人形らの愛した子
「トーヤ!!」
ツェツェクは、覆いかぶさるように親友を抱いていた。
細い首から溢れ出す血がどくどくと刺繍の施された絨毯を染め上げてゆく。
正確に傷つけられた動脈は、止血の手を無意味に帰し、命を吐き出し続けているようだ。
ツェツェクの手が傷口へ伸びる。止まれ、止まれ止まって―――
「と、トーヤが何したっていうのよ!? この人殺し!!」
溢れてくる涙にも構わずに、ツェツェクは生々しく滴る血に濡れたナイフを手にした衛士を睨みつけた。
トーヤと二人で、久しぶりに他愛もない話をしている時、突然、衛士がやって来たのだ。左手にドルジの遺体を抱えた彼は、蒼白な面持ちで、ツェツェクとトーヤを見比べると、ゆっくりと少年の身体を横たえた。そして、きつく目を閉じてから―――トーヤへと襲いかかった。ツェツェクが止める間もなかった。
「ドルジもあんたが殺したんでしょ!? そうなんでしょう!? どうして……!!」
「…………君は、外を見たのか?」
静かに、衛士は尋ねた。
思いもよらない問いにツェツェクは訝しげに眉根を寄せる。
「いや、見ていないならいいんだ。今は、集落から離れた方がいい。風が強い。この家にも火が飛び移る。詳しいことは、きっちり話すつもりだから……とりあえず、避難しよう。……って言っても、素直には聞いてくれないか」
動かないトーヤを、ツェツェクはぎゅっと抱きしめる。衛士は踏み出しかけていた足を元に戻した。
沈黙が落ちる。
ジジッと焦げ付いた匂いと共に、家屋に火がついた、かと思うと一気に燃え広がる。
骨組みに布を被せた作りの家は一溜まりもなかった。
衛士は、意を決してツェツェクへ歩み寄った。
「ツェツェクちゃん、もう時間がない」
「…………スレンは? スレンはどうしたの」
その手を取らずに、彼女は静かに問うた。衛士は苦しげに眉を潜めたまま、口を閉ざした。
「どうしたの、って聞いてんのよ!?」
「…………スレンは」
「トーヤ!! ツェツェク!! 無事か!?」
その時、宙空に突如、傘が現れた。ぎょっとする二人の目の前に血相を変えたスレンが飛び出してくる。
「トーヤ!?」
彼は、地に着地するとすぐさま横たわる少女に駆け寄った。
抱き起こして、スレンは息を飲んだ。
形の良い鼻に耳を寄せるも、呼吸音は感じられない。
戦慄が背筋を駆け抜ける。
「トーヤ……」
訪れる絶望、湧き上がる怒り。
「エージ……エージ、貴様っ!! ……なぜ……何故だ!?」
清へと旅立った、華奢な背中。それを、見送るしか出来なかった情けなかった自分。
彼女は誰からも見捨てられた病を克服して、戻って来たのに。
もう二度と会えないかもしれないという絶望を、氷解させた彼女の微笑み………生きている、それだけで、どれだけ心が震えたことか。
「随分早く帰ってきちゃったんだね、スレン。もう少ししたら迎えに行こうかと思ってたんだけど」
スレンの燃える瞳に、衛士は肩を竦めた。
答えはない。
スレンは、身を切り裂くような悲痛な声を上げた。
「お前の目的は俺だったはずだ。関係のない者まで巻き込まなくても良かっただろう!?」
傷つきながら、馬を駆ってスレンへ知らせてくれた兄の苦しげに歪んだ横顔、トーヤの血の気のない面。何故何故何故……怒涛のごとくに疑問が打ち寄せる。
「何故なんだ、エージ!! 兄やトーヤを何故傷つけた!? 答えろ!!」
たった二年の付き合いだったが、スレンにとって、衛士は間違いなく家族だったのに。
「目的……って、知ってたの? 何か、誤解あるみたいだけど。俺が刺したのはトーヤちゃん一人だけだし、君のお兄さんを襲ったのは蟲だ」
「いけしゃあしゃあとどの口が抜かすか。それも、お前が……っ」
様々な感情が目まぐるしく渦巻いて目の前が赤くなる。
スレンは、衛士の胸倉を掴むと激情のままに頬へ拳を打ち付けた。
「…………違う、って言っても信じてくれそうに、ないね」
地に尻もちをついた衛士は、唇から流れた血を袖で拭うと困ったように笑った。
それが、スレンには不気味に映った。
いつもと変わらない友人だった。
過ちを責めずに、粘り強く懇々と説く姿に、不審な所は一つもない。
ただただ、この炎に囲まれた場と床に倒れる少女、そして傷つけられた兄だけが異常だった。
「とりあえず、外へ出ない? このまま、ここにいたら皆焼け死んじゃうよ」
衛士は、それでも、ツェツェクとスレンに言った。二人が言葉に従うことは万に一つもないのは少し考えれば分かることなのに。
ツェツェクが隣で咳き込んだ。スレンは衛士から距離を取りながら、少女を抱え起こそうとして―――
「ダメよ。行かせない」
その腕が、優しく掴まれた。
「……トーヤ!? 無事だったのか!!」
ふらりと危うげな足取りで、トーヤはスレンへ歩み寄った。血に濡れた唇が艶然な笑みを浮かべる。
「ダメだ、スレン! 彼女から離れて!!」
衛士の警告が飛ぶ。
瞬間、スレンは総毛立つのを感じた。
ツェツェクも何かを感じ取ったのだろう、じりじりと間合いをあける。
「帰ってきたと思ったら、まっすぐ私の所に来るんだもの。驚いちゃった」
そんな二人の友人に悲しむふうもなく、彼女は人差し指で唇から漏れ出た血を拭うと、自身を両手で抱いた。氷の瞳で衛士を射る。
「僕だって驚いたさ。帰ってきたら、みんな生気を喰われてたんだからね」
衛士の口調はいつもと変わらなかったが、押し殺した怒りが燃えていた。
二人の間に青い火花が散る。
「え……」
スレンとツェツェクは、衛士の言葉に目を瞠った。
………生気を喰われていた?
「それがどうして私のせいなの?」
トーヤの問いに、衛士は静かにポケットから手を出した。掌に乗っかったものが答えだった。
「それは、……『命の土』?」
「ああ。スレン、ごめんね。咄嗟に嘘ついちゃったけど……これ、最初に化け物に襲われた時、俺の斬命魔が化け物―――三蟲からもぎ取った代物だったんだよ。俺は、早くから正体は泥人だって検討つけてた。だけど、誰が人形なのか、どの人形なのかさっぱり分からなくって……」
ますます混乱する。人形が犯人なのはスレンもネイから教わって知っていた。
だが、何故、それがトーヤと繋がるのか。
「泥人と三蟲は表裏のように通じ合っているんだよ。泥人が傷つけば、三蟲も傷つき、三蟲が傷つけば、泥人も傷つく。どちらか一方が消滅すれば、存在していられない」
「だからって、それが、何を……」
「トーヤちゃん、右手、怪我でもしたの? 化け物に初めて襲われた時からずっと、庇ってるよね」
「…………意外とよく見ているのね。やっぱり、早く取り返せば良かったな」
それから、鈴の音のように愛らしい声で、くすくすと笑った。
スレンとツェツェクは、信じられないと目を瞠って友人を見つめる。
「……ツェツェクちゃんだけ、どうするつもりだったんだ?」
「どうも。ただ、真実を知ってもらいたかっただけ」
衛士の問いに、トーヤは、頬にかかった長い髪を、ゆっくりと耳にかけて傲然と笑んだ。
「殺すのは、その後でも良いしね」
「……そ、そんな、トーヤ……」
友人の豹変を未だ悪い夢としか思えないツェツェクに、酷薄に笑顔を歪めて、トーヤはぺロリと唇を舐めた。
「スレンくんもいるし、あの話の続きを教えてあげる」
「あの、話?」
「そう。子供を自分の意思で育てた人形たちのお話……」
スレンは、ショックで起きあがれないツェツェクを庇うように抱き寄せた。降り注ぐ火の粉を、手を一振りして払いのけたトーヤは衛士を挑発的に見る。
「彼らは自分の意思で、その子を愛し育てたはずだった、ってところまで話したよね。それが、人形の意思の可能性だった、って。けれど、それこそ、彼らが生まれた理由だったのよ」
ツェツェクの目が、みるみるうちに見開かれる。
「彼らはその子供を育て慈しむために生まれた存在だったの」
「……トーヤ?」
震える声が、ツェツェクの唇から洩れた。
話が見えないスレンは訝しげに眉を潜める。
「一匹の人形がね、それを知って、とても、悲しくなったの。誰でもない自分の意思で愛したはずだったのに、それこそ初めから決まっていたんですもの。愛するってことは、とても心地の良いものだったけれど……その愛され慈しまれて育った子供は? 私たちのこと、愛してくれるのかしら? ずっと、この集落にいるのかしら? 私たちを捨てないのかしら? だって、彼がここを出ていったら、私たちは死ぬしかないんですもの」
「ま、さか、それは……」
スレンにもさすがにピンと来た。
彼女が誰について、話しているのか。
「ここは、『矢背の神殿』を護る人形たちの集落だったの。ねぇ、『神殿』……いいえ、スレンくん。あなたはこの事実を知って、それでも、出て行くの? 私たちを、殺すの?」
「待ってくれ。それが本当なら、みんな、みんな……」
「私ね、ツェツェクちゃんもスレンくんも同じくらい大好きだったから、辛かったの。だから、あなたのこと、愛してない、って思い込もうとした。そうしたら不思議ね……人形であるはずの私の体が衰え、朽ちてゆく。当たり前よ。理由から逃れれば自己崩壊するのが人形の理……私は、どうして自分が死ぬのか分からなかったけど、……不安は無かった。心は満ち足りてた。私には、心があって、そして、人を好きになって、悩んで苦しんで……生きているって思ったから。
……でも、死ぬ間際に、私は、真実を知った。全て、全て、定められたものだと知った。私が消えてしまう理由も、全部」
人形は、生者の都合で作られるもの。
それが、どれだけ残酷なものか、スレンには今、この時まで深く考えることは無かった。
そして、知った時には遅すぎた。
「私は、生きたいと思った。もう一度、会って、確かめたかった。土くれなんかじゃない。燃えるような憎しみに身を委ねて、それでも、あなたを愛していると言えるのか―――」
言葉と共に、トーヤの側近くで地が沸き、牛の頭を冠した化け物―――三蟲がずるりと這い出て来た。
ガチンッと音を立てて、家の中心、天窓を支える二本の柱が折れる。襲いかかる炎と家屋の残骸を、一瞬で辺りに浮かび上がった、幾本もの白銀に輝く鋭利な刀が裂き、薙いだ。
衛士は信じられないと目を瞠った。
言葉通り、剣舞で渦巻いた風が炎を晴らしてゆく。
ピッピッと風に触れた側から皮膚が切り裂かれた。
余りに美しく練り上げられた金気は、相剋関係にある炎ですら、負かし、犯し、破る。その圧倒的な力の中心で、少女は嫣然に微笑んでいた。
「―――――太白窮奇」
衛士の噛みしめた唇から、漏れ出た名前に、トーヤはゆったりと頷いた。
刀剣を自由自在に生みだし、気に喰わないもの全てを切り裂き殺すという金気の妖鳥、窮奇。
「清で、町を襲ったのも、君だった訳だ」
一晩で、町人全てが切り裂かれ惨殺された現場から、ふらりふらりと立ち去ったという少女。
「お腹が、空くのよ。窮奇は力が大きい分、こちら側で消費する生気が大きすぎるし、本来の力を戻すためには、人間か異能者かなんて選んでいられない。いえ……異能者に感づかれる前に、食事を終えて去りたかったから。うふふ……ここのみんなも、とっても美味しかったわ」
「そんな……トーヤ、お前が、そんなこと」
未熟児で生まれた子羊が死んだ時、目を腫らして泣いていた少女は、もうそこにはいなかった。
トーヤの唇から零れた唾液が線を描いて顎を伝う。
彼女は恍惚に溺れた表情で、天を仰いだ。
身体が変形してゆく。爪が伸び、身体にきらりきらりと瞬く白い鱗が浮かび上がってゆく。
「造られた、もの……? この気持ちも、全部?」
呆けたように、ツェツェクが呟いた。
その腕を衛士が強く掴み無理矢理立たせる。
「とりあえず、距離をとるんだ。スレン!! 行くよ、ツェツェクちゃん」
「あ、ああ」
地から一斉に突き出た刀剣を、間一髪で避けた衛士は、ツェツェクを胸に抱いたまま転がった。スレンもそれに続く。
カッと網膜を焼く白光と共に、大地を轟かす衝撃が走り空へと一匹の妖鳥が舞いあがった。夕闇の中に、その白は太陽の光よりもなお明るく、地上を照らす。
その降り注ぐ光の粉は、一つ一つが剃刀のようだった。星のように、美しく瞬きながら、触れた側から赤く地が滲む。
煤焦げた家々が粉雪のように地へと伏した。切り刻まれたのだ。
「トーヤ……」
茫然と空を仰いでいたスレンは、突然、打たれたように走り出した。
「スレン!?」
衛士の制止の声も振り切って、形振り構わず集落の家々を覗きこんでゆく。
「親父!! みんな!!」
血の跡の残る絨毯に、一つとして遺体は無かった。ただ、そこには無造作に放られた土の塊があるだけだ。
「どこだ、みんな!! どこに、どこに……」
笑い声も、たわいない挨拶の声も、一つとして聞こえてこない。
誰一人として、いない。埋葬すべきものも、何もかも……
「嘘だ。人形だなんて、嘘だ。こんな、こんな……こんなの」
「…………スレン」
衛士の気遣わしげな視線から逃げると、スレンはツェツェクに詰め寄った。
「ツェツェク、お前、知ってたのか」
少女は、耳を塞いで強く首を振った。
「知らない。知りたくない!!」
「……知って、たのか」
「私、私、本当にあなたのこと……!!」
振り切るように顔を上げたツェツェクは、そこではっとして口を噤んだ。
「あなたのこと……? これも、全部、嘘なの? なら、私の心は…………」
膝から力が抜けたように地にへたり込む。
スレンは、一度、グッと拳を強く握ると踵を返した。
「何処いくんだい、スレン」
「…………エージ、ツェツェクを頼む」
「何言ってんの。彼女にはもう君しか」
「……ダメなんだ。俺は、…………彼女に合わせる顔がない」
「スレン? どうしたんだ」
「俺も……」
スレンは、力なく項垂れた。
「俺も、人形なんだよ」
「え……」
衛士が目を見開くのが気配で分かった。スレンは吠えた。
「お前が、『矢背の神殿』なんだろ!? エージ!!」
「誰から……聞いたの」
「お前は、封じられた力を取り戻そうと、鍵である俺に会いに来た。お前のしようとしたことは、鍵の破壊……俺という存在がなくなること。だから、お前は、二年もグダグダここに居座ったんだ。お前は冷酷に徹しきれない。人形すら、人間のように扱うお前には、出来なかった。出来なかったんだよ! 俺が死ねばこの集落の者もみんな死んでしまうと知っていたから!!」
衛士は、絶句した。
「俺が、影武者なんだろ? 造られた、人形なんだろ?」
絞り出すように、掠れた声でスレンは尋ね、それから背を向ける。
衛士は何も言わなかった。ただ、一度、虚しく引き留めようとした手が虚空をかいて、力なく落ちる。
「スレン……? どこに行くの?」
追いすがろうとしたツェツェクの腕を、衛士は強く掴んだ。
「……エージ!! あんた、道士様でしょ? あんたが行くべきじゃない。どうして力のない、スレンを止めないの!? 死んじゃう!!」
「君も、知りたいだろ? 人形の可能性を。これは、君自身の問題でもあるんだから」
眦を持ち上げて、睨みつけてくる少女を、衛士は真っすぐ見つめた。
「…………可能性なんて」
ツェツェクの瞳が揺れて、大粒の涙が一つ、零れ落ちた。
「ある。俺はね、信じてるんだよ」
神聖な祈りの文句を呟くように、衛士は、信じている、と繰り返した。
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