっくりと首を振った。
ごぽり、と嫌な音を立てて、血が逆流した。口中に鉄の味が広がってゆく。
彼は、けれど、気力を振り絞って笑った。
「関係ない」
滑るように唇から想いが零れた。
「俺をトーヤにやるよ。望むままにしたらいい。俺は、俺しか持ってないんだ」
トーヤは瞠目した。
スレンは、その絹糸のような黒髪をひと房指先で持ち上げると、頬を寄せた。
気配を窺うように浮かぶ、刀剣の間に緊張が張り詰める。
鼓膜を破るような静けさの中、トーヤは力が抜けたようにスレンの肩へ顔を寄せた。
「………………凄く、辛いの」
傲然とした微笑みが、くしゃりと歪む。
「憎しみしかない。大切だったのに、幸せだったのに……もう、思い出せない」
スレンは、そっとトーヤの頬を右手で触れた。
ぽつぽつと浮かび上がった、白い羽毛が透き通る涙に柔らかに濡れた。
「思い出せないの、スレンくん……」
涙に濡れた、瞳がみるみるうちに感情の色を戻してゆく。
スレンは、力づけるように微笑んだ。
狙いを定める剣先が、つ、と揺れて地へとバタバタと落ちた。
押し殺されていた感情がほどけて、ほとばしるようにトーヤの双眸から涙がぽろぽろと零れた。
空を駆ける妖鳥の動きが緩慢になり、ゆるゆると高度を下げてゆく。
トーヤの魂が抜けたような表情に、スレンは唇を噛みしめた。
人形は、理由のために生きて死ぬ。
彼女が、スレンを憎むために生まれたのならば、この涙はそれを裏切るもの………
「それじゃぁ困るんですよ、トーヤさん」
不意に聞こえた声に、スレンは顔を上げた。
トーヤの背後、地から湧き出るように悠然と現れたのは―――死んだはずの友人だった。
「ド、ルジ?」
「『窮奇を目覚めさせる』。それが、あなたの生まれた理由です。満足に命令も聞けないなんて本当に、困った人形だな」
「あ、あ、ああ、ど、ドルジく……ぐぁあっ!?」
茫然とするスレンの目の前で、彼はトーヤの背に腕をねじ込むと、小さな石を取り出した。
「もう。あなたがそんな風だから、僕が出てこなけりゃならなくなっちゃったじゃないですか」
そして、舌の上で見せつけるように転がしてから、軽い音を立てて飲み下した。
と、同時にトーヤはガクンと崩れ落ちる。
それを受け止めたスレンの満身創痍の風体にドルジはニヤニヤ笑った。
「ま、ここまでスレンさんを痛めつけたのは褒めてあげましょう。………ん? 何、呆けてるんですか」
スレンは、霞む目を必死に眇めてドルジを見つめた。
頭の回転が状況に追いついてゆかない。
「ふふ……死んだはずなのに、って思ってるんですか? 道士・仙人には『尸解』って言葉があるんです。ありていに言えば、脱皮、みたいなものかなあ……。自分が過ごした故郷から出て行こうと決めた時、道士や仙人は死んだように見せかけて、本体はさっさと飛翔し別の場所へ遊ぶ……ま、死んだフリって十八番なんですよ」
悪戯がばれた時のように、無邪気な笑顔だった。
段々と、浮上してくる事実にスレンの目がみるみる見開かれてゆく。
「まだ、得心してない顔ですね。……僕が生きてたら、この騒動、手伝わなきゃならないでしょ? 窮奇相手にやりあったら、さすがに僕、本当に死んじゃいますからね。トーヤさんの三蟲には窮奇に生気を送り続けて貰わなければならないし、かといって、あなたたちとつるんでたら、命がいくつあっても足りなさそう。だから、僕、傍観に徹しようと思ってたんです。だけど」
スレンが身を投げ出すことによって、トーヤは自己矛盾を抱えて動けなくなった。
窮奇が陽界に定着する前に。
「生気の溜まりきっていない鬼は、揺り籠なしではさっさと陰界へと引き込まれてしまいますからね。トーヤさんに埋め込んだ、窮奇の元となる宝玉を僕に移す必要があったんです」
……生涯を終えようとしていた、トーヤへ新たな身体を与えた道士とは、まさか―――
「お前、だったのか」
「ええ。トーヤさん、言わなかったんですね。律儀だなあ。それとも、殺したと思って安心してたのかな」
「…………何故だ。何故、そんな、ことを」
「僕、どうしても力が欲しかったんです。『神殿』を打ち壊す力が。もんもんとしてた時、十八子の方が宝玉をくれたんですよ。無事立派にこの鬼を育てられたら、この力をそのままくれてやるって。怪しいなーとは思ったんですけど、ま、力が手に入るならいっかなーって」
「……十、八子?」
「彼らが何を企んでるか……まぁ、ろくでもないことでしょうけど、僕は知りません。ぶっちゃけると、窮奇が陽界に羽化したら、神殿を殺すよう依頼されてたんですが、それも僕にとってはどうでもいいことでした。エージさんには、個人的に恨みもありませんし。……でも、それがあなたのことなら別です。喜んで僕はあなたを殺します」
初めて見た、憎悪の瞳にスレンは戸惑った。
「何故だ……それで、何故、こんな回りくどいことを!! 何故、トーヤにこんな……こんな酷いこと……!!」
「スレンさん、彼女のこと好きだったから……悲しかったんですね」
ドルジは、憐れむようにスレンを見た。
そこには、優者がみじめな物に対する感情が色濃く見て取れた。
「ざまあみろ。苦しめよ」
ドルジは歪んだ笑みを浮かべた。
スレンは、何も言わなかった。ただ、愕然としていた。
何がここまでこの友人を追い詰めたのか理解できずに途方にくれる。
ドルジは、つまらなそうに笑い顔を引っ込めると、うわ言のような呟きを漏らした。
「僕、もう、疲れちゃったんですよ。…………腐りきった、この虚飾の檻に囚われていたのは、あなただけじゃない」
打ちのめされた少年の横顔にみるみるうちに自嘲が刻まれてゆく。
「人形たちの監視役としてここへ来たのに……あなたを愛するために生まれた人形を、想ってしまうなんて、ね」
他愛もなく笑いあっていた思い出が、翻り翻り、地に触れて、粉々に砕け散った。
スレンはきつく目を閉じた。
少年の、切ない眼差しが鮮やかに蘇り、胸を抉った。
「お笑いだ! あなたは出て行くでしょう。それは、定めです。けれど、彼女は? 僕の想いは? 答えは出ない。未来はないんです」
ドルジは、地に転がった刀剣を一本無造作に取り上げると角度を変えてその輝きを見た。
鈍く光る銀に夕焼けが映った。まるで、少年の内に燃える怒りのように。
「ないんですよ。あるのは、あなただけに用意された未来だけ。そんなのズルイじゃないですか。あなただけが前へ進める。人形たちは置いてゆかれ、僕の想いは殺すしかない。そんなの、……そんなの認められない、許さない!!」
ドルジは振りかぶった剣を、スレン目がけて叩きつけた――――
肉が裂け、骨を砕く音。
「ダ、メ……スレンくんは、傷つけ、させない……!!」
スレンの目の前で、両の手を広げて立ちはだかったトーヤへ、その一撃は容赦なく食い込んだ。音を立てて、血が噴水のように噴き出す。
「トーヤッ!!」
「人形無勢が、邪魔を、するなあああああ!!」
叫びと共に、手首を捻って繰り出された刃は、トーヤの華奢な首を斬り飛ばした。
血漿が雨のようにスレンを打った。
びちゃ、びちゃと顔に飛び散る命。
コマ送りのように、宙を舞ったトーヤの頭部へスレンは手を伸ばした。
首が、落ちてしまう。
無意味なことを、と頭の隅で卑屈に笑う自分がいた。
コロンと、満足げに微笑んだ少女の頭が地面に転がった。
スレンは、そっとそれを抱きあげた。
ぬるりとした感触がまざまざと現実を突き付けてくる。
それは、じっとりとスレンの身体を赤く染め、やがてぼろぼろと土に変わっていった。
スレンは、茫然と地にへたり込んだ。
「ふん……奇跡、ってやつですか。憎むために生まれた人形が、少しでも、あなたに愛情を示した……ふふ、茶番だ。なんて、茶番なんだ。こんな、今更、今更こんな可能性……!!」
ドルジの右足がスレンの鳩尾にねじ込まれる。
「がぁっ……ぐ、ごほっ……ごほっ……」
身体をくの字に折ってスレンは咳き込んだ。
「僕自ら手を下すことはやめました。あなたは、エージさんの後に残しておいてあげますよ。そして何も出来ない自分に血反吐吐いて悔みながら、友人が嬲り殺されてゆくのを見てればいい。あなたが絶望に打ちひしがれた時、僕が優しく手を差し伸べてあげます。窮奇の力で、じわりじわりと足から細かく切り刻んであげますよ。それまで、死なないでくださいね。這いつくばって痛みに耐えていてくださいね」
「………………やめろ、ドルジ。ツェツェクが、悲しむ」
「良かった。思ったより、まだ、元気みたいだ」
ドルジの右手が鳴り、一つ小さな光が弾けると地が揺れた。
大樹と見紛う腕が出現し、ぐるんっと土煙りを上げて横殴りの拳が繰り出される。
咄嗟に右手で庇うものの、ばきばきっと嫌な音を立てながら、スレンは吹っ飛ばされた。炎の囲いを突き抜ける。受け身など取れようはずもなくそのまま地を転がった。
心も体も、痛みはとっくの昔に耐えられる限界を超えていた。
心身共に、バラバラになってしまいそうだった。
それでも、立ち上がれたのは一重に怒りのためだった。
自分自身の、運命への。重く圧し掛かる、定めへの怒り。
多くの犠牲のうえに立つ、神殿という存在への、その存在を護るために仕掛けられた執拗な罠への、怒り……
「スレン!」
まろぶように駆け寄ってきた衛士と、真っ向から向き合う。
(…………絶対に、護る)
衛士は生きている。
(俺を、神殿と思い守り育ててくれた集落のみんな……ここで、俺がエージを護れなければ、全部が無駄に帰す)
「お前は、俺が護る。命に代えても」
お読みくださり、ありがとうございます。
毎日更新予定です。宜しくお願いします!!