一章 大股の一歩を踏み外し
頭への血の巡りが鈍い気がする。視界が霞み、瞼が重く、黒板の文字が踊って見えた。
頭が前後に揺れるのを感じるが、その自身が生み出す揺れが心地よく、眠りへと誘われる。
僕は久々に徹夜をした。徹夜をして、本を読んだ。昨日盗み見た表紙、少女が読んでいたものと同じ小説だった。わざわざ盗み見てまで読みはしたのだが……読み終える事は出来なかった。それだけではなく、余り内容も理解出来なかった。本を読んだのなんて、中学生の読書感想文の時以来だ。高校の読書感想文は中学の頃読んだ物でもう一枚感想文を書いたくらいだし。べつに読書が嫌いという訳ではないが、集中力が続かないのだ。
だけど、今回は動機が不順な所為かメラメラと滾る情熱の元、徹夜までしてしまったという訳だ。一晩かけて、五〇〇ページほどある小説を、三分の一ほど読み終えた。僕が死んでしまうまでに読み終われる気がしなかった。
(そんな事、縁起でもないから言うべきではない)
以上の経緯から、午前中の授業は眠りこけるかグロッキーな状態で過ごしていた。
「おいおい、お前が読書なんて珍しいな。しかも、昼休みにまで」
と言う訳で昼休み。僕は眠気眼を擦りながら、読書を続けていた。ページの上で文字は滑るし、頭の中で滑るしで、全く内容が入ってこないが、それでも音読に近い形で無理やり読み進めていく。
「……しかも古典SFなんて。チョイスは悪くないけど、いきなり読むには厳しいだろ」
先ほどから話しかけて来る親友がうるさい。その所為で余計に集中出来ない。仕方ないので、世間話に乗っかる事にする。眠気覚ましにもなりそうだし。
「やっぱり、僕の頭が悪い訳じゃなく、元々読み辛い本って事で良いんだ」
「多分両方。普段引きこもってる人間が、いきなり地方開催のマラソン大会に参加する程度。フルマラソンまではいかない感じ」
「分り易いのか分かり辛いのか微妙な例えをありがとう」
――んー、最初の趣旨とは変わってしまうけど、彼女に読み易い本でも訊いてみようかな。
彼女が読んでいる本を片っ端から読んでいくという作戦は、余りにも前途多難そうだし。
「それで、最初の質問に戻るんだが、何故にそんな本をいきなり読み始めたんだ? 何かの影響以外有り得ないとは思うけど……そんなテレビでもやってたか?」
「なんで、僕の情報源として初めに出てくるのがテレビなんだよ……」
「だってお前、典型的な無趣味人間じゃん。人望がある訳でもないし、クラスメイト以外に友達を作る行動力もないし、ましてや新聞を読むような人間でもない」
耳に痛い話は無視し、取り敢えず質問にだけ答える事にする。
「好きな娘の影響だよ」
「なんだ、そういう事か。と言う事は結局この間のは悪い夢か、質の悪い冗談だったのか」
「『この間の』っていうのがあの少女の話をしてるなら、冗句でも夢でもないぞ」
露骨に疑いの視線を向けられる。やっぱり、あの少女のチョイスはどこか現実離れしているという事なのだろう。
「いやいや、だってお前がそんな本を読み始めるのなんて、相手の趣味以外有り得ないし……嘘だよな? それ、流石に小学生が読んでる本だとは思えないぞ」
「あっ、やっぱりそうなんだ。やっぱりあの子、凄いんだなぁ」
僕の言葉に親友は深い、それでいてわざとらしい溜息を吐く。
「もし仮に、お前が本当に恋をしてるなんて嘯いてるなら、言っとくが、そんな誰も幸せにならない恋はやめておけ」
(全く持ってその通りだ。誰もがそう思うだろう)
「ロミジュリじゃないけど、恋ってダメだと言われるほど燃え上がっちゃうよね」
だから、駆け落ちや、心中なんて向こう見ずな行為があるんだろうし。
「……お前が一人で盛り上がってるだけだろうが! 仮にお前とその娘が愛し合ったとしても、回りはお前が少女を拐かしたとしか思わないだろうな」
「べつに、それでも構わないけどなぁ」
「お前が良くても、その女の子が可哀想だろうが」
「愛し合ってる二人がそこにいるのに、何が可哀想なんだ?」
「……ああ、そういや、お前は……お前はそう言うヤツだったな。他人の恋愛観にとやかく言うつもりはないけど、いつか身を滅ぼしても知らないぞ」
心の底から僕の事を心配してくれているというのは分かったけれど、それは余計なお世話というものだった。僕は恋に生きて、恋に死ぬ。本能的に生きたいというのが、僕の願望だった。
そしてその中にはきっと、コイツの言う『破滅』も含まれているのだろう。
「いいか、さっきの話や昨日の話が本当だったとしたら、俺はお前を軽蔑するし、友人をやめる事だって考えるからな」
「あー、そうか……そうか……、悪かった、御免な」
「なんだ、案外すんなりと諦めるんだな」
「そうだね。ちょっと今回の恋ばかりは、そう簡単に諦められそうにないんだ」
「そっちかよ!? 俺は数秒の逡巡もなく切り捨てられたのか!?」
コントみたいな驚き方をする親友だった。いや、もう他人なのか。凄く残念だ。
「だから悪いって」
「そんな一言で片付けようとするなんて、どんだけ薄っぺらいんだよ……。もう良いわ、お前の熱が醒めて、それでもお前が問題起こしてなかったらまた話してやるよ。後、謝ったらな」
「はいはいよ、僕は良い友達を持った。いや、持っていたよ」
恋愛なんて、綺麗なものじゃないんだよ。
(病む快楽と言う物も、世の中には少なからず存在するから。
正常じゃ居られなくなる事に対する憧れと言う形で――)
あっ、今のはあくまで読書の感想という事で。
◯
状況の異質さに慣れつつあるそんな四日目。友人に絶交を言い渡された日の放課後。連日通り、僕は公園を訪れベンチに座っていた。僕の隣にはいつも通り読書を続ける少女。意中の女性と一緒にいるというだけで、心臓が高鳴って、眠気は一時退去中だった。何とも言えない空気に和みつつ、周囲を観察する。
公園に植えられた数本の桜の木、そこに蕾が見受けられた。開花までもう少しかもしれない。
その下で遊ぶ小学生達の喧しい叫び声が、公園内で響いている。まるで僕まで小さなの頃に戻ってしまったような錯覚に陥ってしまう。
「ねぇ、貴方」
「僕?」
「……そう、その僕ですよ。他に誰がいるんですか」
「キミ、なんか、見えては言えない物が見えてそうだし」
「……バカにしてます?」
ジットリとした視線で見上げられて、変なトキメキが胸の中で生まれた気がする。ヤバい、この子になら何をされても良いと思ってしまう。
「……良いです。私が訊きたいのは、こんな所でボーっと座ってるだけで愉しいのかって事」
「愉しいって言うのとは違うけど、幸せな気分にはなるよ」
「幸せ……?」
小首を傾げながら、心底疑問だとでも言うように訊ねてくる。いろいろと反則だと思う。
(何がだ。さっきから何を考えてるんだ)
「うん。恋してる相手が近くにいればいるほど、それだけで、幸福度って高まっていくんだ」
「きも……っ」
吐き捨てられた。
「えっ!? 酷くない!?」
「酷くないです、有り得ないくらい気持ち悪かったです。何を、しかも、よりにもよって小学生に語ってるんですか!?」
僕の愛の言葉は全力で拒否された。この年頃の子供は好意を素直に表現されると、感情が戸惑いから直接怒りに繋がってしまうのだろうか。道のりは長そうだ。
「いやー、なんかキミといると、小学生といるような気にはならなくて不思議な感じがするよ。男性より女性の方が精神的に早熟って言うけど、その所為かな?」
「……早熟って言ったって、一、二年の差でしょう、きっと。もし私と貴方が対等だって感じるなら、貴方の精神年齢が相当低いって事ですよ」
「なら、それでも良いかもなー」
「ど、どんだけ、どんだけ本気になってるんですか、貴方」
中途半端な想いだったら、小学生に声をかけるなんて危険は冒さないしねぇ。
「うーん、恋愛ってなると、歯止めが効かなくなる性格なんだ、僕って。始めは上手くいったように見えても、結局それで失敗しちゃったりして。真っ直ぐ過ぎる想いって、相手になかなか受け入れられないんだよえねぇ」
(だっておかしいから。きっと他人はそれを愛とは呼ばないから)
愛情と言う物は二人の時間を共有することで、徐々に育んでいくものだからだろうか。
世間一般で言う愛情が、そうした物を指すのだとしたら、僕の中にある独りでに肥大化した『コレ』は愛情とはかけ離れた化け物なのかもしれない。
「……治そうとは思わないんですか」
「それは友人にも言われるんだけどねぇ。性格ってそう簡単に矯正出来るものじゃないし、矯正という意識がある時点で、それは自分を偽る行為だからね。何より、他ならぬ僕が今の自分を嫌いじゃないし。だから、今のままの僕をそのまま好きだって言ってくれる人を僕が好きになるまで、突っ走るつもり」
「……現れるといいですね」
「他人ごとじゃないよ!? もしかしたら君が、僕の運命の人なのかもしれないからね」
「そう言う事、公共の場で叫ぶのはどうかと思いますよ。通報されても、おかしくないです」
「それもそうだ……どうもキミが相手だと喋り過ぎちゃうな。話し易いって良く言われない?」
「言われませんよ。むしろ、無表情だから、話しづらいし、気持ち悪いって言われるくらいです。だから、今の言葉も、私には嫌味にしか聞こえません」
(可愛くない子供だと思う。素直じゃないのに、構って貰いたさそうな所が特に)
少女の声色が、僅かに暗くなった様な気がした。
そんな少女も素敵なんだけど……あっ、こう言う部分が嫌われる要因なのかもしれない。
「ちょっとキミに気にしてる部分に触っちゃったのかな……でも、ほら、僕の顔とか見てさ、つまらなそうだなぁって感じる?」
彼女のくりくりとした大きな瞳が、再び僕を見詰める。この距離で見つめ合うという事に慣れていないのか、瞳が忙しなく左右に動き、少女の緊張を如実に表していた。
「まー……はい、認めます。貴方は楽しそうです」
「今、こっち見てなかったよね?」
「ふ、雰囲気で分かりますから」
「そう? まっ、分かってくれたなら良いけど」
「……貴方って本当に恥ずかしい人ですね」
「良く――いや、偶に言われるよ。あっ! そうそう、キミに一つ訊きたい事があったんだ」
「何ですか? ……パンツに色とか訊かれたら、もう迷わず通報しますからね」
少女の口から飛び出した言葉に思わず吹き出しそうになる。あんまりパンツとか、そんな綺麗な口で発するのはどうかと思う。でも、何色なんだろう。黒とか、穿いてそう。でもピンクとかも……いいかも。ああー、こう言う妄想はやめやめ、いつか見せて貰えばいい話だし。
(余り鮮明に想像するのは止めた方がいいと思う)
「今までの話の流れから、どうしてそうなるのか疑問でしょうがないんだけど……」
「いや、恋になると全力で間違った方向に突っ走るって、貴方が言ってたので」
「踏み外し過ぎだよ、それは。いくらなんでも、そのレベルの踏み外しはしないよ」
「小学生の女の子を好きになっている時点で、崖っぷちを通り越して、全力でゴム無しバンジーですけど。もう、一体貴方が何処に向かいたいのか私は分からないです」
「それは、もう置いておこう」
もう自覚はしてるし、そこを責められると言い逃れできないし。何より僕は自分の恋心に忠実に従っているだけだから。
「それで質問なんだけど、昨日キミが読んでた本あるじゃない?」
「はい。あれがどうかしましたか?」
「僕も興味が湧いたから、読んでみようと思ってさ。昨日、早速本屋さんで買ってみて、昨日読んでたんだ。だけど僕には難しすぎたみたいでね。もうちょっと分かり易い小説で、キミのおすすめとかないかなーって思ったんだ」
「はぁ……、なるほど。つまり、私と同じ本を読んで、あわよくば感想を言い合ったりしたいと、そんな気持ち悪い事を考えてたんですね」
「そうだね。凄く楽しそうだなって考えてた」
「そこは狼狽えるか否定してくださいよ」
「もう、気持ち悪いってのはキミの照れ隠しなんじゃないかって思い始めてるから」
「て、照れ隠しな訳、ないじゃないですか……っ」
「そこで吃っちゃうところとか、もう完璧だと思う」
今の会話を録音録画したいくらいに、可愛らしすぎた。
「おすすめと言っても、私、大した物を読んでる訳じゃないですよ」
「べつに大した物が読みたい訳じゃないからね。キミが面白いと思ったものを、僕も面白いって思いたいだけ」
「笑わないって誓ってくれるなら……教えます」
「笑う訳ないじゃない。だって、本当に何だって良いんだから」
「わ、分かりました……だったら――」
そんなに恥ずかしかったのか、僕等の付近には他に人影がなかったにも関わらず、内緒話をするように口を耳に寄せられる。柔らかな吐息が耳に触れ、それだけで幸せな心地になってしまう。で、肝心の内容を忘れてしまう。
だから再度、本の名前を教えてくれと告げると、
「……舐めてるんですか?」
と、若干ドスの効いた声で言われてしまう。
――あっ、凄い、ガチで怒らせてしまったようだ。
「ご、ごめん。昨日、その本を読むのに徹夜しちゃってさ、少しだけ意識が飛んじゃってた」
我ながら酷い言い訳ではあったけれど、少女はそれで納得してくれたようで、もう一度僕の耳元で本の題名を囁いてくれた。その題名は、昨日盗み見たタイトルとは打って変わって、僕でも知っているような、有名作品のものだった。
「でも、どうして僕がこのタイトルを聞いて笑うと思ったの?」
「だってこんな難しい物読んでるのに、好きな本は児童文学なんて、恥ずかしくないですか?」
少女の中にもちょっとしたプライドがあったのだろうか。子供らしく、それでいて可愛らしい見栄と呼んだ方がいいかな。
「うーん、僕は全然本を読まないけど、本ってその年齢にあった物がある訳で。だから、面白いと感じるものも、歳で違ってくると思うんだ。だから僕は笑わないよ」
……そもそも笑えるようなレベルに僕が達していないし。
「でも、一つ安心した」
「……何がですか?」
不貞腐れたように仏頂面をしているのが可愛らしい。彼女は笑ったり、怒ったりとして感情を示す事は少ないけれど、無表情の中にも感情が見え隠れしているのだとその時に気付いた。
(そう言った面も含めて、可愛くないと思う。素直に笑ったり、怒ったりすれば良いのに)
「キミも『あの本は難しい』って感じてたことに安心したんだ」
「それは……」
自分の失言に気付いたのか、彼女は俯いてしまう。あんまり気にする必要はないと思うけど。
「私は、小学生ですから仕方ないですけど、貴方が難しいと感じるのは少し問題だと思います」
「それは認めるけど……。でも、どうしてそんな難しい本ばかり読むのかな? さっきまで読んでたのも、難しそうだったし」
僕の質問に、少女は目を逸し、悩む様な動作をする。「答えたくないなら、答えなくても構わない」と言おうとした時、少女が言葉を紡ぎ始めた。
「私は……早く……大人になりたいんです」
(きっと、コイツが成りたいのは大人じゃない)
少女の言う『大人』という価値観は、僕の考えている『大人』とは少し異なっているような、そんな気がしたのは何故なのか。少女の表情が、憧れを語る時の表情に見えなかった所為か。
「だから、せめて価値観だけでも……大人の物になろうと思って」
少し意味深な少女の言葉に、僕は思わず「それは一体どういう事なのか」と訊ねたくなってしまった。しかし少女は「いまのは失言でした」と言い残すと、いつもの様に逃げ去っていってしまう。その背中が震えていた事に僕は気付いてしまう。
(背中と言う物は存外に物を語るのだと言う事を知る)
「大人になりたいって……? うーん?」
あのくらいの年齢ならば、親や教師が自由なものなのだと勘違いして、大人になりたいと感じる事もあるだろう。だけど僕は、少女の言葉がそう言った『普通の感性』とは根本が異なっているような気がした。早く大人になりたいと思って、取った選択肢が『難しい本を読む』というのは意地らしくて、可愛らしいとは思うけれど。
「取り敢えず、教えて貰った本でも買ってこようかな」
昨日の今日だから、近所の図書館で借りてきた方が財政的には優しいのだが、やはり彼女に教えて貰った本だから、自分も買ってみたいという想いが強かった。
「まっ、今まで浪費する趣味なんて物もなかったし、構わないか」
その日僕は、児童文学って意外と高いんだなという事を知りました。授業料が高かったです。