「泥人(ニーレン)」
あらゆる物音を吸い込むような静けさのなか、木々が魔人のように不気味な黒い図体を揺すらせた。
風は身体の奥の奥まで痛みが走るほどに冷たい。
オウオウと大地を揺るがす唸り声は、多くの者の悲痛な叫び声だった。
助けを求めるもの、呪いを吐くもの、仏に祈るもの……その合間に、無邪気に歌う声が混じる。
真丸の月が虚しく見下ろす大地で、幾人もの身形の貧しい者らが踊るように穴を埋めていた。ざっくり、ざくりと土を掘っては放る音が拍を取る。
戻らんしゃい 戻らんしゃい
矢背の神殿
スレンは、恐怖に立ちすくみ、ポッカリと大地に空いた穴を見つめていた。
足が、釘付けにされたように動かない。
中でウジャウジャと感じられる気配の正体を、詮索することは躊躇われた。
彼は、その中身を知っている。
うっかり覗こうものなら、汗と涙で汚れた哀れな人々の顔が、闇に浮かび上がるのを、知っている。
ふと、穴の奥でもがき苦しむ無数の人影が、水を打ったように静まった。
それから、鳥が一斉に羽ばたくかのように、地を掻きむしる音が這い上がって来る。
「奴が来る! 奴が来るうううううう!!」
「お願いだ、後生だから……助けてくれ、助けっ、助けてくれええっ!!」
スレンは、一秒ごとに命がすりへってゆく思いに、腰が抜けたようにうしろ足からへたり込んだ。
「ぎゃあああああああああっ」
耳を劈く断末魔の後、グチュグチュと何かが食事を続ける音が反響した。
飛び散る血飛沫が、優しい雨跡のように黒い染みを落とす。
スレンは、身体を引きずるようにして、後ずさった。
(血は、大地に眠るアレを呼ぶ)
穴から白い猫の尻尾のようなものが伸び出てきた。
それは、名残惜しそうに、辺りを彷徨い、大地の黒点を一つ一つ丁寧に舐め喰うと、やがて、しずしずと穴の中へと戻って行った。
もう、悲鳴もすすり泣く声も聞こえなかった。
耕そなぁ 育てよなぁ
身分卑しい者らは、手を休めず、楽しげに歌い続ける。
何のための供養でショッ
龍招くよ 土くれどもの 剣喰う龍
ざくり、ざくり。
土を掘っては穴へと放る音、音、音……
矢背の姥等が 言うことにゃ
神殿 鳥ば射殺して
雨に乗って 戻るとな
耕そ 育てよ 魂ッ子積も
世を案内せし 土くれどもの 命の源
呪うように、祈るように、彼らは歌う。
ざっくり、ざくり。
戻らんしゃい 戻らんしゃい……
スレンは、跳ねる胸の鼓動を落ち着かせようと二度三度、大きく呼吸を繰り返した。
何処にも怪我はない。
彼は、自身の身体を見降ろし安堵のため息を漏らす。
怪我さえなければ、もうアレが来ることはないのだ。
けれど、彼はそこで気づいてしまった。
白くなるほどに力強く、穴の縁を掴む指に。
ぽたり。
目前の地に赤い滴が落ちた。
スレンは頭に手をやって、込み上げる悲鳴を飲み込んだ。
いつの間にやら、額が割れ、生ぬるい命が流れ出ている。
その指は、ググッと力を込めて、穴から身体を引き上げた。
スレンは、身を翻し逃げだそうとして―――蹴躓いた。
(アレが来る。アレが来るのに……)
一度、途切れた勇気のなんと脆いことか。
スレンには、もう立ち上がる気力は残っていなかった。
ひたり、ひたりとそれは、ゆっくりと近づいてくる。
ついに冷たい感触がスレンの足首を捕えた。心からいっさいの情念が消え失せて、恐ろしさにどうにかなってしまいそうだった。
(やめろ、離せっ!!)
振り返ったスレンは、鏡の中の少年と対峙した。
ゴワゴワとした短く硬い髪、神経質そうに口角の下がった唇、くっきりとした眉毛の下、少し垂れ下がった目尻、薄茶色の瞳……そこに立っていたのは、まさしく自分自身。
「集落から出てゆくのか」
彼は、責めるように静かな声音で尋ねた。
スレンの内から恐怖が嘘のように引いてゆき、凪の海のような平静さが訪れる。
彼はもう一人の自分を睨みつけて、おもむろに頷いた。
「ああ、出て行くとも」
スレンの答えに、それはばらばらと音を立てて壊れた。
まるで焼き菓子を靴底で踏み砕いたような残骸が地に横たわる。
……悲しい土くれの最後だった。
「出て行く……もう、決めたんだ」
スレンは、心に言い聞かせるよう繰り返した。
そして、その粘土の欠片に手を伸ばし―――